2008年3月25日火曜日

38. グリーンマップはブルー


 一つ年を重ねたら、いろいろな動きが活発になってきた。冬木の情報誌に掲載される予定稿は、彼自身に現場経験が加味されたことでなかなかの出来となり、higata@メンバーも概ね納得。冬木レポート本文の他に、参加者の声なんかも流してもらったことで、メーリングリストはかつてない盛り上がり。管理人冥利に尽きる一事である。
 打上げカラオケでメンバーの音楽的な傾向が掴(つか)めたことで、ちょっとしたプランを考え付いた千歳だが、実行に移すには共同発案者の業平の存在が欠かせない。バンドを組んだと仮定して、どういう楽曲が行けそうか、MIDIデータのやりとりが始まったのも同じ週のことである。
 そして、櫻とのメールのやりとり。二人してケータイを持っていないので、日常的に声が聴けない。その分、思いが募り、ついメールしちゃうことになる。平日夜のお楽しみが増えたのもこの週。
 ライター系、webデザイン系の仕事はこれまで通り。KanNaの管理費は、今月中には振り込まれる見通し。千歳は充実の秋を送っている。

 一日一千ポイントが七万点に達した、十月二十日。節目でもあるので何かありそうな予感のアラサーご両人だったが、翌日に千住桜木デート(?)が控えていることもあり、自分達でも不思議なくらい冷静だった。驚いたのは午後、業平が現われたことくらいか。

 「まさか、本多さんがいらっしゃるとはねぇ」
 「彼も『千ちゃん、何で?』とかって驚いてはいたけどね。まぁ痛み分けかな」
 「でも、登記の話って、そんなに前もってしないと駄目なのかしら?」
 「いやぁ、登記関係だけじゃなかったような気もするけど」
 「そうね。帰り際に『今度は私の記念写真も』とか言って、ツーショットですもんね。文花さん、気があるのかなぁ」
 王子神谷のとあるファミレスで、モーニングメニューをいただきながら、昨日の出来事を語り合う櫻と千歳。十時を回ったところだが、指定のバスに乗る時間まではまだ一時間余りある。
 「それにしても千歳さんの履歴書見た時の反応、おかしかったですね。『あら、先週の金曜が誕生日だったの? 櫻さんも意地悪ねぇ』ですって。どっちが意地悪よって、こっちも言いたかったけど、フフ」
 「さすがのチーフもそういう個人情報まではご存じなかった訳で。でももうバレちゃったからなぁ」
 時間があるのをいいことに、我らが上司をネタにドリンク片手でこの調子。ススキが近くになくとも、きっと当人はクシャミ連発でお困りのことだろう。

 バスに乗るのは十一時二十分頃。付近を少々散歩しようということになって、十一時前に店を出る。団地や商店街の一角をウロウロした後、余裕を持って停留所に戻って来る。だが、どうもおかしい。「あれ? 北千住行きって出てないんだけど...」
 地図はお得意の櫻だが、バスの路線図は少々読み損なっていたようだ。間違いに気付き、北本通りを王子方面に戻る途中、そのバスは右折のウィンカを点けて、車線変更したところで停車。「あっちだ、王子五丁目」「キャー」
 ドジな二人が横断歩道を走る姿をいち早く見つけた六月少年は、運転手に声をかける。
 「すみません、あの二人、乗せてあげてください」
 信号が変わっても直進車がすぐに来ればこのバスはまだ発進することはなかったのだが、こういう時に限って反対車線はガラガラ。スムーズに右折してくれちゃうもんだから、さぁ大変。だが、六月が気付いてくれたおかげで、バスはゆっくり二人のランナーを抜き去ると、停留所でしばらく待機。滑り込んで来たお二人はハァハァやりながらも、めでたしめでたし、となる。
 「ピッピー、駆け込み乗車はご遠慮くださーい」
 「あ、六月君...」
 櫻がICカードをピピとやると、少年は咳払いした上で、「運転手さんに御礼言わなきゃ」と説諭する。
 「あ、ありがとうございます」
 「六さんも、ありがとね」 バスカードを通しながら、千歳は苦笑い。
 とりあえず、バス車内集合でよかった。危うく乗り損なうところである。後方では、小梅嬢がニコニコしながら座っている。
 「いったい、どしたんですかぁ」
 「いやぁ、この辺て不慣れなもんだから、乗り場を間違えちゃって、そのぉ」
 「ちゃんと彼氏がリードしなきゃ」
 「は、ごもっとも...」
 「六月君はその点、大丈夫よ、ね?」
 またしても小梅にからかわれている千さんである。こうなると彼女も黙ってはいない。
 「ちょっと、小梅さん、千歳さんヘコませないでよぉ」
 「だって楽しいんだもん。櫻さんだって、よくやってるじゃん」
 「ま、まぁそうだけど...(苦笑)」
 駆け込み乗車の分際でどうにも分が悪い。落ち着かない二人に揺さぶりをかけるように、バスは豊島七丁目界隈のクランク状の曲がり角を縫い進んでいく。
 「えっ、こんな路地をバスが...」 と櫻がおののく一方で、
 「へへ、楽しい」 と少年ははしゃぐ。鉄道好きは重々承知だったが、バスも宜しいようで。

