2008年3月25日火曜日

38. グリーンマップはブルー


 一つ年を重ねたら、いろいろな動きが活発になってきた。冬木の情報誌に掲載される予定稿は、彼自身に現場経験が加味されたことでなかなかの出来となり、higata@メンバーも概ね納得。冬木レポート本文の他に、参加者の声なんかも流してもらったことで、メーリングリストはかつてない盛り上がり。管理人冥利に尽きる一事である。
 打上げカラオケでメンバーの音楽的な傾向が掴(つか)めたことで、ちょっとしたプランを考え付いた千歳だが、実行に移すには共同発案者の業平の存在が欠かせない。バンドを組んだと仮定して、どういう楽曲が行けそうか、MIDIデータのやりとりが始まったのも同じ週のことである。
 そして、櫻とのメールのやりとり。二人してケータイを持っていないので、日常的に声が聴けない。その分、思いが募り、ついメールしちゃうことになる。平日夜のお楽しみが増えたのもこの週。
 ライター系、webデザイン系の仕事はこれまで通り。KanNaの管理費は、今月中には振り込まれる見通し。千歳は充実の秋を送っている。

 一日一千ポイントが七万点に達した、十月二十日。節目でもあるので何かありそうな予感のアラサーご両人だったが、翌日に千住桜木デート(?)が控えていることもあり、自分達でも不思議なくらい冷静だった。驚いたのは午後、業平が現われたことくらいか。

 「まさか、本多さんがいらっしゃるとはねぇ」
 「彼も『千ちゃん、何で?』とかって驚いてはいたけどね。まぁ痛み分けかな」
 「でも、登記の話って、そんなに前もってしないと駄目なのかしら?」
 「いやぁ、登記関係だけじゃなかったような気もするけど」
 「そうね。帰り際に『今度は私の記念写真も』とか言って、ツーショットですもんね。文花さん、気があるのかなぁ」
 王子神谷のとあるファミレスで、モーニングメニューをいただきながら、昨日の出来事を語り合う櫻と千歳。十時を回ったところだが、指定のバスに乗る時間まではまだ一時間余りある。
 「それにしても千歳さんの履歴書見た時の反応、おかしかったですね。『あら、先週の金曜が誕生日だったの? 櫻さんも意地悪ねぇ』ですって。どっちが意地悪よって、こっちも言いたかったけど、フフ」
 「さすがのチーフもそういう個人情報まではご存じなかった訳で。でももうバレちゃったからなぁ」
 時間があるのをいいことに、我らが上司をネタにドリンク片手でこの調子。ススキが近くになくとも、きっと当人はクシャミ連発でお困りのことだろう。

 バスに乗るのは十一時二十分頃。付近を少々散歩しようということになって、十一時前に店を出る。団地や商店街の一角をウロウロした後、余裕を持って停留所に戻って来る。だが、どうもおかしい。「あれ? 北千住行きって出てないんだけど...」
 地図はお得意の櫻だが、バスの路線図は少々読み損なっていたようだ。間違いに気付き、北本通りを王子方面に戻る途中、そのバスは右折のウィンカを点けて、車線変更したところで停車。「あっちだ、王子五丁目」「キャー」
 ドジな二人が横断歩道を走る姿をいち早く見つけた六月少年は、運転手に声をかける。
 「すみません、あの二人、乗せてあげてください」
 信号が変わっても直進車がすぐに来ればこのバスはまだ発進することはなかったのだが、こういう時に限って反対車線はガラガラ。スムーズに右折してくれちゃうもんだから、さぁ大変。だが、六月が気付いてくれたおかげで、バスはゆっくり二人のランナーを抜き去ると、停留所でしばらく待機。滑り込んで来たお二人はハァハァやりながらも、めでたしめでたし、となる。
 「ピッピー、駆け込み乗車はご遠慮くださーい」
 「あ、六月君...」
 櫻がICカードをピピとやると、少年は咳払いした上で、「運転手さんに御礼言わなきゃ」と説諭する。
 「あ、ありがとうございます」
 「六さんも、ありがとね」 バスカードを通しながら、千歳は苦笑い。
 とりあえず、バス車内集合でよかった。危うく乗り損なうところである。後方では、小梅嬢がニコニコしながら座っている。
 「いったい、どしたんですかぁ」
 「いやぁ、この辺て不慣れなもんだから、乗り場を間違えちゃって、そのぉ」
 「ちゃんと彼氏がリードしなきゃ」
 「は、ごもっとも...」
 「六月君はその点、大丈夫よ、ね?」
 またしても小梅にからかわれている千さんである。こうなると彼女も黙ってはいない。
 「ちょっと、小梅さん、千歳さんヘコませないでよぉ」
 「だって楽しいんだもん。櫻さんだって、よくやってるじゃん」
 「ま、まぁそうだけど...(苦笑)」
 駆け込み乗車の分際でどうにも分が悪い。落ち着かない二人に揺さぶりをかけるように、バスは豊島七丁目界隈のクランク状の曲がり角を縫い進んでいく。
 「えっ、こんな路地をバスが...」 と櫻がおののく一方で、
 「へへ、楽しい」 と少年ははしゃぐ。鉄道好きは重々承知だったが、バスも宜しいようで。

 隅田川を越えると、巨大建造物が現われる。
 「ハートアイランド?」
 「あぁ、船からも見たじゃない。新田(しんでん)リバーステーションの近く」
 「漂流ゴミに気取られてて。気が付かなかったんだな、きっと」
 後ろから若い二人が割り込んでくる。
こ「ねぇ、櫻さん、今日は結局、蒼葉さん来れないの?」
さ「そうねぇ、今、油絵の方、描き始めててね。どうもハマっちゃったみたいなのよ」
む「そっかぁ」
さ「地元でやる時にはさ、ぜひ四姉妹そろって、でどう? 平日でも土曜でも」
こ「お姉ちゃん次第かなぁ...」
 パンケーキご好評につき、初音は日曜が動きにくくなってきて、今日は不参加。だが、それも限度がある。志望校を絞り込まないといけないし、受験勉強も本格化させないと... そんな姉を思い、ちょっと曇りがちになる妹。櫻はそんな小梅に、蒼葉と重なるものを見たような気がした。

 十一時半過ぎ、ここからがこのバスの目玉である。荒川の土手を走るコース、その距離約四km。左に荒川、右に隅田川、リバーフロントバスと呼ぶに相応しい。
 小梅と六月は「わぁー」と歓声を上げている。窓越しに見る荒川は、濃い青を蓄えつつ、降り注ぐ陽光をその青に溶け込ませ、程よい輝きを放っている。進行方向左側の席は特等席である。その光景を鑑賞している間、四人に言葉は要らない。土手上と名の付く停留所に近づくとアップ、過ぎるとダウン。その上り下りが予想外ではあったが、荒川が見え隠れするのがまた妙味。櫻と千歳は「おぉ」と唸っている。
 「あの黄色いのって、セイタカアワダチソウでしたっけ?」
 「はぁ、よくご存じで。土手上から見るとセイタカな感じしないけどね」
 「遠くから眺める分にはまだいいんでしょうけど、近くで見るときっとスゴイんでしょうね」
 「観賞に向く植物とは言えないのは確か、かな」
 河川敷を黄色に埋め尽くすその帰化植物は、明らかに荒川の青とは一線を画している。自然界にも色彩の不調和というのがあることを示していると言えそうだ。特に扇大橋の下の茫洋とした黄には脅威すら覚える。その黄帯を縫うように、走る人、人。ランナーの列が下流に向かって続いているのが目に入る。
 バスは再び土手下の道路を走る。小台から目的地の千住桜木までは何とこのまま。左側の車窓は、ずっと土手の緑である。川岸が望めない以上、南実が話していた自然再生工事の現況も視察不能。下車して橋に出て、上流側を遠望するしかなさそうだ。

(参考情報→王子神谷から千住桜木へ

 「着きましたねぇ、千住桜木。皆さん、ようこそ!って感じ」
 「船から見るのと違って、何か賑やかというか、パーッて。広がりを感じる」
 第一印象は良好なようである。六月は早速地図を見つけて、バスが通ってきたルートを確認している。
 「櫻さん、イラストマップ用の紙は?」
 「あ、そうそう、ちょっと待って」
 櫻は予め千住桜木界隈と西新井橋を中心とした白地図を用意してあった。これにイラストを描き込み、必要に応じてアイコンシールを貼る、という手筈である。今日は「千住桜木グリーンマップ」のトライアル。目の前にある周辺地図と、その白地図を見比べる四人。
 「お化け煙突って、この町にあったんだ。知らなかった」
 「お化け?」
 六月は地図に書かれてある解説を見て、合点が行ったような行かないような顔をしている。
 「四本の煙突の配置が絶妙だったらしくて、見る場所によって、一本から三本まで見え方が違ったんですって。人によって証言が違うから化け物呼ばわり。別にお化けが出た訳じゃないのにね」
 小梅はアイコンシールを見ながら、何か考えている。
 「ってことは、そういうのってどのシール貼ればいいの?」
 「今も残ってれば、[アートスポット]かもね」
 千歳がとぼけたことを言うので、櫻はあわてて訂正する。シールは貼り直しが利かない。ここは確実に行きたい。
 「ま、ひとまず[歴史あり]ってとこじゃない?」
 「オイラ的には[悲しい場所]かも。親しまれてたのに解体されちゃったんでしょ?」
 六月は時々ジーンと来ることを言う。姉の影響なのかも知れないが、そのセンスは独特である。白地図の下の方、隅田川沿いに「涙する目」シールがこうして貼られることになる。

(参考情報→グリーンマップとアイコンシール

 一行は、西新井橋の歩道へ。
 「どの辺が歩けるか、まずは下見しないとね」
 「下を見るから、下見?」
 またまた彼氏がつまらないことを言うので、彼女は少年少女を連れて、そそくさと橋の中央へ。
 「さ、千歳お兄さんは放っておいて、行こ行こ...」
 「あー、そんなぁ」 と言いつつ、お兄さんは実際に下を見てみる。人が歩けるような水際はなく、ヨシが覆うばかり。干潟状になっている僅かばかりの砂地には、漂着ゴミが少々、そして白く濁る泡・泡。これでは現場踏査は難しそうだ。
 中央部にいる三人は、上流側の川景色を鑑賞中。小梅は、予備の白紙をクリップボードに挟むと、フリーハンドでアウトラインをスケッチし始める。
 「左側のあの木の橋桁みたいの何ですか?」
 「あぁ、何て言ってたっけな... あ、お兄さんに聞いてみよう。千歳さーん!」
 浮かない顔で千歳兄がやって来た。受け答えも今ひとつパッとしない。
 「粗朶(そだ)とかって聞いたような。枝を組み合わせて枠を作って、その中にまた廃材とか木切れを入れて。石を入れて沈めると、粗朶沈床(ちんしょう)? 漢字で書かないとわからないかな」
 「とにかく、ソダなんだそーだ」
 お兄さんがつまらんことを言うもんだから、若いのもこうなってしまう。女性二人は意気消沈。
 正午を過ぎたところで、簡単なスケッチが仕上がった。
 「左はヨシ原と木々、で、ソダの辺りが自然再生工事関係。右には首都高速、川には漂流するプラスチック容器、と。小梅さん、さすがね」
 千歳は念のため、デジカメで同じ景色を撮影する。だが、スケッチを見た後でファインダーを覗くとどことなく違和感が漂う。全体をそのまま写し取るにはカメラが手っ取り早いのは言うまでもないが、どの辺にどんな目印があるかを瞬時に伝えるにはスケッチの方が有効。小梅の視点はまた格別である。とてもデジカメでは再現できない。
 「特徴を捉える目をそのまま地図に持ち込むと、グリーンマップが出来上がる、そういうことか...」 さすがは首席レポートの筆者、もっともらしいことを云う。

(参考情報→西新井橋から荒川と河川敷を望む

 「上流側は水辺に出れそうにないわねぇ。ソダのところも見たかったけど...」
 「下流側も下見しましょうぜ、櫻さん」
 「上を見ても下見、下を見ても下見? なぜ?」
 今度は彼女がこの調子。彼氏はここぞとばかりに、
 「さ、櫻姉さんは放っておいて、行こうか」
 少女と少年は櫻姉の味方だった。小梅は一言、
 「じゃあね」
 千歳は「クーッ」となる。前にも似たようなシーンがあったような... 珍道中は続く。

 ここまでは割と順調だった四人だが、反対側の歩道から「下見」をした途端、事態は急変する。
 「えっ、マジ?」 櫻は目を疑い、
 「ひ、悲惨だぁ」 小梅は目を見開く。
 男子二人は言葉が出ない。セイタカの黄色い一帯の周りには、大きい物では洗濯機にベッドのマットレス、細かいものに至っては、これまでhigata@他の皆々で集めてきた半年分の総量に匹敵、いやそれ以上のゴミがこれでもかと散らばっている。それも一箇所集中ではなく、いくつかの集積地に分散して漂着(?)しているから凄まじい。
 「とにかく近くに行ってみよう」
 今回ばかりは千歳の掛け声に従って、一行は移動を始める。と、サイレンとともに救急車が河川敷道路に入って来た。マラソンランナーで急患が出たことに伴うものだろう。だが、四人にはそのサイレンがゴミから発せられる悲鳴と重なって聞こえて仕方がない。救急車には構うことなく、ランナーは途切れなく走り続ける。もし彼等にゴミの声が届いたとしたら? 足を止めることも有り得るかも知れない。
 ランナーの合間を抜けて、何とか現場近くに辿り着いた四人は、橋脚の下で途轍もないものに遭遇する。
さ「あちゃー、これっていわゆるホームレスの...」
こ「でも、誰もいないみたい」
ち「主(あるじ)がいなければそれこそホームレス、いや失敬」
 推論し得るのは、例の台風増水でここいらも浸水して、家財等が台無しになり、手放さざるを得なくなったのではないか、ということ。その証拠に、テントから積荷から何もかも泥漬けのまま、散らかったまま、なのである。
 橋の上から散見された数々のゴミ袋やら段ボールやら各種容器類やらは、漂着したものではなく、住居から近いことから、かつての主が生活していた際の名残だったことがわかってきた。
 「ルフロンが言ってたこと、合ってた訳か...」
 櫻はうなだれるようにしてポツン。生活ゴミが流されて漂流、そして漂着... ここは水際から多少距離があるので、イコール漂流とはならないかも知れないが、荒川下流域のあちこちでは、水辺に近い場所で暮らす人々が大勢(たいせい)の筈。ゴミの発生抑制を突き詰めると、CSRがどうこうと言う以上に、格差とか社会構造とか、そういう根源的な話も出てくるんじゃないか... 益々足取りが重くなる櫻であった。

