2008年3月11日火曜日

36. 千秋一日

十月の巻(おまけ)

 待ちに待ったデート休暇当日。櫻は半袖のエレガント系ワンピース(千鳥格子)に大きめのリボンベルトを当て、白のジャケットを着用。
 「いいねぇ、櫻姉。ま、しっかりやんなよ」
 「プレッシャーかけないでよぉ。今日の主役はあくまで千歳さん。私は彼に合わせるだけ」
 とは言うものの、本日のデートコースは櫻の全面コーディネートである。いったい何を合わせるおつもりなんだろか。
 こちらは、パーカ風のシャツの上に洗いざらし系のジャケット、スラックスも洗いざらし風という出で立ち。今日で櫻さんとは同い年ではなくなる訳だが、格好からしてあんまりそういう緊張感は感じさせない。いつも通りの千さんである。お約束の十一時よりもかなり前に原宿駅に到着。今は神宮橋の上から山手線やら湘南新宿ラインを見送りながら佇んでいる。同じく少々前にやって来た櫻嬢は、そんな彼氏を首尾よく見つけて、背後から声をかける。
 「お客さん、何か落し物ですかぁ?」
 「あ、実はキャッシュカードを...」
 「もう、千歳さんまでぇ」
 よく晴れた金曜日。気温も程々。ジャケットを着るには及ばなかったかも知れないが、三十路の秋の装いとは斯くあるもの。表参道を闊歩(かっぽ)するにも丁度いい。

 神宮前交差点までは下り坂なので楽なのだが、そこから先は緩やかな上り。
 「自転車タクシーに乗れば楽なんでしょうけど...」
 「この辺じゃ最近見かけないねぇ。六本木ヒルズ周辺にシフトしちゃったとか」
 「まぁ、徒歩が何よりもエコよ、ね?」
 とか言いながら、彼氏の腕につかまっちゃう彼女である。ただでさえスローな千歳は、これでさらに歩速が鈍くなる。だが櫻はちゃんと歩調を合わせている。合わせるってのはこのことだったか?

(参考情報→自転車タクシー

 「初姉のお店に似てるんだけど、主菜、副菜が充実してるって言うか、その場で見て選べるとこがあるの。ご案内します」
 表参道ヒルズに寄るでもない。アニヴェルセルにも御用はなく、その手前で右折。寄り道と言えば、クレヨンハウスの地階で旬の野菜をチェックするくらい。櫻のこの精神的にスローな感じが千歳には心地良かった。
 ブランチをいただくお店が開くまでのちょっとした時間調整のつもりだったが、
 「ハハ、また迷っちゃった。失礼」
 目的地に着いたのは、十一時半をとっくに過ぎてから。だが、それほど行列はできていない。この待機時間中に品定めするのが通なんだとか。一人三種類選べるので、二人だと最大六種類の小皿が並ぶことになる。どれが主でどれが副だかが結果的にわからなくなってしまったが、二つのプレートには、五目あんかけ豆腐、ポークとキノコの何とか、ペンネ&マリネ、オニオン&根菜、ジャーマンポテト、磯辺揚げといった品々で満たされる。これにおかわり可能なごはん、スープ、ドリンクが付く。さすがは青山、ランチ店の層が厚い。