 隅田川を越えると、巨大建造物が現われる。
 「ハートアイランド?」
 「あぁ、船からも見たじゃない。新田(しんでん)リバーステーションの近く」
 「漂流ゴミに気取られてて。気が付かなかったんだな、きっと」
 後ろから若い二人が割り込んでくる。
こ「ねぇ、櫻さん、今日は結局、蒼葉さん来れないの?」
さ「そうねぇ、今、油絵の方、描き始めててね。どうもハマっちゃったみたいなのよ」
む「そっかぁ」
さ「地元でやる時にはさ、ぜひ四姉妹そろって、でどう? 平日でも土曜でも」
こ「お姉ちゃん次第かなぁ...」
 パンケーキご好評につき、初音は日曜が動きにくくなってきて、今日は不参加。だが、それも限度がある。志望校を絞り込まないといけないし、受験勉強も本格化させないと... そんな姉を思い、ちょっと曇りがちになる妹。櫻はそんな小梅に、蒼葉と重なるものを見たような気がした。

 十一時半過ぎ、ここからがこのバスの目玉である。荒川の土手を走るコース、その距離約四km。左に荒川、右に隅田川、リバーフロントバスと呼ぶに相応しい。
 小梅と六月は「わぁー」と歓声を上げている。窓越しに見る荒川は、濃い青を蓄えつつ、降り注ぐ陽光をその青に溶け込ませ、程よい輝きを放っている。進行方向左側の席は特等席である。その光景を鑑賞している間、四人に言葉は要らない。土手上と名の付く停留所に近づくとアップ、過ぎるとダウン。その上り下りが予想外ではあったが、荒川が見え隠れするのがまた妙味。櫻と千歳は「おぉ」と唸っている。
 「あの黄色いのって、セイタカアワダチソウでしたっけ?」
 「はぁ、よくご存じで。土手上から見るとセイタカな感じしないけどね」
 「遠くから眺める分にはまだいいんでしょうけど、近くで見るときっとスゴイんでしょうね」
 「観賞に向く植物とは言えないのは確か、かな」
 河川敷を黄色に埋め尽くすその帰化植物は、明らかに荒川の青とは一線を画している。自然界にも色彩の不調和というのがあることを示していると言えそうだ。特に扇大橋の下の茫洋とした黄には脅威すら覚える。その黄帯を縫うように、走る人、人。ランナーの列が下流に向かって続いているのが目に入る。
 バスは再び土手下の道路を走る。小台から目的地の千住桜木までは何とこのまま。左側の車窓は、ずっと土手の緑である。川岸が望めない以上、南実が話していた自然再生工事の現況も視察不能。下車して橋に出て、上流側を遠望するしかなさそうだ。

