ちょっと冴えない面相で櫻は郵便受けを開ける。
「文花さんたら、昨日郵便物取り込まなかったんだ」 各団体からのニュースレターや役所からの通知などをガサゴソと取り出す。これはまぁ、いつものこと。だが、
「[親展]隅田千歳様? へ?」
階段を上がりながらチェックしていたら、一通の不思議な封書に当たった。差出人名が書かれていないので、益々不可解。
「あ、櫻さん、おはよっ。素適な一日、過ごせましたか?」
「えぇ、おかげ様で。ところで、何で此処に千歳さん宛の封書が届いたんでしょ?」
上機嫌で出てくることを想定していたので、このいま一つパッとしない返事、おまけに妙な質問と来て、櫻の顔をまじまじと見るしかなかった。
「誰から?」
「女性の字みたいなんだけど、差出人がわかんなくて。親展扱いだから開封する訳にもいかないし...」
チーフには思い当たるフシがあった。自分で蒔いた種だけに、下手に明かせないのがツライところ。種蒔きは自家農園にとどめてほしいものだが、そうはいかないのが我らがチーフ。いつの間に情報を蒔いたのやら、その封書の中味は、隅田氏のセンター出勤を祝うメッセージレター、差出人は、十月になってもなお燃える想いのあの人、である。
昨晩は櫻の自転車を借り、メロメロ(もとい、ノロノロ)状態で帰宅した千歳君。本日のセンター初出勤は、その自転車を返しがてら、ということで都合はいいのだが、どうもボーっとなっていて不可ない。それでも定刻の十時にはちゃんと到着。階下からどこか頼りなげな足音が近づく。
「いらっしゃ... あれ、千歳さん!」
「おはようございます。櫻先輩、文花チーフ」
「何よ、先輩って。年とっておかしくなっちゃった?」
「隅田さん、彼女に言ってなかったの? サプライズって冗談のつもりだったのに」
「いつもビックリさせられ放しなんで、たまには」
「?」
「土曜日に非常勤で入ることになりました。隅田千歳と申します。よろしくお願いします」
「エーッ!!」
この櫻の絶叫は、歓喜というよりは驚嘆。それほど嬉しくもなさそうなので、千歳もまじまじと櫻の顔を覗き込んでみる。
「てゆーか、何で私が知らなくて、この差出人は知ってる訳? 信じらんなーい!」
本当は嬉しい、でも昨日のことがちょっと許せない、そもそも一緒の職場って何それ? クリーンアップどうなっちゃうの? そんでもってこの封書何? 櫻は一度にいろいろな感情や疑問が沸いてきて、どう処していいのかわからなくなっている。
「まぁまぁ、櫻さん落ち着いて。急な話で悪かったけど、これも櫻さんのこと考えてなの...」
「えっ?」
「前に須崎さんから聞いてね、櫻さん一途だから適度にリラックスしてもらえる工夫があるといいんじゃないか、って」
「ハハ、そりゃどうも。今はそれほどでもないと思いますけど」
「そうね、誰かさんが現れてからは、何か緩やかな感じになってきたとは思うけど、これからひと山ありそうだし。ま、予防ってとこかな」
櫻も千歳もどことなくズルッと来ているが、口を挟んだりはしない。言い聞かせるように文花は続ける。
「でね、土曜日くらいは息抜きしながら勤務ってのもいいんじゃない?って思ったの。これはNPO的ワークスタイルの模索も兼ねてるけど、情報系は彼氏に任せて、櫻さんには地域ネタ探しに行ってもらう、そんな前提。どう?」
「それで千歳さん、土曜日に? ここに?」
「ちょうどシステムも動き出すことなので」
「あ、勿論一緒にいたければそれでいいわよ。お二人なら弁えもあることだし、こっちは見てて楽しいし」
「文花さん...」
櫻は眼鏡を外し、目頭を押さえている。昨日からどうも涙腺が脆くなっているようだが、本人はお構いなし。
「ホラ、隅田さん、先輩泣かせたままでいいの?」
「そんなぁ、矢ノ倉さんがグッと来るようなこと言うからでしょ」
「違うわよ、好きな人と働けるのがうれしくて泣いてるのよ、ねぇ?」
小泣き程度だったので、すぐに顔を出せたが、千歳がまたしてもドキッとなったのは言うまでもない。不機嫌そうな素顔は今日が初めて。これまた女優級である。
「もう! 二人で盛り上がっちゃってぇ。出かけちゃいますよ」
「あら、そしたら彼氏が泣いちゃうわよ。いいの?」
正直なことを言えば、複雑な気持ちの方が強い。せっかくブレーキをかけなくてもいいところまできたのに、毎週土曜日はブレーキをかけないと仕事にならなくなる可能性が出てきてしまった訳である。一緒にいられるのはいいとしても、甘えられないのは厳しい。
ひとまず深く息をして気持ちを整えつつ、お騒がせの封書を本人に手渡す。
「はい、千歳さん。何せ[親展]ですからね。さっさとどーぞ」
「はぁ、誰からだろ?」
櫻は気晴らしするように、先だっての一般参加型クリーンアップのデータの再集計なんぞを始める。千歳はかつて弥生が使っていた机に座り、封を開ける。