 「ま、今日はマップのお試し調査で来てるんだから。ここの惨状はひとまず記録しておくとして、また考えよう。櫻さん」
 「えぇ、でも...」
 河川事務所関係者のお嬢さんが今ここにいることを忘れてはいけない。小梅は力強くお兄さんお姉さんを励ます。
 「石島課長に談判します。せっかく白地図があるんだもん。しっかり描いて、シール貼って... あと、デジカメでしっかり撮ってもらえれば」
 「小梅さん...」
 悲喜こもごもの櫻は[悲しい場所]のシールのような状態になっているが、泣いてちゃ話は進まない。ゴミ関係のアイコンシールがあいにく見当たらないので、とにかくこの涙目シールを貼ってしまおう。これで涙ともお別れである。六月はさらに[リユース]のシールを橋の下付近に貼り足して、「これで少しは救われるかなぁ」
 またまたいいことを言ってくれたりする。

 生活ゴミが堆積していると、不法投棄の温床になる可能性がある。これは永代(ひさよ)先生が言っていた割れ窓理論に通じる話。だが、そこに暮らす人が「それはゴミじゃない」と言い張れば、行政側も迂闊に手が出せなくなる。不法占有者と言ってしまえばおしまいだが、河川敷などを広義の公共空間と考え、そこで寝泊りする行為を河川利用の一環と見做すと、排除の論理は必ずしも成り立たなくなるだろう。目の前の惨状は、そんな現実の裏返しと言えなくもない。
 そこへ増水に伴う漂着ゴミが押し寄せてきた。そうなるともう区別がつかない。仮に、漂着は手出しできるが、放置は手が出せない、といった理屈で処理が膠着してるんだとしたら考え物。ここはやはり市民の出番なのか。
 若い二人は、お疲れ気味の二人を引率するように歩き出す。淀んだ気分を浄化してもらうには水辺が一番。上流側は千歳が下見した通り、道はなし。だが、下流側はしっかり水際に出られるルートがある。
 ゴミにすっかり気を取られていたが、こっちの水辺では河川補修工事ってのと、水面清掃作業とやらをやっていた。ルートが確保されていたのは工事現場があるが故、だろう。補修の方は何をどう、というのがハッキリしないものの、清掃の方は窺い知ることができた。囲いの外から垣間見えるは、想像を絶する粗大ゴミ(産廃?)の山々。
 「え、水面清掃なのに?」
 「いやぁ、不法投棄を集積しただけじゃ?」
 これでベニシジミとかコサギとかがいなかったら、グリーンマップどころじゃなくてグレーマップになってしまうところ。ネガティブになりそうな気持ちをとどめてくれるのが、生き物の存在であり、アイコンシールなのである。
 シートを眺めていた六月は、蝶と鳥のシールを剥がしかけたが、小梅がすでに両方のイラストを描き入れていたので、手を止める。
 「ありゃ、両生類のシールがある。うひゃあ」
 担任の先生は爬虫類がダメ、文花はまだまだ魚類が苦手。その二つの類はシール化されていないのに、よりによって[両生類]である。東急の青ガエルはいいのだが... できればこのシールは貼らずに済ませたいと少年は思う。
 工事現場と西新井橋の間くらいに、水際に出られそうな小径が見つかった。おそるおそる歩き進んでみると、まるで異世界である。干潟面が少ない... というのも、干潟を形成するための川の働きを阻害するような無粋な工作物が設置してあるから、である。ヨシを保全するためとも思えない、丸太の堰、積石、さらには瓦礫様(がれきよう)の石をゴロゴロとネットでくるんだもの。
 「自然再生って、これのこと?」
 「ここは一つ小梅さんのトーチャンに聞いてみるか、ね?」
 頷きながらも唇をかみしめ、黙々とその物体を描いていく小梅。先を進む六月は野球の試合経過を掲示するボードの断片を発見して興奮する。「見て見て!」
さ「8・9・10・R... そっかぁ」
ち「これも監督さんに報告した方がいいかねぇ」
こ「えっと、生活ゴミとヘンテコな物体とこのボードと... やっぱ写真も見せた方がいいですよね」
 そんな四人を冷やかすように、ジェットスキーが波を立てて上流方向へ。
 「てことは...」
 「でも、逃げ場がない?」
 三十代ともなればいい大人だが、思わず足が竦んでしまう。だが、ヘンテコな堰とかのおかげで、波は消され、彼等の足元は至って穏やか。波消しの効果をまざまざと見せ付けられる格好になる。
 このまま橋の下を進んで行けば、千歳が見下ろした泡々と濁々の近くには出られる。陸(おか)伝いではムリでも、川伝いなら踏査できるのである。だが、現場主義にも自ずと限界がある。また引き波が来たら、いやいや滑って怪我でもしたらそれこそ一大事。しっかり者の二人ではあるが、まだまだ十代前半の子どもたち。危ない目に遭わせる訳にはいかない。

(参考情報→水面も水辺も...

 という訳で、千住桜木地区の水辺調査はここでひと区切り。橋の下の水際一帯には、一応[湿原・干潟]の小シールが貼られ、大波小波が描き加えられる。[こどもにやさしい]シールは残念ながら見送り。少しは水辺で安らぐことはできた? いや、まだ穏やかならない。
 「パッと見はきれいそうだったのに、よく見るとやっぱり流れ着いてるのね」
 「堰とか石とかで漂着しにくいはずなのにね」
 特大サイズのカップめん容器、古新聞、スリッパ、灯油缶、あとは毎度お馴染み袋類に各種飲料容器等々が転がっている。
 「ゴミも必死なんですよ、きっと。拾ってほしくて上陸して来るんじゃないかなぁ...」
 「六月君たら」
 またしても少年の心憎い一言。「それって、クリーンアップの指針になるね。ゴミの気持ちを考えれば、その通りかも」 追って千歳も佳いことを述べる。櫻はようやく[安らぎの場]シールのような表情に落ち着いてきた。

 アイコンシールは、地元にある「いいもの」を探り出すための手がかりである。橋の上には[すばらしいながめ]を貼ることができたのはいい。だが、橋の下に貼った[悲しい場所]の涙目にどうしても引きずられてしまう。もっと希望の持てるアイコンを考え出して、そのシールで満たしたい。秋風に吹かれながら、櫻は思う。
 元祖はグリーンマップだが、櫻が今回考えていたのは川周辺に特化した「ブルーマップ」。エリア的には満足したものの、千住桜木の良さが今ひとつ見つけられなかったのが心残り。違う意味でブルーになってしまった。
こ「今度の土曜日、持って来ます。それまでにもうちょっと埋めてみますね」
さ「あ、ありがと。お待ちしてます」
 笑みが失せている、というか、今日はいつになく浮き沈みが激しい櫻である。小梅は承知しているが、このままでいいとは思っていない。
 「櫻さん、ホラこれ見て!」
 マップの片隅にスマイルマークを描いて見せる。「これをアイコンにすればいいんですよ。ね?」
 「もう、また泣かせる気?」
 「エヘヘ、泣くなら彼氏のとこでどーぞ!」
 おませな小梅嬢であった。

 若いお二人は、十二時四十分過ぎのバスで再び王子方面に戻ると言う。
 「小台(おだい)土手近くで下車して、日暮里・舎人ライナーを見物しながら熊野前へ。そこからは都電で帰ります」
 「はぁ、さすがは六さんだね」
 「オイラまだ子ども料金でOKだから、半額のうちにいろいろ乗っておこうと」
 「それじゃ小梅さん、分が悪いわねぇ」
 「わたしは引率者ですから、いいんです。ね? 六月クン」
 引率というか、ナビ担当は六月のような気もするが、ま、いいか。

 本日も大活躍の少女と少年を乗せたバスは、ゆっくりと土手脇の道路を上り進んで行った。
 「そういや、あの二人、お昼どうすんだろ?」
 「そっか、うっかりしてた。まぁ都電に乗るって言ってたから、東池袋~サンシャインシティとか、かな」
 かく言う二人も昼食のことは後回し。どうも千住桜木ショックが尾を引いているようである。
 「あーぁ、千住櫻さんにご縁がありそうな地がこんなじゃ...」
 「まぁまぁ。今日もおかげでよく晴れたんだし。ハレ女さんが曇り顔じゃ町も曇っちゃう」
 「じゃ、少しでも良さそうなシールを貼れることを願いつつ、まち歩きしますか」
 田端方面に出るバスは本数が増えるので、時間をあまり気にせずに散策できる。[みんなの森][みんなの公園]などを貼りながら、二人は尾竹橋にやって来た。
 「あら、隅田川ってガチガチねぇ」
 「典型的な垂直護岸。川沿いを歩けるようになっているのが救いかな」
 「シールネタ... ウーン。このままじゃ[悲しい場所]どまりね」
 お化け煙突があったと思われる場所を眺めながら櫻は静かに溜息をつく。今日はどうやってもブルーマップ状態から抜け出せない。十三時半近く、ようやく帰りのバスに乗り込んでホッとするお疲れ男女である。

(参考情報→尾竹橋から田端へ

 「フフ、今日はいいんだ。ランチしたら、千歳宅へGO!だもんね」
 「本当はもっと早くお招きできればよかったんだけど、面と向かってなかなか言えるもんじゃないからねぇ。ヘヘ」
 「いいのいいの。スローラブ、いやSustainable Loveでしょ?」
 熊野前交差点で左折した際の揺れを活かし、櫻は彼の肩に頭を乗せてみる。千歳は満更でもないのだが、ふと昨日のシリアスな話を思い出してしまう。それは文花から聞いたこんな哀話...。
 「これはあくまで私の推測。南実ちゃんが隅田さんに特別な感情を抱く理由、それは... あ、驚かないで聞いてね」
 櫻と業平は階下の図書館に行っていて不在。来客もこの時はなし。カウンターでヒソヒソ、そんな状態である。
 「隅田さんの風貌がね、南実ちゃんのお兄さんに似てるの」
 「はぁ、でもそれじゃ理由としてはちょっと」
 「えぇ、あんまり言わない方がいいのかも知れないけど... でも形見がどうのって話したんですってね。つまりね、彼女にはお兄さんがいたんだけど、今はいない。北太平洋のどこかで潜って調査してた時に、離岸流か何かにさらわれて、行方、不明... あ、ちょっと喋り、過ぎたかな」
 文花はいつしか目を赤くしている。それでもなお言葉を続ける。
 「南実ちゃん、お兄ちゃん子だったの。だから、隅田さんと出会った時に衝撃受けてたみたい。慕いたくもなるし、一緒にいたいとも思うだろうし。私にはわかるんだ。でも、そう云われても隅田さんは困っちゃうわよね」
 「いえいえ。これまでどことなく解せないものを感じていたんですけど、今のお話で解けました。さぞご愁傷だったことでしょうね。でも、僕はどうすればいいんでしょう?」
 「お兄さんの代わりなんてできないものね... あ、いけない。あくまで推測よ推測。本人とよく相談した方がいいんじゃない?」
 「相談、ですか...」

 本人と相談てのも妙な話である。櫻に聞くのもアリかも知れないが、やはり有り得ない。恋仲の女性に、他の女性との接し方を尋ねるなんて話、聞いたことがあるだろうか。その話が真実なら、素直に事情だけでも話したいところだが、それもどうかと思い直す。口にしたらしたで、不信感を持たれる可能性だってある。バスは五差路を右折すると、ウネウネと走って行く。千歳の胸中にもその曲がりくねった感じが入り込んできて、苦しい。
 何となく寝入っていた櫻は降りる間際になって千歳の異変に気付く。
 「千歳さん? 大丈夫ですかぁ? 緊張してきた、とか?」
 「エ? あ、降りなきゃ!」
 田端でドタバタとはよく言ったものである。

 「おじゃましまーす♪」
 「いらっしゃいませ、櫻姫」
 いきなり彼氏に抱きつきそうになる姫だったが、「あの私、今日は飛ばし過ぎないようにしますので、どうか追い出したりしないでくださいネ」と自分でクギを刺して、収拾を図る。直後の彼氏は「?」状態だったが、一寸置いてからまたしてもクールな千さんが顔を出す。
 「では、櫻さま、お約束のレコーディングの方、ひとつよろしくお願いいたします」
 「あーぁ、これって千歳さんのトリック? 人使うの上手なんだから」
 「いえ、御礼は必ず。何か考えておいてくださいな」
 「御礼? あ、それなら十一月十一日、空けといてください。終日!」
 「7.7 9.9 に続く第三弾?」
 「フフフ、そういうこと」
 リビングには、PCとつながった七十鍵ほどのシンセサイザーが置いてある。部屋を見渡したり、調度品を鑑賞したり、ゆっくりお茶したり、そんな前振りも何もなく、櫻は鍵盤に向かうことになる。
 「そっかぁ、千歳さん、PC相手の時はスローじゃなくなるんだった」
 「あ、いや別に。つい気が急いちゃって」
 PCには音源モジュールが内蔵されていて、ドラムやベースの音も出せる。音量を絞る必要はあるが、スピーカーから聴こえる音でモニターしながら鍵盤を叩けば、その音はPCに取り込まれ、オーディオファイルとして融通が利くようになる。

 「何度でも録り直しできるんですよね」
 「えぇ。でも、櫻さんversionにした方が弾きやすいですよね」
 「原曲を少しゆっくりめで流してくれれば平気ですよ」
 二人は一応恋人ということになっているが、今はどうやら趣味人同士の間柄。時の経つのも忘れて、録ったり消したり、PC画面上の五線紙に音符を置いたり動かしたり、そんなことを繰り返している。
 「コピー&ペーストで楽譜が作れちゃうとはねぇ...」
 「あとは、業平君に重厚なアレンジをしてもらえばOK」
 記念すべき二人の合作第一号「届けたい・・・」。ひとまずカラオケで流れる程度には仕上がった。櫻は昔のことを思い出しながらも、心境の変化をひしひしと感じていた。一途な想いをぶつけるだけじゃ駄目、ペースを合わせるところは合わせなきゃ... 曲のタイトルに「・・・」が入っているのは、「届けたい、されど」と一定の抑制がかかっていることを暗示していた。奏者はその抑制感と心地良さに身を委ねている。外はすでに黒々としてきているが、櫻は鍵盤の前から離れようとしない。まだまだ帰りたくない、そんな気持ちもあるようだ。千歳は南実への返事を急ぎたい気持ちもあったが、愛しの櫻姫には敵わない。この際なので、業平と交換したばかりの曲なんかもデモで流しつつ、アレンジの可否をチェックしてもらうことにした。
 夕食がピザになってしまったのは、招く側としては不覚だったが、客の方は喜んで頬張っている。
 「四ヶ月前はセンターでピザ食べましたねぇ。覚えてます?」
 あの当時、四月(よつき)後に二人がこういうことになっているとは誰が予想し得ただろう?
 「私は予感ありましたよ。だからあの時、メッセージカード書いたんです。千歳さんなら応えてくれるだろう、ってね。何か懐かしいなぁ...」 この日の櫻は、宣言通り飛ばし過ぎることなく、最終バスに間に合うように粛々と帰宅した。次にお目にかかるのは、土曜日。この緩やかな感じが、アラウンドサーティーによるSustainable ~ なのである。