(参考情報→港区北青山三丁目の2つの店

 「そっか、千歳さんお箸持ってないんだ」
 「そういう意識はあるんだけど、いざとなるとね。面目ない」
 「いいのよ。私だって別にマイ箸の方がありがたく食事ができそうな気がするから持ってるだけ。環境保護どうこうって云うつもりないし」
 会計時にこういう会話が交わされるのは、最近では珍しくもないか。彼女の方は割り箸を辞退しつつ、財布を取り出す。
 「千住さん家は富裕層じゃございませんので、千円ランチで恐縮ですが、お誕生日祝いネ」
 「ご馳走様です。ありがとう」
 誕生日席という訳ではないのだが、えらく深々したソファ席でいただく。食べる時は逆に前屈みになってしまう。
 「二人で違うのを取ると、ちょっとした品数になるでしょ? それもポイント」
 「櫻さん、いい店ご存じで。青山よく来るんですか?」
 「センターの資料配置とか考える時に、文花さんとここの近くの施設に見学に来たんです。その時、連れて来てもらったのが最初。その後も蒼葉と来てみたり、ですね。別に青山にしょっちゅう、ってことはないけど、来たら寄る、そんなとこ」
 話しながら、箸を伸ばしてくる。「千歳さんもどうぞ。好き嫌い、ないでしょ?」 前屈姿勢なので、お互いの品をシェアしやすいのは事実。箸とソファは使い様である。
 同じ種類であれば何杯でもおかわりできるってのは、毎度おなじみカフェめし店と共通する。だが、ここでドリンク片手に延々と話し込んでいるよりは、あちこち動き回りたいというのが探訪好きな二人のお望み。お出かけ日和でもある。一時間ほどで店を出て、青山通りへ。
 「さて、これから六本木へ向かう訳ですが、骨董通り経由だと遠回り。されど、墓地を通って、てのもねぇ...」
 「ま、時差券持ってますから。一駅分だけど、メトロで」
 「賛成! 駅の中のお店、見てみたかったし」
 てな訳で、乃木坂に着いたのは一時過ぎ。車両後方の階段を上がると、国立新美術館直結の真新しい出口に通じる。
 「はい、これは妹からプレゼント」
 「え、蒼葉さんが?」
 「あの娘(コ)、一応その筋の関係者だから、こういうの手に入れやすいみたい」
 櫻が取り出したのは、「フェルメール『牛乳を注ぐ女』~」展の招待券二枚。本日のプランは概ね聞かされていたので、自己負担範囲も想定はしていた。古楽器の展示もあるというので、千歳としても観覧したかった同展である。当日券でもよかったところ、ご招待扱いとは、嬉しい想定外。姉妹のご厚情に感謝感激、なのである。

 風俗画、工芸品と観てきたところ、弦楽器などが置かれた一室が出てきた。
 「あれってチェンバロ?」
 「えぇと、ヴァージナル、ですって」
 「へぇ...」
 鍵盤と来ればやはり櫻。中世の器楽曲、そのヴァージナルの打鍵音、想像を働かせているのが何となくわかる。芸術の秋、音楽の秋、である。そして次のコーナー、版画と素描へ。
 「フフ、『パンケーキを焼く女』ですって。初音さん、どうしてるかしら?」
 「明日に備えてるんじゃ... あ、授業中か」
 明日に備えないといけないのは何を隠そう、千歳君の方である。センターご出勤初日を控えている割には、実に悠長。彼にとっては音楽の~というよりは、お気楽の秋、だろう。
 櫻が図録を繰っている間、千歳はポストカードを何枚か買い求める。カードとは言え青は青。購入後もその色に魅入っていたので、十月の空の青がありふれて見えてしまうのであった。

(参考情報→国立新美術館から東京ミッドタウンへ

 美術館後の行き先については選択肢があるが、コーディネーターさんはハッキリしていた。
 「ヒルズはヤダ。ミッドタウン!」
 直方体の建物を前方右手に見ながら星条旗通りを歩くこと数分。その直方体が二人を迎える。
 「千歳さん、私、眼鏡買い替えようと思ってるんですよぉ。どんなのがいいか、選んでほしいの」
 「ミッドタウンで眼鏡? 櫻さん実はセレブなんじゃ...」
 「あ、いえ、デザインだけ。買う時はそれを参考に、巷で流行の五千円前後のに...」
 当地にはハイセンス眼鏡店が複数ある。どっちから行こうか、と思案していたが、櫻はもっと大事なことを思い出す。
 「と、その前に確認事項がありました。どうしよ... とりあえず公園」
 ガレリアをそのまま直進し、檜町(ひのきちょう)公園へ。まだ三時にはなっていないので、おやつタイムには早い。テイクアウト類なしで、とりあえずベンチに腰掛ける二人。ちょっと間を置いてから櫻が訊ねる。
 「正直なところ、眼鏡の櫻さんてどうですか?」
 「美人だと思いますが」
 「いや、そうじゃなくて...」
 千歳は十分わかっていたが、ちょっとはぐらかしてみたかっただけ。決して鈍いという訳ではない。櫻は俯き加減。
 「眼鏡をしててもしてなくても、櫻さんは櫻さん。大好きな女性(ひと)であることに変わりはありません」
 急に顔を上げて聞き返す。
 「え? 今なんて?」
 「言わなくてもわかってる、って、それじゃダメなんだよね」
 こういう時、その感情を目に見える形で示すというよりは、その言葉一つが何より大事だったりする。だが、その言葉を早く伝えたかったのはむしろ彼女の方だった。
 「そうそう、私も教えて差し上げないと... 千歳さんのそういう素直なところかな。一番好きなの」
 千歳はもう一度きちんと声に出そうと思ったが、こう来られたら言葉を呑み込むしかない。彼氏は的外れなことを聞く。動揺ありあり。
 「って小梅嬢に言ったの?」
 「つい調子に乗っていろいろ喋っちゃったからなぁ。どれがその一その二ってわかんなくなっちゃった」
 彼に合わせる、それはつまり親愛の情を言葉にするタイミング、を主に指していたようだ。合わせなきゃ、という意識先行でここまでセーブ気味だった櫻だが、もう合わせるのはおしまい。肩に寄りかかってみる。「千歳、さん...」 言葉に出すと、その情感はとめどなく展(ひろ)がっていくものである。秋の空は澄んでいて、どこまでも高い。言葉は風に乗って青空に溶けて行く。