(参考情報→王子神谷から千住桜木へ

 「着きましたねぇ、千住桜木。皆さん、ようこそ!って感じ」
 「船から見るのと違って、何か賑やかというか、パーッて。広がりを感じる」
 第一印象は良好なようである。六月は早速地図を見つけて、バスが通ってきたルートを確認している。
 「櫻さん、イラストマップ用の紙は?」
 「あ、そうそう、ちょっと待って」
 櫻は予め千住桜木界隈と西新井橋を中心とした白地図を用意してあった。これにイラストを描き込み、必要に応じてアイコンシールを貼る、という手筈である。今日は「千住桜木グリーンマップ」のトライアル。目の前にある周辺地図と、その白地図を見比べる四人。
 「お化け煙突って、この町にあったんだ。知らなかった」
 「お化け?」
 六月は地図に書かれてある解説を見て、合点が行ったような行かないような顔をしている。
 「四本の煙突の配置が絶妙だったらしくて、見る場所によって、一本から三本まで見え方が違ったんですって。人によって証言が違うから化け物呼ばわり。別にお化けが出た訳じゃないのにね」
 小梅はアイコンシールを見ながら、何か考えている。
 「ってことは、そういうのってどのシール貼ればいいの?」
 「今も残ってれば、[アートスポット]かもね」
 千歳がとぼけたことを言うので、櫻はあわてて訂正する。シールは貼り直しが利かない。ここは確実に行きたい。
 「ま、ひとまず[歴史あり]ってとこじゃない?」
 「オイラ的には[悲しい場所]かも。親しまれてたのに解体されちゃったんでしょ?」
 六月は時々ジーンと来ることを言う。姉の影響なのかも知れないが、そのセンスは独特である。白地図の下の方、隅田川沿いに「涙する目」シールがこうして貼られることになる。

(参考情報→グリーンマップとアイコンシール

 一行は、西新井橋の歩道へ。
 「どの辺が歩けるか、まずは下見しないとね」
 「下を見るから、下見?」
 またまた彼氏がつまらないことを言うので、彼女は少年少女を連れて、そそくさと橋の中央へ。
 「さ、千歳お兄さんは放っておいて、行こ行こ...」
 「あー、そんなぁ」 と言いつつ、お兄さんは実際に下を見てみる。人が歩けるような水際はなく、ヨシが覆うばかり。干潟状になっている僅かばかりの砂地には、漂着ゴミが少々、そして白く濁る泡・泡。これでは現場踏査は難しそうだ。
 中央部にいる三人は、上流側の川景色を鑑賞中。小梅は、予備の白紙をクリップボードに挟むと、フリーハンドでアウトラインをスケッチし始める。
 「左側のあの木の橋桁みたいの何ですか?」
 「あぁ、何て言ってたっけな... あ、お兄さんに聞いてみよう。千歳さーん!」
 浮かない顔で千歳兄がやって来た。受け答えも今ひとつパッとしない。
 「粗朶(そだ)とかって聞いたような。枝を組み合わせて枠を作って、その中にまた廃材とか木切れを入れて。石を入れて沈めると、粗朶沈床(ちんしょう)? 漢字で書かないとわからないかな」
 「とにかく、ソダなんだそーだ」
 お兄さんがつまらんことを言うもんだから、若いのもこうなってしまう。女性二人は意気消沈。
 正午を過ぎたところで、簡単なスケッチが仕上がった。
 「左はヨシ原と木々、で、ソダの辺りが自然再生工事関係。右には首都高速、川には漂流するプラスチック容器、と。小梅さん、さすがね」
 千歳は念のため、デジカメで同じ景色を撮影する。だが、スケッチを見た後でファインダーを覗くとどことなく違和感が漂う。全体をそのまま写し取るにはカメラが手っ取り早いのは言うまでもないが、どの辺にどんな目印があるかを瞬時に伝えるにはスケッチの方が有効。小梅の視点はまた格別である。とてもデジカメでは再現できない。
 「特徴を捉える目をそのまま地図に持ち込むと、グリーンマップが出来上がる、そういうことか...」 さすがは首席レポートの筆者、もっともらしいことを云う。

(参考情報→西新井橋から荒川と河川敷を望む

 「上流側は水辺に出れそうにないわねぇ。ソダのところも見たかったけど...」
 「下流側も下見しましょうぜ、櫻さん」
 「上を見ても下見、下を見ても下見? なぜ?」
 今度は彼女がこの調子。彼氏はここぞとばかりに、
 「さ、櫻姉さんは放っておいて、行こうか」
 少女と少年は櫻姉の味方だった。小梅は一言、
 「じゃあね」
 千歳は「クーッ」となる。前にも似たようなシーンがあったような... 珍道中は続く。