2008年3月18日火曜日

37. 新しい私


 ちょっと冴えない面相で櫻は郵便受けを開ける。
 「文花さんたら、昨日郵便物取り込まなかったんだ」 各団体からのニュースレターや役所からの通知などをガサゴソと取り出す。これはまぁ、いつものこと。だが、
 「[親展]隅田千歳様? へ?」
 階段を上がりながらチェックしていたら、一通の不思議な封書に当たった。差出人名が書かれていないので、益々不可解。
 「あ、櫻さん、おはよっ。素適な一日、過ごせましたか?」
 「えぇ、おかげ様で。ところで、何で此処に千歳さん宛の封書が届いたんでしょ?」
 上機嫌で出てくることを想定していたので、このいま一つパッとしない返事、おまけに妙な質問と来て、櫻の顔をまじまじと見るしかなかった。
 「誰から?」
 「女性の字みたいなんだけど、差出人がわかんなくて。親展扱いだから開封する訳にもいかないし...」
 チーフには思い当たるフシがあった。自分で蒔いた種だけに、下手に明かせないのがツライところ。種蒔きは自家農園にとどめてほしいものだが、そうはいかないのが我らがチーフ。いつの間に情報を蒔いたのやら、その封書の中味は、隅田氏のセンター出勤を祝うメッセージレター、差出人は、十月になってもなお燃える想いのあの人、である。

 昨晩は櫻の自転車を借り、メロメロ(もとい、ノロノロ)状態で帰宅した千歳君。本日のセンター初出勤は、その自転車を返しがてら、ということで都合はいいのだが、どうもボーっとなっていて不可ない。それでも定刻の十時にはちゃんと到着。階下からどこか頼りなげな足音が近づく。

 「いらっしゃ... あれ、千歳さん!」
 「おはようございます。櫻先輩、文花チーフ」
 「何よ、先輩って。年とっておかしくなっちゃった?」
 「隅田さん、彼女に言ってなかったの? サプライズって冗談のつもりだったのに」
 「いつもビックリさせられ放しなんで、たまには」
 「?」
 「土曜日に非常勤で入ることになりました。隅田千歳と申します。よろしくお願いします」
 「エーッ!!」
 この櫻の絶叫は、歓喜というよりは驚嘆。それほど嬉しくもなさそうなので、千歳もまじまじと櫻の顔を覗き込んでみる。
 「てゆーか、何で私が知らなくて、この差出人は知ってる訳? 信じらんなーい!」
 本当は嬉しい、でも昨日のことがちょっと許せない、そもそも一緒の職場って何それ? クリーンアップどうなっちゃうの? そんでもってこの封書何? 櫻は一度にいろいろな感情や疑問が沸いてきて、どう処していいのかわからなくなっている。
 「まぁまぁ、櫻さん落ち着いて。急な話で悪かったけど、これも櫻さんのこと考えてなの...」
 「えっ?」
 「前に須崎さんから聞いてね、櫻さん一途だから適度にリラックスしてもらえる工夫があるといいんじゃないか、って」
 「ハハ、そりゃどうも。今はそれほどでもないと思いますけど」
 「そうね、誰かさんが現れてからは、何か緩やかな感じになってきたとは思うけど、これからひと山ありそうだし。ま、予防ってとこかな」
 櫻も千歳もどことなくズルッと来ているが、口を挟んだりはしない。言い聞かせるように文花は続ける。
 「でね、土曜日くらいは息抜きしながら勤務ってのもいいんじゃない?って思ったの。これはNPO的ワークスタイルの模索も兼ねてるけど、情報系は彼氏に任せて、櫻さんには地域ネタ探しに行ってもらう、そんな前提。どう?」
 「それで千歳さん、土曜日に? ここに?」
 「ちょうどシステムも動き出すことなので」
 「あ、勿論一緒にいたければそれでいいわよ。お二人なら弁えもあることだし、こっちは見てて楽しいし」
 「文花さん...」
 櫻は眼鏡を外し、目頭を押さえている。昨日からどうも涙腺が脆くなっているようだが、本人はお構いなし。
 「ホラ、隅田さん、先輩泣かせたままでいいの?」
 「そんなぁ、矢ノ倉さんがグッと来るようなこと言うからでしょ」
 「違うわよ、好きな人と働けるのがうれしくて泣いてるのよ、ねぇ?」
 小泣き程度だったので、すぐに顔を出せたが、千歳がまたしてもドキッとなったのは言うまでもない。不機嫌そうな素顔は今日が初めて。これまた女優級である。
 「もう! 二人で盛り上がっちゃってぇ。出かけちゃいますよ」
 「あら、そしたら彼氏が泣いちゃうわよ。いいの?」
 正直なことを言えば、複雑な気持ちの方が強い。せっかくブレーキをかけなくてもいいところまできたのに、毎週土曜日はブレーキをかけないと仕事にならなくなる可能性が出てきてしまった訳である。一緒にいられるのはいいとしても、甘えられないのは厳しい。
 ひとまず深く息をして気持ちを整えつつ、お騒がせの封書を本人に手渡す。
 「はい、千歳さん。何せ[親展]ですからね。さっさとどーぞ」
 「はぁ、誰からだろ?」

 櫻は気晴らしするように、先だっての一般参加型クリーンアップのデータの再集計なんぞを始める。千歳はかつて弥生が使っていた机に座り、封を開ける。
 クリーンアップ中、いつもの干潟の方をデジカメでいろいろと撮ってもらえたのはよかったが、その中で本人写真(ブロマイド?)がさりげなく入っていたことを思い出す千歳。画像ファイルを送るかどうしようか迷っていたが、そのご本人から「お手数かけますが、どこかでプリントして同封の返信用封筒で送ってもらえないでしょうか」と来たのである。これはほんの方便なのかどうなのか。続けて彼女の想いなどが綴ってある。「歌声を拝聴し、目覚めるものがありました。私が歌ったのはそんな気持ちの表れ...」とか「直球勝負、お許しください。でもあの投球も思うところがありまして...」とか。どうやらこっちが本旨のようである。そして、
 誕生日の翌日、新しいスタートを当環境情報センターで切った彼にとってはビビっと来る一文が文末に付されてあった。「この度はご着任、おめでとうございます。同じ環境つながり、今後ともよろしくお願いします。Sincerely, Minami」
 着任したとあらば、何らかのオリエンテーションとかがあっても良さそうだが、封書の件が気になって仕方がない櫻先輩は、そっちに気が回らない。パタパタと数字を入れながら、時折、彼の様子を窺うばかり。
 「ダメだ、集中できない。千歳さん、封筒の中味、教えてよ」
 「何故か、着任祝いの一通でした」
 「もしかして知らなかったのって私だけとか? あ、わかった。文花さんでしょ。リークしたんだ、きっと」
 その情報屋さんは、舌を出して、薄ら笑い。昨晩、さらなる進展があれば、ここまでヤキモキすることもなかったかも知れない。愛情表現という意味では今のところ言葉どまり。確証としてはそれで十分と思っていた筈なのだが、いつしかその次を期待してしまう自分がいることに気付く。ここで再び大きく息を吐(つ)く。
 「まぁ、ラブレターとかじゃないんならいいや。でも今日はいきなりマイナス1,000点ね」(参考…これで累計63,000点)
 櫻を妬かせるとコワイ、とは蒼葉の弁。ちょっとヒヤヒヤ... クールにならざるを得ない千さんであった。
 「じゃあ文花さん、打合せしましょうよ。分担とか」
 「そりゃそうだ。でも、基本的には櫻さんのアシスタント 兼 相談役ってところでしょうから、ひとまずお好きなように」
 「へぇ、そうなんだぁ。じゃキーボード打って手が凝っちゃったから、ハンドマッサージでもしてもらおっかな?」
 これには文花も千歳も声をそろえて、「櫻さん、あのねぇ」となる。

 打合せは午後、ということで、とりあえず簡単なオリエンテーション方々、机上整理など。その次はPC環境。弥生がインターン期間中に使っていた予備のノートPCを起動させてみる。そこそこメンテしながら使っていたようで、動きとしてはまぁまぁ。システムはこれで動かせそうだ。
 先週はクリーンアップの準備等で、思うに任せなかったが、リリース案内を含むインデックスページを載せ替えて、センターのホームページからリンクを張れば済むところまでは来ていた。名称とロゴも設定済み。それは環境情報ナビゲーションサイト、略して「KanNa」である。
 「十月リリースってのがまたポイント。何しろ神無月、ですもんね」
 「ハハ、そう言えば」
 「千歳さんが言ってたんじゃない」
 「くれぐれも、このシステムいかんなぁ、とか言われないようにしないとね」
 南実発の封書で一時は波立ったが、今は想定通りの光景に落ち着き、チーフとしてもひと安心。PC系作業に関しては兎角(とかく)手際がいい千歳は、十一時半には大方のリリース準備を終え、文花のGOサインを待つばかり。あとは、センターのトップページ(新着情報)を書き換えつつ、kanNaのロゴを貼り付ける程度。イベント&トピックス系情報を載せるための掲示板機能についても動作確認済み。
ち「では、これを以って納品、ということでよろしいでしょうか」
ふ「どうもありがとうございました。これで私と櫻さんが考えてた環境情報のベースができた感じね。あとはご近所情報と全国情報の連携、かな」
さ「そうそう、ここに載ってる団体の皆さんに案内メール出さなきゃ」
ち「じゃ、一斉メール出しますか。団体個別ページの案内付き」
さ「エッ? そんな器用なこと...」
ふ「さすがは隅田さんネ」
さ「隅に置けないけど、フフ」
 一斉メールはいいけれど、文案はまだ。櫻が案内メール本文の下書きを進める間、千歳はお膳立て作業に着手する。データベースから必要な個別データをエクスポートしたら、あとはメールソフトの特殊機能の出番。宛先団体名、団体ページのURL、確認用の連絡先などをメール文中の指定箇所に自動表示されるように組み込んだりしている。間もなく正午。
 「そうそう隅田さん、報酬は振込でいい?」
 「報酬? カッコイイ!」
 「システム管理費ってことで、半期一括。今日は試用勤務みたいなとこあるけど、今後は、出張サポート=出勤、てことにしてもらったの」
 「その方がお互い楽ですし」
 「フーン」
 いつの間にそんな話を進めていたんだか。ちょっと面白くない櫻だったが、
 「振り込まれたらちゃんと彼女にご馳走しないとネ」
 さすがは事務局長にならんとする人物である。またまたグッと来ることを仰る。
 「はい、そのつもりです。昨日もすっかり... あ、今日はどうしよ」
 火曜から金曜は二人で交代交代、お昼をとっているが、土曜日は一緒に自家製弁当を持ってくるんだとか。
 「お箸は持ってきたんだけどなぁ」
 「だからこういう大事なことはこの櫻さんにちゃんと言わないといけないのよぉ」
 「面目ないです」
 気が済んだか、今度は櫻がグッと来るお言葉を述べられる。
 「いいわ。来週から千歳さんの分も作って来てあげる。ま、今日のところは駅周辺でも行ってらっしゃいな」
 プラの容器包装類は、当市ではちゃんと再資源化されるので、その筋の弁当を買って来るのも悪くない。だが、誕生日翌日のランチが弁当ってのも...
 「では、自転車お借りします」
 昨日と比べると幾分涼しいが、意気揚々としている分、バランスがとれて過ごしやすい。心も空も秋晴れ。ペダルを漕ぐ勢いが加速する。いつもの彼の速度ではない。こりゃ心配だ。

 無事に帰って来た彼に続き、本日のスペシャルゲストがお見えになる。
 「あ、清さん。いらっしゃいませ」
 早くも櫻流儀のお迎え挨拶を会得している千歳である。先生は目を丸くするしかない。
 「おや、隅田氏。接客担当にでもなったんかい?」
 「今日はお試し出勤です」
 「ははぁ、貴君もまんまと矢ノ倉女史に担がれちまった、てか」
 掃部訓の五カンには「勘」も含まれるんだろう。いいカンである。
 「センセがいらしたんで、打合せはあとでね」
 「はーい。千歳さんとさっきの続きやってまーす。どうぞごゆっくり♪」
 櫻もすっかり晴れやかになっている。眼鏡越しだが、目がキラキラして見えるのは気のせいか。