 どこからか三時を告げる鐘が鳴る。
 「櫻さんの素顔をお見せする時が来たようです。千歳さん、今の心境は?」
 「いやぁもう... ドキドキです」
 「そうですかぁ。櫻さんもドキドキして来たようですよ」
 「ここは東京、ミッドキタウン、ですもんねぇ」
 「何だかなぁ」
 名物三人娘も定評あるが、「千と櫻」のコンビもなかなか笑わせてくれる。七日のマイクパフォーマンスでその片鱗は見せていたが、この調子ならいつでもOK? ステージさえ設ければ何かやってくれそうである。
 高級店に入ればただでさえ緊張するところ、異なる緊張感がさらに輪をかけてくる。
 「細めレンズが流行ってるみたいだけど、櫻さんはやっぱり丸眼鏡の方がチャーミングかな」
 「じゃ、は、外しますよ」
 「おぉ、櫻、姫...」
 「エへへ」
 六月に横川駅で撮ってもらったツーショット写真は手帳に忍ばせてあって、時々眼鏡なしの櫻さんを眺めては唸っていた千歳君だったが、間近で見るのは今日、この時が初めて。ドキドキを通り越して、名状し難い心理状態になっている。
 「どう?」
 「あ、そっか。いいんじゃないスか。フレームレスは?」
 店員が近づいて来ない間が勝負である。ここで何色が似合う?とかやり出すと、収拾つかなくなりそうなので、そそくさと引き揚げる。さっきからドキドキし通しである。
 「ハハハ、ドキドキしてたらノド渇いちゃった」
 「それじゃ今度は僕が」
 カフェ&スイーツ店が目白押しなのはいいが、客の入りも押し気味。オープンな感じのベーカリー店を通りがかったら、折りよく空席ができた。談話するには丁度いい、適度なソファ席。