 ここまでは割と順調だった四人だが、反対側の歩道から「下見」をした途端、事態は急変する。
 「えっ、マジ?」 櫻は目を疑い、
 「ひ、悲惨だぁ」 小梅は目を見開く。
 男子二人は言葉が出ない。セイタカの黄色い一帯の周りには、大きい物では洗濯機にベッドのマットレス、細かいものに至っては、これまでhigata@他の皆々で集めてきた半年分の総量に匹敵、いやそれ以上のゴミがこれでもかと散らばっている。それも一箇所集中ではなく、いくつかの集積地に分散して漂着(?)しているから凄まじい。
 「とにかく近くに行ってみよう」
 今回ばかりは千歳の掛け声に従って、一行は移動を始める。と、サイレンとともに救急車が河川敷道路に入って来た。マラソンランナーで急患が出たことに伴うものだろう。だが、四人にはそのサイレンがゴミから発せられる悲鳴と重なって聞こえて仕方がない。救急車には構うことなく、ランナーは途切れなく走り続ける。もし彼等にゴミの声が届いたとしたら? 足を止めることも有り得るかも知れない。
 ランナーの合間を抜けて、何とか現場近くに辿り着いた四人は、橋脚の下で途轍もないものに遭遇する。
さ「あちゃー、これっていわゆるホームレスの...」
こ「でも、誰もいないみたい」
ち「主(あるじ)がいなければそれこそホームレス、いや失敬」
 推論し得るのは、例の台風増水でここいらも浸水して、家財等が台無しになり、手放さざるを得なくなったのではないか、ということ。その証拠に、テントから積荷から何もかも泥漬けのまま、散らかったまま、なのである。
 橋の上から散見された数々のゴミ袋やら段ボールやら各種容器類やらは、漂着したものではなく、住居から近いことから、かつての主が生活していた際の名残だったことがわかってきた。
 「ルフロンが言ってたこと、合ってた訳か...」
 櫻はうなだれるようにしてポツン。生活ゴミが流されて漂流、そして漂着... ここは水際から多少距離があるので、イコール漂流とはならないかも知れないが、荒川下流域のあちこちでは、水辺に近い場所で暮らす人々が大勢(たいせい)の筈。ゴミの発生抑制を突き詰めると、CSRがどうこうと言う以上に、格差とか社会構造とか、そういう根源的な話も出てくるんじゃないか... 益々足取りが重くなる櫻であった。

 「ま、今日はマップのお試し調査で来てるんだから。ここの惨状はひとまず記録しておくとして、また考えよう。櫻さん」
 「えぇ、でも...」
 河川事務所関係者のお嬢さんが今ここにいることを忘れてはいけない。小梅は力強くお兄さんお姉さんを励ます。
 「石島課長に談判します。せっかく白地図があるんだもん。しっかり描いて、シール貼って... あと、デジカメでしっかり撮ってもらえれば」
 「小梅さん...」
 悲喜こもごもの櫻は[悲しい場所]のシールのような状態になっているが、泣いてちゃ話は進まない。ゴミ関係のアイコンシールがあいにく見当たらないので、とにかくこの涙目シールを貼ってしまおう。これで涙ともお別れである。六月はさらに[リユース]のシールを橋の下付近に貼り足して、「これで少しは救われるかなぁ」
 またまたいいことを言ってくれたりする。