 「ま、半分合格ってとこじゃねぇかな」
 六篇のレポートをガサガサと拡げてから、合格と称す三つを取り出す選考委員長である。
 「ちなみに首席とか次席とかってあります?」
 「そうさな、やっぱこの、し潟の役割を説いたヤツが出色かな。船から眺めててよくここまで思い廻(めぐ)らせたもんだ、って。いや、現場経験が少しはあるってことか...」
 首席レポートは、干潟理論をもとにゴミの発生抑制論を説いているのが特長。身近なレベルからより広域なレベルへのアプローチ、即ち、地域が地域を大事にする、そんな想いの連鎖によって良好な環境が保たれていく、そんなまとめもまたインパクトがあった。
 次席は、その逆のアプローチ。まず地球規模での変異や危機を弁えた上で、次は自分の目や足で検証する、というもの。情報を得たら、それを咀嚼(そしゃく)し、自ら現場に出て確かめ、それをまた新たな情報として広め、共有する。地域には地球環境を考えるための素材があふれている。まずは荒川へ行こう。なかなかの力説である。
 「地域から地球を見るか、地球から地域を見るか、ってな」
 「センセ、それ『Think Globally, Act Locally』に通じる話ですね。その逆もあるんだとか。ご存じだとは思いますが」
 「ま、俺の場合は、東京ローカルだから... しっかり窮めりゃ、自ずと見えて来るものもあるんだろうけど。まだまだかな」
 「またまたご謙遜を」
 「とにかくよ、対照的なのがこうやってそろうてぇのは大したもんだよ。バランスがとれる訳さ。木だけでも森だけでもダメ。ただし、しとりで二つとは言わない。役員は複数。お互いカバーすりゃいい、そんなとこだろ」
 文花は、得意とするレポートで千歳にリードされたことが少しばかり悔しく思われた。だが、この清の御説に大いに励まされると同時に、千歳を抜擢した自身の目利きの確かさに惚れ惚れ。
 「あ、コーヒーお持ちしますね」
 清は笑顔の文花を見送りながら思う。コーヒーを飲みに来るだけでもいいから、当所に定期的に顔を出すのは悪くない、と。だが、秀作レポートの主がここにいることを知ったことで、俄然前向きになっている。
 「ところでセンセ、この間は肝心のお返事聞き損なっちゃいましたが、いかがでしょ? お引き受けの程...」
 「あぁ、彼、隅田君が加わるってことだったら」
 「えぇ、了解はとれてます」
 「じゃ決まり。こっちも張り合い出るしな。ま、よろしく頼むよ」
 法人化に向け、大きな一歩が踏み出された。

 この後は、①不合格判定の役員候補各位に対し、合格レポートを読んでもらい、法人理事候補として名乗りを上げるか否かの意思を確認。②立候補する場合は、公募式でかける候補者募集に応募してもらうが、一次選考に当たる課題論文審査には審査員として加わってもらうことでアドバンテージを付す。③課題論文上位者には二次選考として、自身の論文要旨等をプレゼン発表してもらい、相互に評価を交し合って絞り込む。④可能であれば監事についてもこれと並行して互選にて選出するが、詳細は③の段階で候補者が固まったところで定款案を検討してから詰める。... 敏腕チーフは実にここまでプロセスを考え出していた。
 カウンターに櫻を残し、三人は円卓に。形としては「鼎談」なのだが、文花のプランを聞く会、そんな印象である。
 「いきなり、全面公募っていうのも不自然なんですってね。前身を担ってきた人材をベースにしつつも、新たな人材に加わってもらう機会も保障する、そんなイメージでいいみたい」
 「あとは定款で、新陳代謝的な面を規定する、ってことでしょうか」
 「そうねぇ、思い入れがあると固執したくなっちゃうのって、何かわかる気がするけど、ちょっとねぇ。定款はそういうのを防ぐためにあるんでしょうね。ま、当所はそこんとこがいい意味で曖昧だから、あまり気にしなくてもいいかも知れないけど」
 ちなみに、櫻は身分上まだ公務員のため、理事等の役員兼任はできない。年度が改まる、即ち法人化が実現した折りには、櫻の処遇が変わる可能性は高いが、出向を妨げるものでもない。文花なりにすでにその辺りも思い描いているようである。
 「出向=役所から、ってばかりじゃないのよ。地元企業から応援に来てもらうなんてのも大アリだし、インターンとか実習とか、いろんな関わり方があると思うのよね」
 「自然もしと(人)も多様な方が磐石ってな、もっともだ」
 「働き方のモデルもここで提示しようってことですか?」
 「提示ってのは結果論でしょうね。まずはその人自身がここで何かを模索してもらえばいいんじゃない?」
 文花なりの労働観のようなものが語られる。六月と小梅が生き生きしているのを目の当たりにしたこと、クリーンアップを通して「現場力」の重みや意義を実体験したこと、などから、センターを自発型の「学びの現場」にしよう、と思い至ったようである。千歳が考える「スローワーク」モデルに通じるものもありそうだ。

 十四時近くになる。三者協議はそろそろお開き。
 「で、ですね。掃部先生につきましても、レポートを一筆お願いしたいんでございます。ブログからの引用でも構いません」
 「お題はなんだい?」
 「『地域を元気にするハコモノのあり方』ってのを考えてたんですが、どうでしょう?」
 「あえてハコモノってか。逆説的でいいねぇ。気に入った」

 職場での彼氏との接し方を何となくつかんできた櫻が、カウンターから声をかける。肩の力が抜けた感じで朗らか。
 「千歳さん、準備できましたよぉ」
 「はい、ただいま」
 円卓にいる二人はコーヒーを飲み干して語らいモード。
 「いいね、あの二人」
 「干潟でもそうですけど、見てると和むっていうか」
 「そういうおふみさんは、和むお相手はいないんかい?」
 「私、恋多き女でして、決められないんですのよ。ホホホ」
 当たらずも遠からずか。いやいや、本当のところは役員候補よりもお相手の方を募集したい、そんな気持ちの方が強いかも?

 KanNaの一斉案内メールの発信に立ち会うと、次は「Comeon(カモン)」ブログ教室である。円卓では今、清と千歳があぁだこうだとやっている。
 「おぉ、これがこの間の写真...」
 「お書きになる記事に合わせて画像を選んでもらえれば、今アップしますよ」
 「おや、小松のお嬢さんのアップもあるねぇ」
 「えぇ、ご自分で撮ったようで」
 櫻は「小松」と聞いて、ピピとなっている。その本人写真を見てみたい気持ちもあるが、我慢我慢。この調子じゃやっぱり集中できない、か。

 清が選んだのは、辰巳が結束させたヨシの束を撮ったものだった。
 「せっかく固めたのによ、放ったらかしだもんな。ブログを通して、活用法でも問いかけてみるさ」
 お年は召しているが、ブロガーとしては新米の先生。円卓に残り、PCと睨めっこ、である。文花は何を思ったか、「新しい、私♪」とか口ずさむ。十月だけど「チェリーブラッサム」。今ここにいる四人、皆一様にそんな気分であることは間違いない。

 オリエンテーションを兼ねた打合せも三十分ほどで済んだ。櫻が来館者対応をしている間、千歳はメールのエラーチェックやら、館内資料の確認やら。文花は流域考察レポート「巡視船紀行」の事後処理と今後の役員選考に向けた案内広報づくりを進めている。こんな感じで、緩やかながらも時は確実に過ぎ、すでに午後六時。土曜日は早番も遅番もなく、今この刻(とき)を以って閉館となる。

 試用勤務とは名ばかりで、早々に即戦力的な働きをこなした千歳に、文花は最敬礼しつつ、
 「そんじゃ、来週にでも履歴書と職歴書持って来てね」
 「え? 矢ノ倉さんに情報渡したら筒抜けになっちゃうじゃないですか」
 「あら、私そんなに信用なくて?」
 冗談のつもりで軽く受け答えした文花だが、千歳はそうでもなかったらしく、少々息巻いている。
 「また可愛い後輩さんに、とか。今日から非常勤に入る話だって」(ブツブツ)
 「南実ちゃん、あれこれ聞いてくるから、つい。隅田さんのこと慕ってるのよ。わかるでしょ?」
 「もしそうだとしたら、その理由も矢ノ倉さんなら。何かご存じなんじゃ?」
 「あ、ハハハ。そう来たか。多分そうだろうな、というのはある。来週教えましょう」
 昼休みにデジカメプリントを済ませてきた千歳だったが、南実にそれを送るのは来週に先延ばし、ということになる。理由の如何によっては、添え書きの内容も変えなきゃならないからだ。

 「私ったら何やってんだか。三角形作ってどうすんのよねぇ...」
 自分のお節介ぶりにちょっぴり呆れて溜息モード。櫻も南実も妹みたいなものだから、良かれと思ってついつい。しかし、そのおかげで千歳が振り回されているところはある。
 「文花さん、記念写真撮ってくださいよ」
 千歳のデジカメを自分のもののように手にして、チーフを撮影係に指名する櫻。館内点検を終えて戻って来たところである。
 「はいはい。記念日ですもんね。何をバックに撮りますか?」
 清が帰った後の円卓では、スタンバイモードのPCが出番を待っている。
 「写らないかも知れないけど、一応、KanNaちゃんを表示させて、と」
 PC画面を挟んで千歳と櫻が並ぶ。櫻はしっかり眼鏡を外して得意の笑顔。文花は再び溜息。「やっぱりご両人、絵になるわ」 深呼吸してシャッターを押す。記念日写真、一丁あがり。
 「じゃ、千歳さん、今度持って来てくださいね。多少大きめがいいかな」
 「大きめ? どっかに飾るってこと?」
 「あ、携帯用も欲しいかも。とにかく2パターンくださいな」
 微笑み交わす二人。時間外なので別に構わないのだが、さすがの文花もやきもきしてきた。だが、さっきの自省を思い出して、ぐっとこらえてみる。忍耐強さも事務局長に求められる資質のうちなのである。

 秋の夕闇が拡がり、彼と彼女の時間が流れ始める。蒼葉は弥生とお出かけ中につき、夕飯の支度は無用という。
 「どこかで食事しましょうか?」
 「じゃ今日は僕が」
 「振り込まれてから、じゃなくていいの?」
 「昨日の御礼、と言っては何だけど、ひとまず」
 自転車を押して歩く櫻と、ちょっと遅れて歩く千歳。昼間、自転車で通ったのとはまた違って見える街路。徐々に暗さが増す中、気が付けば駅前。禁煙席のある洋風居酒屋が目に留まる。ここは、櫻のオススメの一店。

 「どうですか? そのお箸」
 「えぇ、おかげ様で、どんなお料理も美味しくいただけそう」
 「では、わたくしめも。これでおそろいね」
 洋風居酒屋なので、オムレツとかナポリタンとかロールキャベツ(ひと口サイズ)とかが並ぶ訳だが、どれも箸で対応している。二人とも箸使い、というだけでも十分だが、おそろいというのがまた好い。櫻はニコニコしながら、千住桜木ツアーの話を持ちかける。
 「二十一日ってのはいいんだけど、千歳さんとの待合せはどうしよ。九時半じゃ早いかなぁ?」
 「店の中で待ってればいいんでしょ。ドリンクバーもあることだし。あ、でも他の皆は?」
 「バスが限られてるから、何時何分発のって指定します」
 「集合場所はバスの中、って訳かぁ。面白いね」
 筋肉痛よもやま話、コンタクトレンズQ&A、来週からの弁当プラン、櫻アレンジ曲のレコーディングスケジュールなどなど、話は尽きない。今日のお騒がせ親展封書の件も話題に乗せたい気持ちもあったが、何となく特定できてきたのであえて口にはしない。いずれ千歳から話してくれるだろう、櫻はそう信じることにした。
 「ねぇねぇ、生年月日を証明できるものって今お持ち?」
 「えぇ、免許証でよければ」
 「まぁ、ゴールド...」
 「都内じゃまず自分で動かすこともないから、持ち腐れです。運転しなきゃ自ずと優良になりますよね。ちなみに櫻さんは?」
 「私も同じ金帯付き。たまに文花さんに借りて動かす程度です」 そう言いつつ、席を立つ。「じゃ、ちょっとお借りしますね」

 何のことかと思っていたら、しばらくしてワッフル状のホットケーキが運ばれて来た。たっぷりのホイップクリームとミニキャンドル付き。
 「では、昨夜かなわなかったバースデイケーキによるお祝いを」
 「いやはや、さすが櫻さん。でも今日は当日じゃないですよ」
 「フフ、前後三日間有効なのです。いいでしょ、このお店」
 店員さんがその場で点(とも)してくれた火を吹き消す。当然のことながら、細々と一条(ひとすじ)の煙が上がる。
 「あ、ここ禁煙席でした。すみません」
 櫻の話芸は場所を問わない。店員さんも結構ウケている。千歳は感涙していたが、「ハハ、煙が目にしみる」なんて、よくわからないことを言って誤魔化している。
 昨日のリベンジとかで、クリームは櫻に大方とられてしまったが、これはもともとサービス品。彼女に全部食べてもらってもいいくらいである。
「食べないのぉ? それとも、『はい、お口開けて』ってやってほしいとか? フフ」
 それはさすがに辞退したが、お口の方は正直なもので何となくポカンと開いている。よくよく考えると櫻と二日続けて顔を合わせたのは今回が初めて。この調子でお会いする機会が増えると、そのポカン、つまり心ここに在らず状態に拍車がかかりそうである。だが、櫻の方も期するところがあるようで、「小松さん、油断ならないから、何としても射止めねば...」というのが偽らざる想い。苦手としていた領域だが、「新しい私」効果か、攻めの姿勢が出てきた。新たな情念が沸き起こっていたのである。
 眼鏡を外して、彼に問いかける。
 「千歳さん、私のこと好き?」
 半ば放心状態の彼にこの質問は酷だったか。返事の一言までに数十秒かかることになる。
 「え、えぇ、そりゃあもう... まいったな。ハハ」
 この日は、駅前から路線バスに乗ってのご帰宅。優雅でいいのだが、乗車間際に彼女に抱きつかれた時の感触が背中にまだ残っていて、深く腰掛けられずにいる。外はすっかり涼しいのに、体はポカポカ、口は相変わらずポカン、そんな一人の男がバスに揺られている。隅田千歳、誕生日翌日の夜が更けてゆく。

2008年3月11日火曜日

36. 千秋一日

十月の巻(おまけ)

 待ちに待ったデート休暇当日。櫻は半袖のエレガント系ワンピース(千鳥格子)に大きめのリボンベルトを当て、白のジャケットを着用。
 「いいねぇ、櫻姉。ま、しっかりやんなよ」
 「プレッシャーかけないでよぉ。今日の主役はあくまで千歳さん。私は彼に合わせるだけ」
 とは言うものの、本日のデートコースは櫻の全面コーディネートである。いったい何を合わせるおつもりなんだろか。
 こちらは、パーカ風のシャツの上に洗いざらし系のジャケット、スラックスも洗いざらし風という出で立ち。今日で櫻さんとは同い年ではなくなる訳だが、格好からしてあんまりそういう緊張感は感じさせない。いつも通りの千さんである。お約束の十一時よりもかなり前に原宿駅に到着。今は神宮橋の上から山手線やら湘南新宿ラインを見送りながら佇んでいる。同じく少々前にやって来た櫻嬢は、そんな彼氏を首尾よく見つけて、背後から声をかける。
 「お客さん、何か落し物ですかぁ?」
 「あ、実はキャッシュカードを...」
 「もう、千歳さんまでぇ」
 よく晴れた金曜日。気温も程々。ジャケットを着るには及ばなかったかも知れないが、三十路の秋の装いとは斯くあるもの。表参道を闊歩(かっぽ)するにも丁度いい。

 神宮前交差点までは下り坂なので楽なのだが、そこから先は緩やかな上り。
 「自転車タクシーに乗れば楽なんでしょうけど...」
 「この辺じゃ最近見かけないねぇ。六本木ヒルズ周辺にシフトしちゃったとか」
 「まぁ、徒歩が何よりもエコよ、ね?」
 とか言いながら、彼氏の腕につかまっちゃう彼女である。ただでさえスローな千歳は、これでさらに歩速が鈍くなる。だが櫻はちゃんと歩調を合わせている。合わせるってのはこのことだったか?