 「櫻さん、眼鏡に関してはいろいろとエピソードがありそうだけど、よかったら教えてもらえませんか?」
 「はぁ、何からお話ししたらいいものか...」
 久々に櫻へのインタビューを試みる千歳である。振り返ってみると、素顔を見せてもらえるまでの筋立てが実に凝っていたというか、外そうとすれば蒼葉が止めてみたりといった演出もあったし、まるでウズウズさせるように仕向けられていたかの如く、である。
 「ステージの話はこの間しましたよね。その頃はまだ近視じゃなかったんで、眼鏡もかけてませんでした。ま、自分で言うのも何ですが、ピアノ弾きながら歌って、歌姫さんだった訳ですよ」
 今は彼女に合わせている彼。黙って話を聞いている。
 「当時おつきあいしてた人もちょっとしたボーカリストで、デュエットしたり、一緒に曲作ったり、いい感じだったんです。でもホラ、私、つい夢中になっちゃうから...」
 話がまだよく見えない。千歳はカフェオレをゆっくり口に含み、ただ待つ。
 「千歳さんのお誕生日だってのに、私ったら何喋ってんだろ。ごめんなさい」
 「いやいや。話した方が気が晴れることもあるから。お続けください」
 櫻のカフェモカに乗っていたクリームが何となく縮んできているが、話を聞いてもらうのが優先。
 「その人の曲をピアノで採譜したり練習したり。暗い中でやってたのがいけなかったんでしょうね。視力落ちてきちゃって。それで眼鏡をかけた。そしたらね」
 櫻の愁い顔を見るのは何日ぶりだろうか。千歳はマズイと思ったが、ここで止めては不可ない。櫻のカップからはクリームが見えなくなってしまった。何かを呑み込むように彼女は話を継ぐ。
 「眼鏡は嫌だ、ですって。私の歌とか演奏とか、いや、そもそも人となり? そういうの全然関心外だった、それがわかったんです。顔貌(かおかたち)でしか見てなかったのねって... 大ショック」
 蒼葉が以前強い口調で話していた姉の失恋事件、その真相がおぼろげながら見えてきた。
 「男性不信になっちゃった、とか?」
 「そりゃあもう。こうなったら眼鏡で通してやる、って思いましたよ」
 「でも、あるがままの櫻さんを見てくれる人もいたでしょ?」
 「いた、かも知れません。でも二千年以降は恋愛らしい恋愛はしてませんでした」
 「そう、だったんだ...」
 本来ならまろやかな筈のカフェオレが苦く感じてしまうのは気のせいだろうか。セットのプチタルトにもまだ手が伸びない。櫻は深呼吸してから、その想いを口にした。
 「でも、四月一日に私の中で何かが変わりました。エイプリルフールじゃないですよ。この人ならもしかして、って...」
 「櫻さん、あの日そんな風に?」
 蒼葉の言ってた通りなのだが、あえて問い直してみる千歳。
 「そう。でもね、年のせいだか何だかよくわからないんだけど、自然と抑えが効くもんだから、昔みたいにダーって感じにならなかった。ブログの存在も大きいかな。書き綴ることで気持ちを静める、みたいな。ブレーキかけながら千歳さんと接してた気がします。変な言い方だけど...」
 「僕は僕で櫻さんに合わせてた、というかむしろ引っ張ってもらってた気がするなぁ」
 「そっか、ちょうどよかったんだ。それは何となく気付いてたかも。バランスとってたってことかしら、ネ?」
 1グラム多いか少ないかってのは大げさだろうけど、お互いのペースを尊重して(いやペースに委ねて)きた結果、絶妙なバランスで両想いが成り立っていた... 決して過言ではないだろう。
 「それはそれで心地良かったんだけど、素顔を見せられないのっては苦しいものです。旧七夕デートの時にね、解禁したかったんです。本当は。でも、あるがままの私でいいってのをその、もっと確証が持てるようになってからでもいいかなって」
 「そんな葛藤が...」
 「いや、葛藤ってほどでもないんだけど、蒼葉が言うんです。その日が来るまでとっとけって。で、今日の佳き日が来た。もうね、私から言っちゃおって思ってたの。それで千歳さんも返してくれればもうそれでいいや、素顔をお見せしよう。だから、大好きな女性って言ってくれてすごく、嬉しくて、うぅ...」
 今日からはもう彼の前で眼鏡を外せる。彼女にはそれがまた嬉しい。素顔だが、すっかり泣き顔になっていて、自分でもどうしていいかわからない。
 「あ、いけない、笑顔笑顔...」
 「櫻さん、ずっと我慢してたんでしょ。いいんだよ、泣いたって」
 「そんなこと言ったら、もっと泣けちゃうじゃん。意地悪ぅ、うう...」
 うれし泣き、それとも泣き笑い? 千歳は櫻が愛おしくて仕方なくなってきた。

 「あーぁ、せっかくのクリームが... 溶けちゃったぁ」
 涙を拭くでもない。そのまま乾くのを楽しんでいる感じ。それでもって、この呑気なこと。どうやらその溶け加減が彼女の今の心理状態を表しているようで、これ快哉(かいさい)、としている。素顔かつ笑顔。千歳の方も目が潤んできた。
 そんな彼の目を、彼女は目を細めて見つめる。そして問う。
 「そう言えば、千歳さんて視力いいの?」
 「コンタクトレンズです」
 「そうだったんだ。私もそうしよっかな」
 「そしたら世の男性諸氏が... あ、いや櫻さんの魅力は、その...」
 千歳のこのドキマギ調が櫻にとってはまたたまらない。ついからかいたくもなる。
 「心配? なら、傍についててもらわないと、ねぇ」
 午後の陽射しが弱まってきた。二人が話し込んでいたテーブルの上には、空のプレート、底が白くなったカップが二つ残され、鈍く光を放つ。