 生活ゴミが堆積していると、不法投棄の温床になる可能性がある。これは永代(ひさよ)先生が言っていた割れ窓理論に通じる話。だが、そこに暮らす人が「それはゴミじゃない」と言い張れば、行政側も迂闊に手が出せなくなる。不法占有者と言ってしまえばおしまいだが、河川敷などを広義の公共空間と考え、そこで寝泊りする行為を河川利用の一環と見做すと、排除の論理は必ずしも成り立たなくなるだろう。目の前の惨状は、そんな現実の裏返しと言えなくもない。
 そこへ増水に伴う漂着ゴミが押し寄せてきた。そうなるともう区別がつかない。仮に、漂着は手出しできるが、放置は手が出せない、といった理屈で処理が膠着してるんだとしたら考え物。ここはやはり市民の出番なのか。
 若い二人は、お疲れ気味の二人を引率するように歩き出す。淀んだ気分を浄化してもらうには水辺が一番。上流側は千歳が下見した通り、道はなし。だが、下流側はしっかり水際に出られるルートがある。
 ゴミにすっかり気を取られていたが、こっちの水辺では河川補修工事ってのと、水面清掃作業とやらをやっていた。ルートが確保されていたのは工事現場があるが故、だろう。補修の方は何をどう、というのがハッキリしないものの、清掃の方は窺い知ることができた。囲いの外から垣間見えるは、想像を絶する粗大ゴミ(産廃?)の山々。
 「え、水面清掃なのに?」
 「いやぁ、不法投棄を集積しただけじゃ?」
 これでベニシジミとかコサギとかがいなかったら、グリーンマップどころじゃなくてグレーマップになってしまうところ。ネガティブになりそうな気持ちをとどめてくれるのが、生き物の存在であり、アイコンシールなのである。
 シートを眺めていた六月は、蝶と鳥のシールを剥がしかけたが、小梅がすでに両方のイラストを描き入れていたので、手を止める。
 「ありゃ、両生類のシールがある。うひゃあ」
 担任の先生は爬虫類がダメ、文花はまだまだ魚類が苦手。その二つの類はシール化されていないのに、よりによって[両生類]である。東急の青ガエルはいいのだが... できればこのシールは貼らずに済ませたいと少年は思う。
 工事現場と西新井橋の間くらいに、水際に出られそうな小径が見つかった。おそるおそる歩き進んでみると、まるで異世界である。干潟面が少ない... というのも、干潟を形成するための川の働きを阻害するような無粋な工作物が設置してあるから、である。ヨシを保全するためとも思えない、丸太の堰、積石、さらには瓦礫様(がれきよう)の石をゴロゴロとネットでくるんだもの。
 「自然再生って、これのこと?」
 「ここは一つ小梅さんのトーチャンに聞いてみるか、ね?」
 頷きながらも唇をかみしめ、黙々とその物体を描いていく小梅。先を進む六月は野球の試合経過を掲示するボードの断片を発見して興奮する。「見て見て!」
さ「8・9・10・R... そっかぁ」
ち「これも監督さんに報告した方がいいかねぇ」
こ「えっと、生活ゴミとヘンテコな物体とこのボードと... やっぱ写真も見せた方がいいですよね」
 そんな四人を冷やかすように、ジェットスキーが波を立てて上流方向へ。
 「てことは...」
 「でも、逃げ場がない?」
 三十代ともなればいい大人だが、思わず足が竦んでしまう。だが、ヘンテコな堰とかのおかげで、波は消され、彼等の足元は至って穏やか。波消しの効果をまざまざと見せ付けられる格好になる。
 このまま橋の下を進んで行けば、千歳が見下ろした泡々と濁々の近くには出られる。陸(おか)伝いではムリでも、川伝いなら踏査できるのである。だが、現場主義にも自ずと限界がある。また引き波が来たら、いやいや滑って怪我でもしたらそれこそ一大事。しっかり者の二人ではあるが、まだまだ十代前半の子どもたち。危ない目に遭わせる訳にはいかない。

(参考情報→水面も水辺も...

 という訳で、千住桜木地区の水辺調査はここでひと区切り。橋の下の水際一帯には、一応[湿原・干潟]の小シールが貼られ、大波小波が描き加えられる。[こどもにやさしい]シールは残念ながら見送り。少しは水辺で安らぐことはできた? いや、まだ穏やかならない。
 「パッと見はきれいそうだったのに、よく見るとやっぱり流れ着いてるのね」
 「堰とか石とかで漂着しにくいはずなのにね」
 特大サイズのカップめん容器、古新聞、スリッパ、灯油缶、あとは毎度お馴染み袋類に各種飲料容器等々が転がっている。
 「ゴミも必死なんですよ、きっと。拾ってほしくて上陸して来るんじゃないかなぁ...」
 「六月君たら」
 またしても少年の心憎い一言。「それって、クリーンアップの指針になるね。ゴミの気持ちを考えれば、その通りかも」 追って千歳も佳いことを述べる。櫻はようやく[安らぎの場]シールのような表情に落ち着いてきた。

 アイコンシールは、地元にある「いいもの」を探り出すための手がかりである。橋の上には[すばらしいながめ]を貼ることができたのはいい。だが、橋の下に貼った[悲しい場所]の涙目にどうしても引きずられてしまう。もっと希望の持てるアイコンを考え出して、そのシールで満たしたい。秋風に吹かれながら、櫻は思う。
 元祖はグリーンマップだが、櫻が今回考えていたのは川周辺に特化した「ブルーマップ」。エリア的には満足したものの、千住桜木の良さが今ひとつ見つけられなかったのが心残り。違う意味でブルーになってしまった。
こ「今度の土曜日、持って来ます。それまでにもうちょっと埋めてみますね」
さ「あ、ありがと。お待ちしてます」
 笑みが失せている、というか、今日はいつになく浮き沈みが激しい櫻である。小梅は承知しているが、このままでいいとは思っていない。
 「櫻さん、ホラこれ見て!」
 マップの片隅にスマイルマークを描いて見せる。「これをアイコンにすればいいんですよ。ね?」
 「もう、また泣かせる気?」
 「エヘヘ、泣くなら彼氏のとこでどーぞ!」
 おませな小梅嬢であった。