(参考情報→自転車タクシー

 「初姉のお店に似てるんだけど、主菜、副菜が充実してるって言うか、その場で見て選べるとこがあるの。ご案内します」
 表参道ヒルズに寄るでもない。アニヴェルセルにも御用はなく、その手前で右折。寄り道と言えば、クレヨンハウスの地階で旬の野菜をチェックするくらい。櫻のこの精神的にスローな感じが千歳には心地良かった。
 ブランチをいただくお店が開くまでのちょっとした時間調整のつもりだったが、
 「ハハ、また迷っちゃった。失礼」
 目的地に着いたのは、十一時半をとっくに過ぎてから。だが、それほど行列はできていない。この待機時間中に品定めするのが通なんだとか。一人三種類選べるので、二人だと最大六種類の小皿が並ぶことになる。どれが主でどれが副だかが結果的にわからなくなってしまったが、二つのプレートには、五目あんかけ豆腐、ポークとキノコの何とか、ペンネ&マリネ、オニオン&根菜、ジャーマンポテト、磯辺揚げといった品々で満たされる。これにおかわり可能なごはん、スープ、ドリンクが付く。さすがは青山、ランチ店の層が厚い。

(参考情報→港区北青山三丁目の2つの店

 「そっか、千歳さんお箸持ってないんだ」
 「そういう意識はあるんだけど、いざとなるとね。面目ない」
 「いいのよ。私だって別にマイ箸の方がありがたく食事ができそうな気がするから持ってるだけ。環境保護どうこうって云うつもりないし」
 会計時にこういう会話が交わされるのは、最近では珍しくもないか。彼女の方は割り箸を辞退しつつ、財布を取り出す。
 「千住さん家は富裕層じゃございませんので、千円ランチで恐縮ですが、お誕生日祝いネ」
 「ご馳走様です。ありがとう」
 誕生日席という訳ではないのだが、えらく深々したソファ席でいただく。食べる時は逆に前屈みになってしまう。
 「二人で違うのを取ると、ちょっとした品数になるでしょ? それもポイント」
 「櫻さん、いい店ご存じで。青山よく来るんですか?」
 「センターの資料配置とか考える時に、文花さんとここの近くの施設に見学に来たんです。その時、連れて来てもらったのが最初。その後も蒼葉と来てみたり、ですね。別に青山にしょっちゅう、ってことはないけど、来たら寄る、そんなとこ」
 話しながら、箸を伸ばしてくる。「千歳さんもどうぞ。好き嫌い、ないでしょ?」 前屈姿勢なので、お互いの品をシェアしやすいのは事実。箸とソファは使い様である。
 同じ種類であれば何杯でもおかわりできるってのは、毎度おなじみカフェめし店と共通する。だが、ここでドリンク片手に延々と話し込んでいるよりは、あちこち動き回りたいというのが探訪好きな二人のお望み。お出かけ日和でもある。一時間ほどで店を出て、青山通りへ。
 「さて、これから六本木へ向かう訳ですが、骨董通り経由だと遠回り。されど、墓地を通って、てのもねぇ...」
 「ま、時差券持ってますから。一駅分だけど、メトロで」
 「賛成! 駅の中のお店、見てみたかったし」
 てな訳で、乃木坂に着いたのは一時過ぎ。車両後方の階段を上がると、国立新美術館直結の真新しい出口に通じる。
 「はい、これは妹からプレゼント」
 「え、蒼葉さんが?」
 「あの娘(コ)、一応その筋の関係者だから、こういうの手に入れやすいみたい」
 櫻が取り出したのは、「フェルメール『牛乳を注ぐ女』~」展の招待券二枚。本日のプランは概ね聞かされていたので、自己負担範囲も想定はしていた。古楽器の展示もあるというので、千歳としても観覧したかった同展である。当日券でもよかったところ、ご招待扱いとは、嬉しい想定外。姉妹のご厚情に感謝感激、なのである。

 風俗画、工芸品と観てきたところ、弦楽器などが置かれた一室が出てきた。
 「あれってチェンバロ?」
 「えぇと、ヴァージナル、ですって」
 「へぇ...」
 鍵盤と来ればやはり櫻。中世の器楽曲、そのヴァージナルの打鍵音、想像を働かせているのが何となくわかる。芸術の秋、音楽の秋、である。そして次のコーナー、版画と素描へ。
 「フフ、『パンケーキを焼く女』ですって。初音さん、どうしてるかしら?」
 「明日に備えてるんじゃ... あ、授業中か」
 明日に備えないといけないのは何を隠そう、千歳君の方である。センターご出勤初日を控えている割には、実に悠長。彼にとっては音楽の~というよりは、お気楽の秋、だろう。
 櫻が図録を繰っている間、千歳はポストカードを何枚か買い求める。カードとは言え青は青。購入後もその色に魅入っていたので、十月の空の青がありふれて見えてしまうのであった。

(参考情報→国立新美術館から東京ミッドタウンへ

 美術館後の行き先については選択肢があるが、コーディネーターさんはハッキリしていた。
 「ヒルズはヤダ。ミッドタウン!」
 直方体の建物を前方右手に見ながら星条旗通りを歩くこと数分。その直方体が二人を迎える。
 「千歳さん、私、眼鏡買い替えようと思ってるんですよぉ。どんなのがいいか、選んでほしいの」
 「ミッドタウンで眼鏡? 櫻さん実はセレブなんじゃ...」
 「あ、いえ、デザインだけ。買う時はそれを参考に、巷で流行の五千円前後のに...」
 当地にはハイセンス眼鏡店が複数ある。どっちから行こうか、と思案していたが、櫻はもっと大事なことを思い出す。
 「と、その前に確認事項がありました。どうしよ... とりあえず公園」
 ガレリアをそのまま直進し、檜町(ひのきちょう)公園へ。まだ三時にはなっていないので、おやつタイムには早い。テイクアウト類なしで、とりあえずベンチに腰掛ける二人。ちょっと間を置いてから櫻が訊ねる。
 「正直なところ、眼鏡の櫻さんてどうですか?」
 「美人だと思いますが」
 「いや、そうじゃなくて...」
 千歳は十分わかっていたが、ちょっとはぐらかしてみたかっただけ。決して鈍いという訳ではない。櫻は俯き加減。
 「眼鏡をしててもしてなくても、櫻さんは櫻さん。大好きな女性(ひと)であることに変わりはありません」
 急に顔を上げて聞き返す。
 「え? 今なんて?」
 「言わなくてもわかってる、って、それじゃダメなんだよね」
 こういう時、その感情を目に見える形で示すというよりは、その言葉一つが何より大事だったりする。だが、その言葉を早く伝えたかったのはむしろ彼女の方だった。
 「そうそう、私も教えて差し上げないと... 千歳さんのそういう素直なところかな。一番好きなの」
 千歳はもう一度きちんと声に出そうと思ったが、こう来られたら言葉を呑み込むしかない。彼氏は的外れなことを聞く。動揺ありあり。
 「って小梅嬢に言ったの?」
 「つい調子に乗っていろいろ喋っちゃったからなぁ。どれがその一その二ってわかんなくなっちゃった」
 彼に合わせる、それはつまり親愛の情を言葉にするタイミング、を主に指していたようだ。合わせなきゃ、という意識先行でここまでセーブ気味だった櫻だが、もう合わせるのはおしまい。肩に寄りかかってみる。「千歳、さん...」 言葉に出すと、その情感はとめどなく展(ひろ)がっていくものである。秋の空は澄んでいて、どこまでも高い。言葉は風に乗って青空に溶けて行く。

 どこからか三時を告げる鐘が鳴る。
 「櫻さんの素顔をお見せする時が来たようです。千歳さん、今の心境は?」
 「いやぁもう... ドキドキです」
 「そうですかぁ。櫻さんもドキドキして来たようですよ」
 「ここは東京、ミッドキタウン、ですもんねぇ」
 「何だかなぁ」
 名物三人娘も定評あるが、「千と櫻」のコンビもなかなか笑わせてくれる。七日のマイクパフォーマンスでその片鱗は見せていたが、この調子ならいつでもOK? ステージさえ設ければ何かやってくれそうである。
 高級店に入ればただでさえ緊張するところ、異なる緊張感がさらに輪をかけてくる。
 「細めレンズが流行ってるみたいだけど、櫻さんはやっぱり丸眼鏡の方がチャーミングかな」
 「じゃ、は、外しますよ」
 「おぉ、櫻、姫...」
 「エへへ」
 六月に横川駅で撮ってもらったツーショット写真は手帳に忍ばせてあって、時々眼鏡なしの櫻さんを眺めては唸っていた千歳君だったが、間近で見るのは今日、この時が初めて。ドキドキを通り越して、名状し難い心理状態になっている。
 「どう?」
 「あ、そっか。いいんじゃないスか。フレームレスは?」
 店員が近づいて来ない間が勝負である。ここで何色が似合う?とかやり出すと、収拾つかなくなりそうなので、そそくさと引き揚げる。さっきからドキドキし通しである。
 「ハハハ、ドキドキしてたらノド渇いちゃった」
 「それじゃ今度は僕が」
 カフェ&スイーツ店が目白押しなのはいいが、客の入りも押し気味。オープンな感じのベーカリー店を通りがかったら、折りよく空席ができた。談話するには丁度いい、適度なソファ席。

 「櫻さん、眼鏡に関してはいろいろとエピソードがありそうだけど、よかったら教えてもらえませんか?」
 「はぁ、何からお話ししたらいいものか...」
 久々に櫻へのインタビューを試みる千歳である。振り返ってみると、素顔を見せてもらえるまでの筋立てが実に凝っていたというか、外そうとすれば蒼葉が止めてみたりといった演出もあったし、まるでウズウズさせるように仕向けられていたかの如く、である。
 「ステージの話はこの間しましたよね。その頃はまだ近視じゃなかったんで、眼鏡もかけてませんでした。ま、自分で言うのも何ですが、ピアノ弾きながら歌って、歌姫さんだった訳ですよ」
 今は彼女に合わせている彼。黙って話を聞いている。
 「当時おつきあいしてた人もちょっとしたボーカリストで、デュエットしたり、一緒に曲作ったり、いい感じだったんです。でもホラ、私、つい夢中になっちゃうから...」
 話がまだよく見えない。千歳はカフェオレをゆっくり口に含み、ただ待つ。
 「千歳さんのお誕生日だってのに、私ったら何喋ってんだろ。ごめんなさい」
 「いやいや。話した方が気が晴れることもあるから。お続けください」
 櫻のカフェモカに乗っていたクリームが何となく縮んできているが、話を聞いてもらうのが優先。
 「その人の曲をピアノで採譜したり練習したり。暗い中でやってたのがいけなかったんでしょうね。視力落ちてきちゃって。それで眼鏡をかけた。そしたらね」
 櫻の愁い顔を見るのは何日ぶりだろうか。千歳はマズイと思ったが、ここで止めては不可ない。櫻のカップからはクリームが見えなくなってしまった。何かを呑み込むように彼女は話を継ぐ。
 「眼鏡は嫌だ、ですって。私の歌とか演奏とか、いや、そもそも人となり? そういうの全然関心外だった、それがわかったんです。顔貌(かおかたち)でしか見てなかったのねって... 大ショック」
 蒼葉が以前強い口調で話していた姉の失恋事件、その真相がおぼろげながら見えてきた。
 「男性不信になっちゃった、とか?」
 「そりゃあもう。こうなったら眼鏡で通してやる、って思いましたよ」
 「でも、あるがままの櫻さんを見てくれる人もいたでしょ?」
 「いた、かも知れません。でも二千年以降は恋愛らしい恋愛はしてませんでした」
 「そう、だったんだ...」
 本来ならまろやかな筈のカフェオレが苦く感じてしまうのは気のせいだろうか。セットのプチタルトにもまだ手が伸びない。櫻は深呼吸してから、その想いを口にした。
 「でも、四月一日に私の中で何かが変わりました。エイプリルフールじゃないですよ。この人ならもしかして、って...」
 「櫻さん、あの日そんな風に?」
 蒼葉の言ってた通りなのだが、あえて問い直してみる千歳。
 「そう。でもね、年のせいだか何だかよくわからないんだけど、自然と抑えが効くもんだから、昔みたいにダーって感じにならなかった。ブログの存在も大きいかな。書き綴ることで気持ちを静める、みたいな。ブレーキかけながら千歳さんと接してた気がします。変な言い方だけど...」
 「僕は僕で櫻さんに合わせてた、というかむしろ引っ張ってもらってた気がするなぁ」
 「そっか、ちょうどよかったんだ。それは何となく気付いてたかも。バランスとってたってことかしら、ネ?」
 1グラム多いか少ないかってのは大げさだろうけど、お互いのペースを尊重して(いやペースに委ねて)きた結果、絶妙なバランスで両想いが成り立っていた... 決して過言ではないだろう。
 「それはそれで心地良かったんだけど、素顔を見せられないのっては苦しいものです。旧七夕デートの時にね、解禁したかったんです。本当は。でも、あるがままの私でいいってのをその、もっと確証が持てるようになってからでもいいかなって」
 「そんな葛藤が...」
 「いや、葛藤ってほどでもないんだけど、蒼葉が言うんです。その日が来るまでとっとけって。で、今日の佳き日が来た。もうね、私から言っちゃおって思ってたの。それで千歳さんも返してくれればもうそれでいいや、素顔をお見せしよう。だから、大好きな女性って言ってくれてすごく、嬉しくて、うぅ...」
 今日からはもう彼の前で眼鏡を外せる。彼女にはそれがまた嬉しい。素顔だが、すっかり泣き顔になっていて、自分でもどうしていいかわからない。
 「あ、いけない、笑顔笑顔...」
 「櫻さん、ずっと我慢してたんでしょ。いいんだよ、泣いたって」
 「そんなこと言ったら、もっと泣けちゃうじゃん。意地悪ぅ、うう...」
 うれし泣き、それとも泣き笑い? 千歳は櫻が愛おしくて仕方なくなってきた。