 タウン内のツアーに参加するのも良かったが、時間も時間だし、思い思いに歩き回ることにした。ライフスタイル提案型ショップや「グッドデザイン展」などで時間を割く二人。気付いたら、西日がすっかり傾いている。
 「そうそう、プレゼントをね、いろいろ考えてたんだけど、何かご希望があれば先にお伺いした方がいいかなって、どう?」
 「素顔の櫻さん、それが何よりのプレゼント」
 「また姫を泣かせるつもり? その素顔にしていただいた御礼がしたいんです。あ、そっか!」
 只今ガレリアの三階を歩行中。いいタイミングでいいものに出くわす。
 「筆記具とかマイバッグとか、いいの扱ってる店さっき見つけたけど、やっぱりこれよこれ」
 各地の銘木などを使い、職人の手によって創り出された箸の数々。各種麺類や豆腐の専用箸もある。
 「簡易包装でいいわよね。こっちが千歳さん、私はこれ。いつも携帯するように。フフ」
 ペアの竹箸、その一膳が誕生日プレゼントとなった。
 「大事に使わせていただきます。ありがと」
 「何々箸って言いますし、ね」
 「飯田橋に水道橋?」
 この後、彼女にバシっとやられたかどうかは定かではない。

(参考情報→ミッドタウンとその周辺

 「ミッドタウン周辺て、老舗ナチュラルレストラン、いやナチュラル居酒屋かな、ま、そういうのがいくつかあるんだけど、今晩は我が家へぜひ! いいでしょ?」
 「いいんですか?」
 「貴方、彼氏でしょ?」
 「櫻姫の大ファンでもあります」
 暮れかかる空、紅く染まる...
 「外苑東通りー♪ ハハ字余り?」
 二人の「乃木坂TWILIGHT TIME」だそうな。もう誰かさんに、打ち明けてないのぉ?とか冷やかされることもないだろう。寄り添う影が舗道に伸びて行く。ワンピースが千鳥格子だから、という訳ではないだろうけど、その影は時に止まってみたり時には斜めに動いたりとどうも安定しない。「今日のこと、ブログに載せちゃおっかな... 咲くLOVE×2、だもんね。おっとっと」
 眼鏡を外しているとどうにも危なっかしい。そんな櫻の手を引き、通りを北上する千歳。左折してしばらく歩くと、赤坂図書館近くにあるバス停に逢着した。ここからは新宿行きの都バスに乗る。

(参考情報→乃木坂 TWILIGHT TIME

 「絵を観て、デザイン鑑賞して、正に芸術の秋でございました」
 「私は恋愛の秋かな...」
 千歳の肩は寄りかかりやすいようだ。車窓左は神宮外苑、右には赤坂御用地。街路樹は秋色。その色を映していた陽が落ちると、機を合わせるように、櫻は遅い午睡に入る。

 「櫻さん家が先になっちゃいましたねぇ」
 「千歳さんのお住まいはずいぶん前に教えてもらったのにね。さ、着きましたよ」
 センターからは徒歩でも楽な距離だが、駅からとなると少々労を要する。妹君もお待ちかねということで、早足で歩かざるを得なかった分、ちと堪(こた)えた。年はとりたくないってか?
 「ただいまぁ」
 「あれ、千さんは?」
 スローな彼が扉の影から顔を出す。「どうも、おじゃまします」
 「櫻姉、やるじゃん」
 「千歳さんがどーしても来たい、って言うから」
 「櫻さんたら。ま、いっか」

 今日は蒼葉が食事当番。早くに自宅に戻り、三人分を用意してくれていた。バースデイディナーという程のことはないかも知れないが、前菜の盛り合わせあり、文花農園の秋野菜サラダあり、オランダ風俗画で観てきたニシン、それにシソをまぶした一品も。(これは蒼葉の気まぐれ惣菜。弥生と入った渋谷のパスタ店で注文した一皿に似ている?)
あ「あいにく主菜ってのがございませんで、このお惣菜関係と、あとはバケットで」
 軽く年令以上の品数を今日は口に運ぶことになる。そのありがたさもさることながら、姉妹にこうしてもてなしてもらえるのが何よりもありがたい。加えて、グラスワインなんぞで、
さ「ではでは、千歳さん、お誕生日おめでとうございまーす! 乾杯♪」
 なんてやられたら、そりゃあもう、である。
 「櫻さん、蒼葉さん、ありがとう...」
 年甲斐なく涙目になってきた。センチな千さんは、言葉少な。