 若いお二人は、十二時四十分過ぎのバスで再び王子方面に戻ると言う。
 「小台(おだい)土手近くで下車して、日暮里・舎人ライナーを見物しながら熊野前へ。そこからは都電で帰ります」
 「はぁ、さすがは六さんだね」
 「オイラまだ子ども料金でOKだから、半額のうちにいろいろ乗っておこうと」
 「それじゃ小梅さん、分が悪いわねぇ」
 「わたしは引率者ですから、いいんです。ね? 六月クン」
 引率というか、ナビ担当は六月のような気もするが、ま、いいか。

 本日も大活躍の少女と少年を乗せたバスは、ゆっくりと土手脇の道路を上り進んで行った。
 「そういや、あの二人、お昼どうすんだろ?」
 「そっか、うっかりしてた。まぁ都電に乗るって言ってたから、東池袋~サンシャインシティとか、かな」
 かく言う二人も昼食のことは後回し。どうも千住桜木ショックが尾を引いているようである。
 「あーぁ、千住櫻さんにご縁がありそうな地がこんなじゃ...」
 「まぁまぁ。今日もおかげでよく晴れたんだし。ハレ女さんが曇り顔じゃ町も曇っちゃう」
 「じゃ、少しでも良さそうなシールを貼れることを願いつつ、まち歩きしますか」
 田端方面に出るバスは本数が増えるので、時間をあまり気にせずに散策できる。[みんなの森][みんなの公園]などを貼りながら、二人は尾竹橋にやって来た。
 「あら、隅田川ってガチガチねぇ」
 「典型的な垂直護岸。川沿いを歩けるようになっているのが救いかな」
 「シールネタ... ウーン。このままじゃ[悲しい場所]どまりね」
 お化け煙突があったと思われる場所を眺めながら櫻は静かに溜息をつく。今日はどうやってもブルーマップ状態から抜け出せない。十三時半近く、ようやく帰りのバスに乗り込んでホッとするお疲れ男女である。

(参考情報→尾竹橋から田端へ

 「フフ、今日はいいんだ。ランチしたら、千歳宅へGO!だもんね」
 「本当はもっと早くお招きできればよかったんだけど、面と向かってなかなか言えるもんじゃないからねぇ。ヘヘ」
 「いいのいいの。スローラブ、いやSustainable Loveでしょ?」
 熊野前交差点で左折した際の揺れを活かし、櫻は彼の肩に頭を乗せてみる。千歳は満更でもないのだが、ふと昨日のシリアスな話を思い出してしまう。それは文花から聞いたこんな哀話...。
 「これはあくまで私の推測。南実ちゃんが隅田さんに特別な感情を抱く理由、それは... あ、驚かないで聞いてね」
 櫻と業平は階下の図書館に行っていて不在。来客もこの時はなし。カウンターでヒソヒソ、そんな状態である。
 「隅田さんの風貌がね、南実ちゃんのお兄さんに似てるの」
 「はぁ、でもそれじゃ理由としてはちょっと」
 「えぇ、あんまり言わない方がいいのかも知れないけど... でも形見がどうのって話したんですってね。つまりね、彼女にはお兄さんがいたんだけど、今はいない。北太平洋のどこかで潜って調査してた時に、離岸流か何かにさらわれて、行方、不明... あ、ちょっと喋り、過ぎたかな」
 文花はいつしか目を赤くしている。それでもなお言葉を続ける。
 「南実ちゃん、お兄ちゃん子だったの。だから、隅田さんと出会った時に衝撃受けてたみたい。慕いたくもなるし、一緒にいたいとも思うだろうし。私にはわかるんだ。でも、そう云われても隅田さんは困っちゃうわよね」
 「いえいえ。これまでどことなく解せないものを感じていたんですけど、今のお話で解けました。さぞご愁傷だったことでしょうね。でも、僕はどうすればいいんでしょう?」
 「お兄さんの代わりなんてできないものね... あ、いけない。あくまで推測よ推測。本人とよく相談した方がいいんじゃない?」
 「相談、ですか...」