 「あーぁ、せっかくのクリームが... 溶けちゃったぁ」
 涙を拭くでもない。そのまま乾くのを楽しんでいる感じ。それでもって、この呑気なこと。どうやらその溶け加減が彼女の今の心理状態を表しているようで、これ快哉(かいさい)、としている。素顔かつ笑顔。千歳の方も目が潤んできた。
 そんな彼の目を、彼女は目を細めて見つめる。そして問う。
 「そう言えば、千歳さんて視力いいの?」
 「コンタクトレンズです」
 「そうだったんだ。私もそうしよっかな」
 「そしたら世の男性諸氏が... あ、いや櫻さんの魅力は、その...」
 千歳のこのドキマギ調が櫻にとってはまたたまらない。ついからかいたくもなる。
 「心配? なら、傍についててもらわないと、ねぇ」
 午後の陽射しが弱まってきた。二人が話し込んでいたテーブルの上には、空のプレート、底が白くなったカップが二つ残され、鈍く光を放つ。

 タウン内のツアーに参加するのも良かったが、時間も時間だし、思い思いに歩き回ることにした。ライフスタイル提案型ショップや「グッドデザイン展」などで時間を割く二人。気付いたら、西日がすっかり傾いている。
 「そうそう、プレゼントをね、いろいろ考えてたんだけど、何かご希望があれば先にお伺いした方がいいかなって、どう?」
 「素顔の櫻さん、それが何よりのプレゼント」
 「また姫を泣かせるつもり? その素顔にしていただいた御礼がしたいんです。あ、そっか!」
 只今ガレリアの三階を歩行中。いいタイミングでいいものに出くわす。
 「筆記具とかマイバッグとか、いいの扱ってる店さっき見つけたけど、やっぱりこれよこれ」
 各地の銘木などを使い、職人の手によって創り出された箸の数々。各種麺類や豆腐の専用箸もある。
 「簡易包装でいいわよね。こっちが千歳さん、私はこれ。いつも携帯するように。フフ」
 ペアの竹箸、その一膳が誕生日プレゼントとなった。
 「大事に使わせていただきます。ありがと」
 「何々箸って言いますし、ね」
 「飯田橋に水道橋?」
 この後、彼女にバシっとやられたかどうかは定かではない。

(参考情報→ミッドタウンとその周辺

 「ミッドタウン周辺て、老舗ナチュラルレストラン、いやナチュラル居酒屋かな、ま、そういうのがいくつかあるんだけど、今晩は我が家へぜひ! いいでしょ?」
 「いいんですか?」
 「貴方、彼氏でしょ?」
 「櫻姫の大ファンでもあります」
 暮れかかる空、紅く染まる...
 「外苑東通りー♪ ハハ字余り?」
 二人の「乃木坂TWILIGHT TIME」だそうな。もう誰かさんに、打ち明けてないのぉ?とか冷やかされることもないだろう。寄り添う影が舗道に伸びて行く。ワンピースが千鳥格子だから、という訳ではないだろうけど、その影は時に止まってみたり時には斜めに動いたりとどうも安定しない。「今日のこと、ブログに載せちゃおっかな... 咲くLOVE×2、だもんね。おっとっと」
 眼鏡を外しているとどうにも危なっかしい。そんな櫻の手を引き、通りを北上する千歳。左折してしばらく歩くと、赤坂図書館近くにあるバス停に逢着した。ここからは新宿行きの都バスに乗る。

(参考情報→乃木坂 TWILIGHT TIME

 「絵を観て、デザイン鑑賞して、正に芸術の秋でございました」
 「私は恋愛の秋かな...」
 千歳の肩は寄りかかりやすいようだ。車窓左は神宮外苑、右には赤坂御用地。街路樹は秋色。その色を映していた陽が落ちると、機を合わせるように、櫻は遅い午睡に入る。

 「櫻さん家が先になっちゃいましたねぇ」
 「千歳さんのお住まいはずいぶん前に教えてもらったのにね。さ、着きましたよ」
 センターからは徒歩でも楽な距離だが、駅からとなると少々労を要する。妹君もお待ちかねということで、早足で歩かざるを得なかった分、ちと堪(こた)えた。年はとりたくないってか?
 「ただいまぁ」
 「あれ、千さんは?」
 スローな彼が扉の影から顔を出す。「どうも、おじゃまします」
 「櫻姉、やるじゃん」
 「千歳さんがどーしても来たい、って言うから」
 「櫻さんたら。ま、いっか」

 今日は蒼葉が食事当番。早くに自宅に戻り、三人分を用意してくれていた。バースデイディナーという程のことはないかも知れないが、前菜の盛り合わせあり、文花農園の秋野菜サラダあり、オランダ風俗画で観てきたニシン、それにシソをまぶした一品も。(これは蒼葉の気まぐれ惣菜。弥生と入った渋谷のパスタ店で注文した一皿に似ている?)
あ「あいにく主菜ってのがございませんで、このお惣菜関係と、あとはバケットで」
 軽く年令以上の品数を今日は口に運ぶことになる。そのありがたさもさることながら、姉妹にこうしてもてなしてもらえるのが何よりもありがたい。加えて、グラスワインなんぞで、
さ「ではでは、千歳さん、お誕生日おめでとうございまーす! 乾杯♪」
 なんてやられたら、そりゃあもう、である。
 「櫻さん、蒼葉さん、ありがとう...」
 年甲斐なく涙目になってきた。センチな千さんは、言葉少な。

 姉妹はオランダ風俗画の議論を交わし始める。
 「ねぇ、千歳さん、展覧会で観た中で、これ!ってのありました?」
 「修道院の少女、とか... あ、そうだ」
 その少女のポストカードはないものの、展覧会の主題画、本展外のフェルメール作品、人物描写が小さめな風俗画など複数のカードがテーブルに並べられる。
 「あら、いつの間に」
 「蒼葉さんの画風とは違うかも知れないけど、お気に召すのがあればどうぞ。招待券の御礼です」
 「そりゃどうも。じゃあこれを」
 彼女が手にしたのは、「真珠の耳飾りの少女」。瞳(め)が似てるなぁ、と思ってつい買ったものだが、本人も自覚しているのか、同じような角度でポーズをとって魅せている。気付いたら、千歳のグラスは空っぽ。
 「あ、お注ぎしなきゃ」
 きちんと席を立って、デキャンタから白ワインを注ぐ蒼葉。その様は正に「ワインを注ぐ女」である。カードと見比べる千歳だが、さすがにその洒落は口にしなかった。
 「なーに見とれてんの、千さん。姉さん妬くとコワイんだから」
 「何か言った? ワインを注ぐ女さん」
 彼の言いたいことはしっかり彼女に伝わっている。千歳はあわてて、
 「この絵のポイントは、遠近法とラピスラズリの青とパンの粒々描写と...」
 覚えたての解説を復唱して誤魔化してみる。
 「粒々、かぁ。小松さんは粒々を調べる女かな。ホホ」
 「弥生ちゃんはケータイを操る女」
 「蒼葉は干潟をうろつく女、ね」
 「そういう櫻姉は何よ?」
 「ただの恋する女」
 こうなると、千歳も手に負えない。櫻は眼鏡を少し外して「グラスを落としそうになる男」に熱い視線を送る。金曜の夜、宴もたけなわである。

 パンケーキを焼く女の話が出たところでひと休み。千歳は干潟で絵を描く女さんに話を振る。
 「蒼葉さん、その後、絵の方は?」
 「おかげ様で月曜中に描き終えました。今、持って来ますね」
 画板に付いたままの一枚、そこには流れるようなグラデーションで表現した川の青を基調に、空と風の青、ヨシの薄緑、干潟の白が写実的な中にも幻想的に描かれている。次はこれをもとに油絵を描くんだとか。「実は早くも漂着がチラホラあったんですけど、リセット直後の気分を思い出しながら描きました。皆さんの想いは青で表現したつもり」
 「これはね、私も感動した。で、higata@の皆様にもお見せしたらって言ったんだけど」
 「ま、考えときますワ。自分としてはまだ何かしっくり来ないとこがあって、その...」
 よくよく観察すると、青の間にグレーが紛れていて、どこか不穏なものを感じさせる。社会批評的な側面を投影させようとすると、どうしても翳が伴う。それが本来の川の姿であるなら、なおのことそれは忠実に表現したいところ。だが、環境を感じて興じてというのを優先させるなら、ネガティブな面はできれば出したくない。皆の笑顔を想うと、グレーな部分は打ち出しにくいのである。青の眩さとは裏腹に、そんな葛藤(コンフリクト)がこの水彩画には込められていた。

 食事もほぼ済んだ。次はバースデイケーキ、となりそうなところだが、
 「とりあえず、キャンドルだけ。申し訳ない」
 「まぁ、よっぽど舞い上がってたのね、櫻姉」
 「本当はミッドタウンのどこかで買って帰ろうと思ってたんだけど、ね、千歳さん?」
 ロングインタビューとか、泣き笑いハプニングとか、いろいろあったので致し方ないところではある。
 「そんな、今日だけでいったいいくつお祝いしてもらったかわからないくらいなんだから。もう十分でございます」
 と、恐縮する彼の眼前には、見覚えのあるキャンドルが。
 「この日のためにとっておいたのよ。フフ」
 夏至の夜に引き取り忘れて、櫻が預かっていた蜜蝋キャンドルである。益々恐縮する千歳だったが、何とか吹き消せた。

 にこやかなお二人を見て、蒼葉は思う。
 「姉さん、どこまで仕掛けたんだろ。宅に連れて来たくらいだから、きっと...」
 眼鏡の一件は秘密にしておこうというのは二人の暗黙の了解。だが、勘のいい蒼葉は何となくわかっている。「んじゃ、どうもおじゃましました。私は引っ込んでますんで、ごゆっくり」 毎度のことながら、よくできた愛妹である。

 お祝いはまだまだ続く。別棟(はなれ)ではお約束の発表会が執り行われるところ。
 「まずは、この間カラオケで流れた曲のレビューです」
 櫻はピアノに向かい、千歳は画家が使う丸椅子に腰掛ける。一曲目は、「キャットウォーク」の櫻流バラードバージョンである。原曲はリズミカルだが、櫻のは正しく弾き語り調。ピアノが切なく響く部分を巧みに強調し、清艶な一曲に仕立てている。時に囁くように歌う櫻だが、歌いながらキャットウォークを歩く、そんなシーンを思い描いているかのように背筋はしゃんとなっている。キャットと聞くと猫背になりそうだが、千歳も真にいい姿勢で聴き入る。
 二曲目、「花瓶」。カラオケで聞くのとはまた違う趣でしっとりと歌い、奏でる。間奏ではピアノが強めに入るところがあるが、そこはより情熱的に、しかもアドリブで長めに伸ばして弾きこなす。櫻が只者ではないことがこれでよくわかった。姿勢を保ちつつも前後にスイングしてみる千歳である。
 「千歳さん、いいわねぇ。歌姫の生演奏聴けて」
 「こういうのを贅沢かつ至福の時間て言うんでしょうね」
 「フフ、聴いてくれる人がいるから成り立つのよ、ね。じゃ、新曲行きますよ。『届けたい・・・』です」

 千歳自作の曲が櫻のピアノで再現される。よりメロディアス、よりメリハリが利いた感じ。「降り注ぐ 陽光(ひかり)集め 目覚めてく 動いてく 街...♪」 櫻らしい想いあふれる歌い出し。早くも傑作の予感。だが、歌詞は未完成だったようで、途中からはカンタービレ状態。歌を乗せられる曲であることがハッキリしただけでも成果は大である。
 「お粗末様でした」
 「いや、素晴らしい!の一言です。歌詞はまぁ、ゆっくり考えましょう。ン?」
 「千歳、さん...」
 櫻はゆっくり眼鏡に手をかける。...眼鏡を外すと何かが起こる、これは本日の一大教訓である。いいムードなのは多分にわかっているが、今日これ以上の進展はさすがにちょっと、と彼は左ペダル状態。プロセス管理というのは大げさとしても、この抑え加減が千歳らしいところ。それでも半年前に比べれば随分と進歩したものである。
 「さ、櫻さん、せっかくだからも一回、サビのとこ行ってみよう!」
 「何? ピアノレッスンですかぁ?」

 自室で何となく聞き耳を立てていた蒼葉は、
 「あれ? 鳴り止んじゃった。まぁ、あんまり遅くまで弾けないもんね...」
 と、トボけたことを云う。だが、心の中ではハラハラドキドキ。別棟が気になって仕方ない。程なく新曲のフレーズが鳴り出し、妙に安心したりしている。

 「もう、ほんとにクールなんだからぁ」
 愉しそうに弾いているが、内心は穏やかでない。夜遅い時分、少しは左のペダルを踏んだ方がいいのだが、抑えを外したい心理が勝り、むしろ右を踏んでしまう櫻である。千歳には彼女のそんな想いが十分過ぎるほど伝わっているので、とにかく鍵盤に向かわせようとムキになっている。せっかくの「届けたい・・・」がこれじゃ空回り、か。
 恋愛の秋とはよく言ったものだが、その形は多種多様。こんな過ごし方があってもいいだろう。二人が待ち合わせした時刻から、十時間超が経っている。千歳の秋の長い一日、略して「千秋一日(せんしゅういちじつ)」、これにてひとまず完(これぞ千秋楽?)