 姉妹はオランダ風俗画の議論を交わし始める。
 「ねぇ、千歳さん、展覧会で観た中で、これ!ってのありました?」
 「修道院の少女、とか... あ、そうだ」
 その少女のポストカードはないものの、展覧会の主題画、本展外のフェルメール作品、人物描写が小さめな風俗画など複数のカードがテーブルに並べられる。
 「あら、いつの間に」
 「蒼葉さんの画風とは違うかも知れないけど、お気に召すのがあればどうぞ。招待券の御礼です」
 「そりゃどうも。じゃあこれを」
 彼女が手にしたのは、「真珠の耳飾りの少女」。瞳(め)が似てるなぁ、と思ってつい買ったものだが、本人も自覚しているのか、同じような角度でポーズをとって魅せている。気付いたら、千歳のグラスは空っぽ。
 「あ、お注ぎしなきゃ」
 きちんと席を立って、デキャンタから白ワインを注ぐ蒼葉。その様は正に「ワインを注ぐ女」である。カードと見比べる千歳だが、さすがにその洒落は口にしなかった。
 「なーに見とれてんの、千さん。姉さん妬くとコワイんだから」
 「何か言った? ワインを注ぐ女さん」
 彼の言いたいことはしっかり彼女に伝わっている。千歳はあわてて、
 「この絵のポイントは、遠近法とラピスラズリの青とパンの粒々描写と...」
 覚えたての解説を復唱して誤魔化してみる。
 「粒々、かぁ。小松さんは粒々を調べる女かな。ホホ」
 「弥生ちゃんはケータイを操る女」
 「蒼葉は干潟をうろつく女、ね」
 「そういう櫻姉は何よ?」
 「ただの恋する女」
 こうなると、千歳も手に負えない。櫻は眼鏡を少し外して「グラスを落としそうになる男」に熱い視線を送る。金曜の夜、宴もたけなわである。

 パンケーキを焼く女の話が出たところでひと休み。千歳は干潟で絵を描く女さんに話を振る。
 「蒼葉さん、その後、絵の方は?」
 「おかげ様で月曜中に描き終えました。今、持って来ますね」
 画板に付いたままの一枚、そこには流れるようなグラデーションで表現した川の青を基調に、空と風の青、ヨシの薄緑、干潟の白が写実的な中にも幻想的に描かれている。次はこれをもとに油絵を描くんだとか。「実は早くも漂着がチラホラあったんですけど、リセット直後の気分を思い出しながら描きました。皆さんの想いは青で表現したつもり」
 「これはね、私も感動した。で、higata@の皆様にもお見せしたらって言ったんだけど」
 「ま、考えときますワ。自分としてはまだ何かしっくり来ないとこがあって、その...」
 よくよく観察すると、青の間にグレーが紛れていて、どこか不穏なものを感じさせる。社会批評的な側面を投影させようとすると、どうしても翳が伴う。それが本来の川の姿であるなら、なおのことそれは忠実に表現したいところ。だが、環境を感じて興じてというのを優先させるなら、ネガティブな面はできれば出したくない。皆の笑顔を想うと、グレーな部分は打ち出しにくいのである。青の眩さとは裏腹に、そんな葛藤(コンフリクト)がこの水彩画には込められていた。

 食事もほぼ済んだ。次はバースデイケーキ、となりそうなところだが、
 「とりあえず、キャンドルだけ。申し訳ない」
 「まぁ、よっぽど舞い上がってたのね、櫻姉」
 「本当はミッドタウンのどこかで買って帰ろうと思ってたんだけど、ね、千歳さん?」
 ロングインタビューとか、泣き笑いハプニングとか、いろいろあったので致し方ないところではある。
 「そんな、今日だけでいったいいくつお祝いしてもらったかわからないくらいなんだから。もう十分でございます」
 と、恐縮する彼の眼前には、見覚えのあるキャンドルが。
 「この日のためにとっておいたのよ。フフ」
 夏至の夜に引き取り忘れて、櫻が預かっていた蜜蝋キャンドルである。益々恐縮する千歳だったが、何とか吹き消せた。