 本人と相談てのも妙な話である。櫻に聞くのもアリかも知れないが、やはり有り得ない。恋仲の女性に、他の女性との接し方を尋ねるなんて話、聞いたことがあるだろうか。その話が真実なら、素直に事情だけでも話したいところだが、それもどうかと思い直す。口にしたらしたで、不信感を持たれる可能性だってある。バスは五差路を右折すると、ウネウネと走って行く。千歳の胸中にもその曲がりくねった感じが入り込んできて、苦しい。
 何となく寝入っていた櫻は降りる間際になって千歳の異変に気付く。
 「千歳さん? 大丈夫ですかぁ? 緊張してきた、とか?」
 「エ? あ、降りなきゃ!」
 田端でドタバタとはよく言ったものである。

 「おじゃましまーす♪」
 「いらっしゃいませ、櫻姫」
 いきなり彼氏に抱きつきそうになる姫だったが、「あの私、今日は飛ばし過ぎないようにしますので、どうか追い出したりしないでくださいネ」と自分でクギを刺して、収拾を図る。直後の彼氏は「?」状態だったが、一寸置いてからまたしてもクールな千さんが顔を出す。
 「では、櫻さま、お約束のレコーディングの方、ひとつよろしくお願いいたします」
 「あーぁ、これって千歳さんのトリック? 人使うの上手なんだから」
 「いえ、御礼は必ず。何か考えておいてくださいな」
 「御礼? あ、それなら十一月十一日、空けといてください。終日!」
 「7.7 9.9 に続く第三弾?」
 「フフフ、そういうこと」
 リビングには、PCとつながった七十鍵ほどのシンセサイザーが置いてある。部屋を見渡したり、調度品を鑑賞したり、ゆっくりお茶したり、そんな前振りも何もなく、櫻は鍵盤に向かうことになる。
 「そっかぁ、千歳さん、PC相手の時はスローじゃなくなるんだった」
 「あ、いや別に。つい気が急いちゃって」
 PCには音源モジュールが内蔵されていて、ドラムやベースの音も出せる。音量を絞る必要はあるが、スピーカーから聴こえる音でモニターしながら鍵盤を叩けば、その音はPCに取り込まれ、オーディオファイルとして融通が利くようになる。

 「何度でも録り直しできるんですよね」
 「えぇ。でも、櫻さんversionにした方が弾きやすいですよね」
 「原曲を少しゆっくりめで流してくれれば平気ですよ」
 二人は一応恋人ということになっているが、今はどうやら趣味人同士の間柄。時の経つのも忘れて、録ったり消したり、PC画面上の五線紙に音符を置いたり動かしたり、そんなことを繰り返している。
 「コピー&ペーストで楽譜が作れちゃうとはねぇ...」
 「あとは、業平君に重厚なアレンジをしてもらえばOK」
 記念すべき二人の合作第一号「届けたい・・・」。ひとまずカラオケで流れる程度には仕上がった。櫻は昔のことを思い出しながらも、心境の変化をひしひしと感じていた。一途な想いをぶつけるだけじゃ駄目、ペースを合わせるところは合わせなきゃ... 曲のタイトルに「・・・」が入っているのは、「届けたい、されど」と一定の抑制がかかっていることを暗示していた。奏者はその抑制感と心地良さに身を委ねている。外はすでに黒々としてきているが、櫻は鍵盤の前から離れようとしない。まだまだ帰りたくない、そんな気持ちもあるようだ。千歳は南実への返事を急ぎたい気持ちもあったが、愛しの櫻姫には敵わない。この際なので、業平と交換したばかりの曲なんかもデモで流しつつ、アレンジの可否をチェックしてもらうことにした。
 夕食がピザになってしまったのは、招く側としては不覚だったが、客の方は喜んで頬張っている。
 「四ヶ月前はセンターでピザ食べましたねぇ。覚えてます?」
 あの当時、四月(よつき)後に二人がこういうことになっているとは誰が予想し得ただろう?
 「私は予感ありましたよ。だからあの時、メッセージカード書いたんです。千歳さんなら応えてくれるだろう、ってね。何か懐かしいなぁ...」 この日の櫻は、宣言通り飛ばし過ぎることなく、最終バスに間に合うように粛々と帰宅した。次にお目にかかるのは、土曜日。この緩やかな感じが、アラウンドサーティーによるSustainable ~ なのである。