2008年3月4日火曜日

35. 課題曲 & 自由曲

十月の巻(打上げ編)

 三時ちょうど、停留所まで来た五人はここから二手に分かれる。自転車組三人と送迎バス組二人。
さ「弥生ちゃんと小松さんて、組合せとしては異色ネ」
ご「研究熱心って点では共通するよ」
ち「意外と音楽の趣味とかも似てたりして」
 アラサーの三人はお気楽なことを言い合ってるが、当の異色コンビはと言うと、
 「はぁ、八十年代、ニューミュージック?」
 「弥生さんが生まれた年? それ以降かな。とにかくその頃に流行った曲とか...」
 「でも、小松さんだって、小学校低学年くらいでしょ?」
 「兄貴がよく聴いてたんだ」
 「お兄さん?」
 「あ、とりあえず内緒ね」
 バス車中の限られた時間ではあったが、聞き捨てならぬ会話を交わしていたのであった。

 「榎戸さん、一人?」
 「えぇ、情報誌チームを代表して...」
 開場十分前、南実と弥生がまず打上げ会場に到着。この時、駐輪場では、
ま「ヤッホー! 櫻さん、と、二枚目コンビさん」
ご「何だ、全然元気じゃん。本当に二日酔いだったの?」
八「へへ、見ての通り。こっちはグッタリっスけど」
 櫻は舞恵の頭をなでながら微笑みかける。「つらかったら櫻姉が相手してあげるから。お酒に頼っちゃダメよ」 十数秒前は元気そのものだった舞恵だが、今は半泣きになっている。カウンター係ならぬ、カウンセラー櫻の思いつき療法、大したものである。彼女の如才なさを再認識しつつも、舞恵をちょっと羨ましく思う千歳であった。

 そして三時半、文花と蒼葉を除く、higata@メンバーが集結する。珍しく男女バランスがとれているが、紅白歌合戦なんて陳腐な設定は無用。とにかく歌いたい人がお好きなように、でいいのである。
 ところがここでの進行役、冬木は面白い提案を持ち出した。
 「この部屋、ドリンクバーが付いてるんで、各自ご自由にどうぞ。アルコールは個別にご注文ください。で、飲み物を揃えてる間に、この機械か本で選曲してもらって、ここのボードに番号のご記入を。あとは僕が順不同で入れてくんで...」
 「あ、それならも一つ提案!」
 カラオケ大好きの弥生ならではの妙案が飛び出す。
 「課題曲と自由曲の二部構成って、いかが?」
 「へぇ、課題曲ねぇ。例えば?」
 ツッコミどころではあったが、業平は優しく聞き返す。
 「千住姉妹に敬意を表して『さくら』または『あお』に関係する曲を課題曲。それが一巡りしたら、あとはご自由に、そんなとこです」

(参考情報→打上げ=カラオケ?

 すると、うまい具合に「あおば」さんが入ってきた。
あ「あれ、まだ誰も? よかったぁ」
や「遅いじゃん、蒼葉ちゃん」
あ「画板持って自転車こぐの大変だったんだからぁ」
さ「そうだ、描けた? 見せて」
 姉がさりげなく促す。
 「駄作ですけど...」
 一同は一様に「おぉ」となる。鉛筆で強く描かれた全景描写の上に、淡い青が走る。今回も川の水で彩色しようとしたが、水面に無数の草屑が浮いて来て、筆を溶く気にならなかったんだそうな。
 「ひとまず、青だけなぞってみたんだけど、皆の想いを表現できてるかって言えば、まーだまだ。また明日にでも続き描きます」

 これで「青」や「蒼」がすっかり印象付いてしまったようで、課題曲は「あお」関係がメインに。何がどう出て来るかはこの後のお楽しみである。番号入力を始めた冬木に弥生が尋ねる。
 「ここって、持ち込みOKですか?」
 「飲み物はダメだけど、食べる方はいいんじゃないかな」
 さすがに湯気は引っ込んでしまったが、仄(ほの)かに暖かさ残るパンケーキが顔を覗かせる。
 「そんじゃこれ、あ、どうやって食べよ...」
 「ハハァ、初姉ったらテイクアウトグッズ、入れ忘れちゃったんだ。まぁお手拭きあるし、一人一枚だから、つまんで食べましょ」
 折るとバターとハチミツが混ざって出てくる小型パックなんかはちゃんと入っていたので、もうちょい、といったところ。それでもニコニコな一品であることは変わらない。
 入室してから十分以上経っている。二曲分もったいなかったかな、と思われるが、人が歌っている間に選曲する煩わしさや失礼もないし、曲と曲の間が間延びすることもない。自由曲を入れる際は、またひと休みすればいいだけの話なので、この段取り結構イイかも、である。(千歳マネージャー的にも高評価?)

 ハモンドオルガンと乾いたドラムで始まる曲がかかる。このイントロ、ドラム部分だけ聴くと八広君のケータイ着信音そのものである。宝木君と奥宮さんが会話するきっかけを与えた名曲、「A Whiter Shade Of Pale」(邦題:青い影)である。早巻きで歌わないとつい字余りになってしまう曲だが、歌う時もいつものせかせか調が出るので結果オーライ。サビが少々苦しげだが、まぁまぁだろう。
 ディスコチューンで何か一曲とやれば、英語曲つながりで流れもよかったかも知れないが、苦し紛れの業平が選んだのは何と「青葉城恋唄」。
 「あら、『蒼葉嬢恋唄』だって、蒼葉ちゃん、さすがモテモテ」
 イントロが悠長な分、弥生のツッコミを許してしまった。これで調子が狂った業平君は、キーがずれたまま、されど朗々と唄うハメになる。当の蒼葉嬢はどこか楽しげ。
 次も「あお」系統かと思いきや、蒼の当人がリクエストしたのは、「桜色舞うころ」。姉に気を遣ってのことかどうかは不明だが、桜と来てこの曲を選択するセンス、なかなかである。

 曲は再び七十年代へ。「ブルースカイブルー」を歌うのは打上げ担当の冬木。場を盛り上げるつもりなら、「ヤングマン」とか演(や)ってもいいはずだが、課題曲という制約上、ちょっと意味深なこの曲になった。歌の世界とは裏腹に本人の薬指にはすでにリングが光っていたりするからなお悩ましい。
 アルコール類については酔いから醒めたばかりの女性への配慮からか、特に注文はしてなかったものの、冬木が気を回してピッチャー入りの生ビール(&カラオケ店にありがちな惣菜盛り合わせ類)を頼んであった。ちょうど曲と曲の間で店員が持ってくる。「あ、これ僕におごらせてください」
 「ピッチャー↑ ピッチャー↓、どっちだっけ?」 抑揚がよくわかっていない弥生がそんなことを口走っていたら、ピッチャーさんの番になった。奇遇? それとも予定調和?
 「文花さんも好きなのよ、松田聖子。さすが後輩」 と櫻は言うが、自身もこの曲はお気に入り。何となく声を合わせている。南実の選曲は「チェリーブラッサム」だった。「貴方へと続いてるー♪」と歌いつつ、視線を誰かに送っているが、どうも気付いてもらえていない。
 お互いに感想を言い合っている隙(ヒマ)がないのが、このシステムのネックだろうか。
 「今のって、弥生ちゃんが生まれる前に出た曲なのよねぇ...」
 ここにいる女性陣の中では最年長の櫻。年長らしい(?)一言がしみじみと語られる程度である。
 今度は八十年代つながりで、千歳が得意とするニューミュージックが流れてきた。
 「よっ、千ちゃん、待ってました!」
 原曲キーで大瀧詠一を詠うとはいい度胸である。曲は「ペパーミント・ブルー」。八広の制止も聞かず、生ビールに手を伸ばしていた舞恵だったが、千歳の何とも清涼感ある歌声に思わず自制。歌詞も爽やかだから、自然とそう聴こえるんだろうけど、そればかりではないようだ。
 南実は思い出すものがあったらしく、いつしか目元が潤んでいた。ルームはやや暗めだが、視力のいい蒼葉はそれをしかと目に留める。
 「千さん、何よ。愛しの櫻さんに捧げるんだったら、やっぱり桜関係でしょ?」
 システム発案者としては不満だったらしく、歌の良し悪しとは違うツッコミを入れてくれたりする。エンディングが長いことによる不覚。
 「一応、ラブソングだったんだけど」
 「じゃあちゃんと櫻姉の顔見て歌わなきゃ」
 そもそも桜関係と言っても、ここ数年の間に流行っているさくらシリーズ曲はどれも「散る」「舞い落ちる」がつきものなので、歌いにくいのが正直なところ。彼女の心証をわざわざ悪くすることもあるまい。だが、こうした弁解をしようにも余地が、ない。

 「あ、あたしだ」
 まだまだツッコミが続きそうだったので助かった。弥生嬢はBONNIE PINKさんの「You Are Blue, So Am I」と来た。ピンクにブルー?と変なところに引っかかっているオーバー30の男性諸氏だが、弥生のチャーミングな歌声にだんだん惹き込まれていって、しまいには「ブラボー!」てなことに。九十年代ガールポップ、おそるべしである。
 そんな盛り上がりを一気に静めるバラードが流れる。短いイントロに続き、櫻が囁くように歌い始める。「君の隣で、笑っていたい...」 目が合った千歳はこのワンフレーズでダウン寸前。選曲の妙もあるが、何よりその美声にすっかり酔ってしまった。蒼葉と弥生は承知済みだが、初めて聴く他の六人にとってこれは事件だった。

 ルフロンが入れた曲の番号がどうもエラーだったようで、次に行かない。余韻に浸っていたかったところ、好都合だったと言ったら失礼か。
 「ハハ、さくら系で無難なのって、この『桜の木の下で』なんですヨ」
 歌姫は恥ずかしげにコメントするも、聴衆は意に介していない様子。ただパチパチと喝采を送るばかり。「何か歌いにくくなっちゃったんスけど...」 舞恵は平素の無愛想モードになりかけていたが、そこは八広がカバーする。機械から直接番号転送してリスタートである。
 「え? こんな曲まで入ってるの? オドロキ」 夏女(?)南実にとって、リゾート系かつダンサブルなニューミュージック、しかも八十年代と来ればこれしかない。杏里、曲は「青」系統で「Dancin’ Blue」である。
 「千ちゃん、これ角松の曲じゃん」
 「やっぱ、路線的に近いものを感じるねぇ」
 シンガー&ソングエンジニアの二人はヒソヒソ話。
 「自由曲はその辺りで行ってみますか」
 「自分で歌う用じゃなくて、歌える人を探す用に番号入れてみるってのもアリ?」
 業平は妙なことを思いつく。この間、同じようなことを弥生は考えていて「まつだ... あ、あったあった」 課題曲の続きを勝手に入力し出していた。
 踊りながら歌っていたルフロンがマイクを高々と上げると、その曲はいきなりブレイク。本来ならここで正にブレイクとなる筈が、軽やかなリズムギターとコーラス、そして重厚なベル音、どこか懐かしいイントロが流れてきた。
 「えっ『ブルージュの鐘』って...」
 「弥生ちゃん、ブルージュってベルギーの町のことよ」
 「まぁ、いいじゃないですか。誰か歌って♪」
 とんだブルー違いだが、弥生はイントロの重低音に早速聞き惚れている。自分が生まれる前のアイドル歌謡曲(今で言うガールポップに通じる?)、特に一世を風靡した歌手の曲にすっかり関心を持ったようで、取り急ぎブルーで行き当たったのがこの一曲。「当たり」だったことは間違いない。
 文花がいれば、問題なかったんだろうけど、ここは代わりに後輩がフォロー。マウンドでバシバシ硬球を投げ込んでいた時とは打って変わって、しとやかに歌っている。櫻がモテ系と評したのはこうした要素を含めてのことだったか... 今は千歳が南実を見遣っている。

(参考情報(曲目解説)→カラオケの楽しみ方(課題曲編)

 すっかりご満悦の弥生嬢は、「青い珊瑚礁」「蒼いフォトグラフ」等のリクエストを入れることはなかった。時すでに四時半を回る。
 「では皆さん、ここでひと休み。自由曲、考えといてくださいね」
 喫煙者エドさんは、そう言い残すととっとと退室。一服しに行ったか。舞恵はタバコの代わりにビールを飲み干す。
 「あーぁ、ルフロンたら」
 「皆がいるから大丈夫、うぃ」
 今は「やってらんねぇ」酒ではなく、歓喜の一杯。その上機嫌ぶりには櫻も止めようがなく、二人して改めて「乾杯!」とかやっている。何故こうも仲が良いのかは実は本人達もよくわかっていない。
 何はともあれ、舞恵に遠慮する必要はなくなった(?)。俄かにアルコール解禁ムードになる。弥生はペパーミントブルー系のカクテル、蒼葉はやっぱりワイン。ルフロンとの酒づきあいが浅薄、即ち下戸な八広君はウーロンサワーがいいところ。自転車で来ている都合上、飲酒運転レベルならないようにしたい業平、千歳、櫻の三人は、正体不明、無添加健康サワーで一致する。戻って来た冬木は引き続きビールを注ぐ。南実は意外にもアルコールNGということで、
 「せっかくドリンクバーあるんですから、ここはアイスコーヒーで」
 これにて晴れて全員で「カンパーイ!」 やっと打上げらしくなってきた。
 今は正気のルフロンは、「今日は舞恵のせいで、八クンともどもドタキャンになっちゃって、申し訳なかったです。お詫びに、デザートか何か一品ずつ、ご馳走しますワ」
 気前のいい舞恵さんなのであった。

 冬木は皆の分を入れながら、ちゃっかり自分の十八番も挟み込んでいる。業平と千歳も戦略的にお試し曲の番号を書いておいた。はてさて何がどう出るか、ハラハラドキドキのフリープログラム(第二部)である。
 いわゆるシブヤ系だが、フランスモードの楽曲が多いので贔屓にしている。ワイン片手に蒼葉が歌うは、ピチカート・ファイヴ「キャットウォーク」。姉と比べてはいけないが、妹も十分、佳い声艶をしている。詞の世界同様、何とも艶麗。冬木は蒼葉とは今日が初対面だったが、通販大好き人間だけあって、カタログに出てくるモデルさんについてもある程度頭に入っていたりするもんだから、見覚えがあった(ことに気付いた)。他の男子は歌声に聴き入って(または容姿に見入って?)たりするが、冬木はちょっと違うことを考えている。話すきっかけは掴(つか)んでいる。あとはいつ話しかけるか...。姉の櫻の手前、何となく自重しているだけ。どうにも油断がならない。
 お次は、南実嬢による、今井美樹「retour(ルトゥール)」。タイトルからして、これもフランスモードではあるが、いわゆるJ-POPである。弥生が生まれて以降の曲ではあるが、彼女にとっては接点がなかったらしく、重厚なドラム&ベースに調子を合わせながらじっと耳を傾けている。
 「小松さん、さっきは『チェリーブラッサム』で、今は『ルトゥール』って、何か曲のテーマが再生とか再出発なんだけど、意図あり?」 長めのエンディング中に櫻が問いかける。
 「え、まぁ、今日のクリーンアップでリセットできたから。干潟に想いを込めて、かな」
 歌とその殊勝なお言葉に対して大きな拍手が送られる。自らに対しても少なからずそういう想いはある筈だが、どうなんだろう。
 小気味良いパーカッションにドラムが重なる。あまり聞き覚えのないイントロが流れ出すと、八広と舞恵が立ち上がった。
ご「何? デュエット曲?」
や「へぇー」
 何だかんだ言って、さすがは恋仲のお二人さん。その曲は、DOUBLE & HIRO「Let’s Get Together」(Groove That Soul Mix)である。時折顔を合わせながら「We can be lover...」とか歌っているが、この二人に関してはすでにそういう仲なので、何を今更?と冷やかしも入る。いやいや未だ恋愛状況が明確でないアラサーカップルに対する応援歌のつもり、なのかも知れない。ともかくこのノリのいい一曲は、リズムセクションとしての二人の器量を量る上でも絶品だった。業平と千歳はこと盛大に手を叩く。