 にこやかなお二人を見て、蒼葉は思う。
 「姉さん、どこまで仕掛けたんだろ。宅に連れて来たくらいだから、きっと...」
 眼鏡の一件は秘密にしておこうというのは二人の暗黙の了解。だが、勘のいい蒼葉は何となくわかっている。「んじゃ、どうもおじゃましました。私は引っ込んでますんで、ごゆっくり」 毎度のことながら、よくできた愛妹である。

 お祝いはまだまだ続く。別棟(はなれ)ではお約束の発表会が執り行われるところ。
 「まずは、この間カラオケで流れた曲のレビューです」
 櫻はピアノに向かい、千歳は画家が使う丸椅子に腰掛ける。一曲目は、「キャットウォーク」の櫻流バラードバージョンである。原曲はリズミカルだが、櫻のは正しく弾き語り調。ピアノが切なく響く部分を巧みに強調し、清艶な一曲に仕立てている。時に囁くように歌う櫻だが、歌いながらキャットウォークを歩く、そんなシーンを思い描いているかのように背筋はしゃんとなっている。キャットと聞くと猫背になりそうだが、千歳も真にいい姿勢で聴き入る。
 二曲目、「花瓶」。カラオケで聞くのとはまた違う趣でしっとりと歌い、奏でる。間奏ではピアノが強めに入るところがあるが、そこはより情熱的に、しかもアドリブで長めに伸ばして弾きこなす。櫻が只者ではないことがこれでよくわかった。姿勢を保ちつつも前後にスイングしてみる千歳である。
 「千歳さん、いいわねぇ。歌姫の生演奏聴けて」
 「こういうのを贅沢かつ至福の時間て言うんでしょうね」
 「フフ、聴いてくれる人がいるから成り立つのよ、ね。じゃ、新曲行きますよ。『届けたい・・・』です」

 千歳自作の曲が櫻のピアノで再現される。よりメロディアス、よりメリハリが利いた感じ。「降り注ぐ 陽光(ひかり)集め 目覚めてく 動いてく 街...♪」 櫻らしい想いあふれる歌い出し。早くも傑作の予感。だが、歌詞は未完成だったようで、途中からはカンタービレ状態。歌を乗せられる曲であることがハッキリしただけでも成果は大である。
 「お粗末様でした」
 「いや、素晴らしい!の一言です。歌詞はまぁ、ゆっくり考えましょう。ン?」
 「千歳、さん...」
 櫻はゆっくり眼鏡に手をかける。...眼鏡を外すと何かが起こる、これは本日の一大教訓である。いいムードなのは多分にわかっているが、今日これ以上の進展はさすがにちょっと、と彼は左ペダル状態。プロセス管理というのは大げさとしても、この抑え加減が千歳らしいところ。それでも半年前に比べれば随分と進歩したものである。
 「さ、櫻さん、せっかくだからも一回、サビのとこ行ってみよう!」
 「何? ピアノレッスンですかぁ?」

 自室で何となく聞き耳を立てていた蒼葉は、
 「あれ? 鳴り止んじゃった。まぁ、あんまり遅くまで弾けないもんね...」
 と、トボけたことを云う。だが、心の中ではハラハラドキドキ。別棟が気になって仕方ない。程なく新曲のフレーズが鳴り出し、妙に安心したりしている。

 「もう、ほんとにクールなんだからぁ」
 愉しそうに弾いているが、内心は穏やかでない。夜遅い時分、少しは左のペダルを踏んだ方がいいのだが、抑えを外したい心理が勝り、むしろ右を踏んでしまう櫻である。千歳には彼女のそんな想いが十分過ぎるほど伝わっているので、とにかく鍵盤に向かわせようとムキになっている。せっかくの「届けたい・・・」がこれじゃ空回り、か。
 恋愛の秋とはよく言ったものだが、その形は多種多様。こんな過ごし方があってもいいだろう。二人が待ち合わせした時刻から、十時間超が経っている。千歳の秋の長い一日、略して「千秋一日(せんしゅういちじつ)」、これにてひとまず完(これぞ千秋楽?)