 行儀よく一礼する八広と舞恵を吃驚(ビックリ)させたのは他でもない。その曲はブラスとドラムの一大音響で始まる。短いイントロの間に、今度は千歳が立ち位置へ。
 「あ、この曲...」 櫻はどこで聴いたのやら。だが、聴いたことのある曲とわかれば歌う方も気楽なものだし、同時に気合いも入る。
 千歳にとっては十八番(おはこ)の部類なので、気分良く歌唱していたのだが、間奏になるや否や、 「まだ打ち明けてなかったのぉ? キャハハ」との声。ルフロンに突っ込まれては立つ瀬なし、である。この「YOKOHAMA TWILIGHT TIME」は、サックスがまた泣かせる。弥生にどうこう云われないように、櫻に捧げるつもりで選曲したのだが、どうも違う女性の琴線に響いてしまったらしい。その潤んだ目線に今度ばかりは気付かない訳に行かない千歳だった。
 サックスに続くリードギターのフレーズに冬木は陶酔する。八広はドラム、弥生はベースにそれぞれ肩を揺らす。歌が二の次というのがシャクではあるが、千住姉妹はちゃんと清聴してくれているようなので、それで十分。
 「いつ打ち明けてくれるんだろうね?」
 「私から切り出さないとダメかもね」
 姉妹は歌声よりも歌詞に関心を寄せていただけだったか。いやはや。
 バラード風のイントロが聴こえてきた。メドレーではないが、角松敏生つながりである。
 「誰? 『花瓶』て?」
 「入れ間違いかしら。でも、ここは私が」
 お試し曲の一である。櫻がこの系統の曲をご存じかどうか、あわよくばそれをどう歌うか、が知りたかったようだ。千歳の自作曲二編については、特に難色を示した訳ではなかったので、音楽的な素地に大きな開きがないことはわかっていた。だが、曲をお渡ししたのは、ピアノでのアレンジとちょっとした詞、というのを期待したまでのこと。ピアノに歌、という櫻の新たな一面がわかったことで、その期待は違う形で膨らんでいった。この『花瓶』はピアノ弾き語りに向きそうな佳品... そう、この線で処遇しない手はないのである。業平と千歳のソングエンジニアコンビは僭越ながら審査用(課題曲)の心算(つもり)でこの曲をリクエスト。「これは佳い」とか唸りながら、何かを確信する男性二氏であった。
 「ありがとうございました」 歌姫はお辞儀して一言。いやいやそれは男性二氏側の台詞だろう。

 弥生のケータイが鳴ったのかと思いきや、オケの方だった。エコーが利いている分、より重低音が響く。
 「この曲、だったんだぁ」
 櫻と千歳は何度か耳にしているので、リアクションも速かった。その曲とは、ROUND TABLE(Feat.NINO)「パズル」(extre hot mix)。弥生のガーリッシュな声がよく通る。キーが変わるところも上手く歌いつないで、満面の笑み。男性陣は再び騒然。ルフロンは八クンをどついている。
 まとめて入力したせいかどうか定かではないが、オケの方が勝手に小休止していて、次に移るのに少々間が空く。
や「ひきこもり青春アニメの主題歌です」
さ・ち「え? ひきこもり?」
 得意作業の性質上、放っておくとひきこもり状態になってしまうのはわかるが、まさか当人がかつては実際にそういうことになっていた、というのを知る者はここにはいない。毒もチャームポイントのうちだが、好きで舌鋒が鋭くなった訳でもなさそうである。そのアニメ、どういう心境で観ていたんだろうか。
 櫻の自選曲がやっとかかった。審査員二氏はまたしてもヒソヒソ話。
 「カラオケで古内東子って、初めて遭遇したかも」
 「アレンジャーとか、近そうだね」
 その曲は「あいたくなったら」。詞を真に受けるとドキリとなるところだが、当の彼氏はどう思っているのやら。「私の気持ちがあなたのよりも1グラム多いだけで不安...」 二人の想いのバランスを保つのも時には必要。だが、それに気を遣うのが恋愛なのかどうなのか。少なくとも直情型の櫻にそれを求めてはいけない気がする。それでも自分ではいつしかそんな器用さを身に付けつつあって、余計に詞の世界がしっくり来ているようだ。問題はそんな彼女の気持ち(歌に乗せた想い)が届いていないであろうこと。スローなのはいいが、その鈍さ加減の方が櫻にとっては不安要素かも知れない。千歳はただ、「ミディアムテンポの曲もバッチリ...」とあくまで歌唱の方に感服している最中である。

 巧みに紛れ込ませていたはずが、順番的には結局ラスト。冬木の番になり、今度はSING LIKE TALKINGで来た。この後は、ルフロンのクリスタル・ケイ、業平の和製ディスコ系などなど。系譜としてはダンサブルな感じなので、聴衆はBGM感覚でそこそこノッている。
 当初二時間の予定だったが、そんなこんなですでに時間延長の域に入っていた。一巡以上したところで、ようやくブレイクになる。
 「あれ、送迎バスの最終便って何時でしたっけ?」
 「確か六時だから... あら、そろそろ出ないと」
 櫻は時計を気にするも、弥生嬢はギリギリまで粘る作戦に出る。
 「じゃこの曲歌ったら」
 この手の機械に強い弥生は、サラっと検索すると、そのまま転送。ディストーションのかかったエレキギターが鳴り出す。My Little Lover「YES」である。詞は少なめだが、重い。実体験と重ね合わせるような思わせぶりな歌い方がまたいい。
 「えっと、おいくらでしょか?」
 「歌も良かったし、二部構成の発案もgoodだったし、無料無料!」
 業界人(?)冬木はさすが大盤振る舞いである。

 再び男女バランスがとれ、年齢層も固まってきたところで、もうひと盛り上がりと行きたかったが、あの人が歌うと次は嗚咽してしまうかも、と悟った南実が席を立つ。
 「え、小松さん、お帰り?」
 冬木としては予想外の展開だったようだ。
 「では、女性二千円、男性二千五百円、あとは奥宮さんと僕で...」
 三時間で何となく飲み放題付き、このお値段ならリーズナブルか。higata@の皆さんは案外ちゃっかりしている。
 「ありがとうございまーす」 で軽く済ませてしまった。
 打上げ担当が集金している間、弥生流に機械操作で検索&転送を試みる男女六人。そうこうしているうちに六時をとうに回り、終演が近づいてきた。お試し曲の二はあいにくお預け。

 蒼葉のラストは、南実に聴かせるつもりもあったのか、竹内まりや「プラスティック・ラブ」である。(注…ここでのプラスティックはあくまで造形的な恋模様をたとえたもので、プラスチック賛歌ではない。) そのまま達郎つながりで「硝子の少年」へ。これは千歳と業平の「欣喜(KinKi)キッズ?」が唄う。振付がつかないのが三十代男性の泣き所か。
 中山美穂を歌ったついでで、櫻が思いついたのは「Mellow」。前半はしっとりめが続いたが先の古内の曲でテンポが少し上がったため、ラストはまたちょっと軽快に...ということらしい。サビのところでは軽く振付もあったりして、男衆にとっては正にメロウ。
 「動画サイト見てたら、本人映像とか出てきたんですよ。それでちょっと覚えたの。YOKOHAMA~とかもそれで」「へぇ...」 歌い終えて、櫻は千歳に耳打ちするも、メロウを超えてメロメロになっているので、話にならない。「また行き過ぎちゃった、かな?」
 こういう場でのトリはやっぱりGo Hey君に限る。ラストはズバリ、「WAになっておどろう」! 「イレアイエー」とか「ランラァランラァラー」とか見事合唱モードに。皆さんよくご存じで。

(参考情報(曲目解説)→カラオケの楽しみ方(自由曲編)

 こうして盛況裡に打上げは終わるも、真面目な面々はここでもふりかえりに余念がない。EdyさんとLe frontさんが会計している間、五人はロビーで語り合っている。
八「それにしても、ここ最近の曲って出なかったスね」
ご「女性チームも、流行の歌姫系とか一切なかったし」
さ「そうねぇ。姫ってのもどうかと思うけど、とにかく歌い上げるのとか、チャラチャラしたのって苦手なのよね」
あ「歌ってて肩凝っちゃう感じのって、聴く方にしてもおんなじでしょ。歌い流せて、でも奥行きがあって、ってそんな曲がいいなぁ」
ち「それは言える。流す...ね。でも、時代に流されちゃう音楽ってのは考え物。近年のチャート事情見てると、とんでもないなぁって。思わない?」
ご「よくわからんけど、初登場一位の曲が翌週には十位とか圏外とか、って聞くね、確かに」
八「要するに音楽も使い捨て、ってことスか」
さ「もともと流行(はや)り廃(すた)りとは言うけど、最近は特に消耗品みたいになってるのかも、ね」
あ「漂流・漂着して、そのままになってる音楽もあるってこと?」
 そういう面は無きにしも非ず。音楽をゴミ化してしまっていい道理はない。では、消耗されない音楽とは? 自分で聴きたい曲を自分で創って大事にする、そういうこととも関わってきそうだ。

 「今日は本当にゴメンナサイ。でも舞恵が行かなかったおかげで、天気だったんだから好かったっしょ?」
 「初音嬢とか六月君とか淋しそうにしてたワよぉ。大変だったんだからぁ」
 櫻がからかい気味に応じるもんだから、ヘコんでしまったナイーブ舞恵さんである。ここは蒼葉が優しくフォロー。
 「まぁまぁ。どんな状況だったかは追々。higata@で意見交換することになってるし、おなじみモノログに、姉さんのラブラブブログにも詳報が出ることでしょうし、あ、あと情報誌も。ですよね、ムシュエディさん?」
 蒼葉に話しかけようと思いつつ、つい失念していた冬木だったが、先にこう振られてしまっては、自嘲するしかない。
 「あ、えぇ。今度はフライングしないように気を付けますので、皆さん予定稿のチェック頼みます。ハハ、ハ...」

 この打上げまでがオプショナルイベントだったとすると、ほんと盛り沢山な一日である。散会の挨拶等を交わして外を見ると、とうに暗くなっている。だが、帰宅するにはまだ早いと見る向きもある。
 「明日休みだし。もうちょっと八クンにつきあってもらう」
 リズムセクションの二人は商業施設内でショッピングetc.と相成った。業平と冬木はアルコール抜き、されど一服ができる場所ということで某カフェへ行く。つきあいとはいえ、これでまた禁煙中断か。試練の喫煙席は店の外。
 「ところで、隅田さんと千住さん、てカップルですか?」 この質問、前にも聞いたような...
 「はぁ、今はそうですね」 何とか吸わずに済んでいる業平が短く返す。
 「僕はてっきり小松さんがお相手なのかと思ったら、途中で帰っちゃったから、あれれ?って」
 「ハハ、彼女はガード堅そうですから。それでいて直球派ってのがまたスゴイとこ」
 冬木は一回吸ったきりで話に夢中。点火された一本は灰皿でただ短小になっていくばかり。
 「実は...ってことないですか? 少なくとも彼女は隅田さんに気があると思う」
 そう見られるんだとしたら、南実もちょっとした演技派ということになる。だが、実際のところは本人に聞いてみないことには何とも、というのが業平の本音。昨日のことのように思えるが、その南実嬢からホームランを打ったのは本日午後。清々したばかりだけに、そういう話はちとツライ。渋面になるのも無理はない。
 「そう見えるだけじゃないかなぁ。千歳君と櫻さんはhigata@内では公認ですからね。もしそうだとするなら、何か別の理由があるんだと思いますよ。だいたい榎戸さんが気にすることでもないでしょが」
 冬木の読み、決して違っていた訳ではない。業平の推察もいい線行っている。その理由とは... それはいずれ、然るべき情報筋から聞き知ることになるだろう。
 業平から冬木へのアフィリエイトの支払い、情報誌サイトへのリンク、そして、
 「ところでソーシャルビジネスの件ですけどね...」 前置きが長くなっていたが、ここからが本題。流域ベンチャーと提携する上での話ならコミュニティビジネスと行きそうだが、あえてソーシャルと切り出す冬木。何をどうするおつもりか、相変わらず曲者臭を漂わす社会的起業担当者殿なのであった。

 ちょうど三ヶ月前と同様、スーパーで買い物を済ませた二人。前回と違うのは妹君が随行していること。三人とも空腹ではないので、どこかでわざわざ食事するでもない。小腹が空いた時に備えて軽く買い込んだ程度である。
 七時を過ぎているが、蒼葉は得意のピチカート・ファイヴで、「東京は夜の七時...♪」とか口ずさんでいる。歌のテンポに反して、三台の自転車は、基本的にはスローモードで進む。が、画板が時に煽られてヒヤリとする場面があるため、そのモードはさらに低速になる。見かねた千歳は、
 「橋を超える時とか危ないでしょ。僕、預かるよ」
 「じゃあ千さん、明日引き取りに伺いますわ」
 「いやぁそれは... 橋のところでお渡ししますよ。朝十時でいいですか?」
 危うく蒼葉の大胆行動にしてやられるところだったが、櫻の無言の圧力もあって回避。そう、拙宅にお招きするのはまず姉君から、である。
 「枕元に飾っておくと、きっといい夢見れますよ」
 櫻は至ってにこやか。
 「そうそう、それでまたキャッシュカードが見つかったら、新たなストーリー再び... 何ちゃって」
 「蒼葉ったら、フフ」
 送迎バスが通る大通り。舞恵の勤務先である銀行付近で姉妹とはお別れとなる。 「モノログが先か、メーリングリストが先か...」 そんな思案をしつつ、蒼葉の下絵をPCの前に立てかけてみる。風や波の音をなぞるように青が配されている。絵からその微音が聴こえてくるようだ。千歳の一日はまだまだ続く。