クリーンアップ中、いつもの干潟の方をデジカメでいろいろと撮ってもらえたのはよかったが、その中で本人写真(ブロマイド?)がさりげなく入っていたことを思い出す千歳。画像ファイルを送るかどうしようか迷っていたが、そのご本人から「お手数かけますが、どこかでプリントして同封の返信用封筒で送ってもらえないでしょうか」と来たのである。これはほんの方便なのかどうなのか。続けて彼女の想いなどが綴ってある。「歌声を拝聴し、目覚めるものがありました。私が歌ったのはそんな気持ちの表れ...」とか「直球勝負、お許しください。でもあの投球も思うところがありまして...」とか。どうやらこっちが本旨のようである。そして、
誕生日の翌日、新しいスタートを当環境情報センターで切った彼にとってはビビっと来る一文が文末に付されてあった。「この度はご着任、おめでとうございます。同じ環境つながり、今後ともよろしくお願いします。Sincerely, Minami」
着任したとあらば、何らかのオリエンテーションとかがあっても良さそうだが、封書の件が気になって仕方がない櫻先輩は、そっちに気が回らない。パタパタと数字を入れながら、時折、彼の様子を窺うばかり。
「ダメだ、集中できない。千歳さん、封筒の中味、教えてよ」
「何故か、着任祝いの一通でした」
「もしかして知らなかったのって私だけとか? あ、わかった。文花さんでしょ。リークしたんだ、きっと」
その情報屋さんは、舌を出して、薄ら笑い。昨晩、さらなる進展があれば、ここまでヤキモキすることもなかったかも知れない。愛情表現という意味では今のところ言葉どまり。確証としてはそれで十分と思っていた筈なのだが、いつしかその次を期待してしまう自分がいることに気付く。ここで再び大きく息を吐(つ)く。
「まぁ、ラブレターとかじゃないんならいいや。でも今日はいきなりマイナス1,000点ね」(参考…これで累計63,000点)
櫻を妬かせるとコワイ、とは蒼葉の弁。ちょっとヒヤヒヤ... クールにならざるを得ない千さんであった。
「じゃあ文花さん、打合せしましょうよ。分担とか」
「そりゃそうだ。でも、基本的には櫻さんのアシスタント 兼 相談役ってところでしょうから、ひとまずお好きなように」
「へぇ、そうなんだぁ。じゃキーボード打って手が凝っちゃったから、ハンドマッサージでもしてもらおっかな?」
これには文花も千歳も声をそろえて、「櫻さん、あのねぇ」となる。
打合せは午後、ということで、とりあえず簡単なオリエンテーション方々、机上整理など。その次はPC環境。弥生がインターン期間中に使っていた予備のノートPCを起動させてみる。そこそこメンテしながら使っていたようで、動きとしてはまぁまぁ。システムはこれで動かせそうだ。
先週はクリーンアップの準備等で、思うに任せなかったが、リリース案内を含むインデックスページを載せ替えて、センターのホームページからリンクを張れば済むところまでは来ていた。名称とロゴも設定済み。それは環境情報ナビゲーションサイト、略して「KanNa」である。
「十月リリースってのがまたポイント。何しろ神無月、ですもんね」
「ハハ、そう言えば」
「千歳さんが言ってたんじゃない」
「くれぐれも、このシステムいかんなぁ、とか言われないようにしないとね」
南実発の封書で一時は波立ったが、今は想定通りの光景に落ち着き、チーフとしてもひと安心。PC系作業に関しては兎角(とかく)手際がいい千歳は、十一時半には大方のリリース準備を終え、文花のGOサインを待つばかり。あとは、センターのトップページ(新着情報)を書き換えつつ、kanNaのロゴを貼り付ける程度。イベント&トピックス系情報を載せるための掲示板機能についても動作確認済み。
ち「では、これを以って納品、ということでよろしいでしょうか」
ふ「どうもありがとうございました。これで私と櫻さんが考えてた環境情報のベースができた感じね。あとはご近所情報と全国情報の連携、かな」
さ「そうそう、ここに載ってる団体の皆さんに案内メール出さなきゃ」
ち「じゃ、一斉メール出しますか。団体個別ページの案内付き」
さ「エッ? そんな器用なこと...」
ふ「さすがは隅田さんネ」
さ「隅に置けないけど、フフ」
一斉メールはいいけれど、文案はまだ。櫻が案内メール本文の下書きを進める間、千歳はお膳立て作業に着手する。データベースから必要な個別データをエクスポートしたら、あとはメールソフトの特殊機能の出番。宛先団体名、団体ページのURL、確認用の連絡先などをメール文中の指定箇所に自動表示されるように組み込んだりしている。間もなく正午。
「そうそう隅田さん、報酬は振込でいい?」
「報酬? カッコイイ!」
「システム管理費ってことで、半期一括。今日は試用勤務みたいなとこあるけど、今後は、出張サポート=出勤、てことにしてもらったの」
「その方がお互い楽ですし」
「フーン」
いつの間にそんな話を進めていたんだか。ちょっと面白くない櫻だったが、
「振り込まれたらちゃんと彼女にご馳走しないとネ」
さすがは事務局長にならんとする人物である。またまたグッと来ることを仰る。
「はい、そのつもりです。昨日もすっかり... あ、今日はどうしよ」
火曜から金曜は二人で交代交代、お昼をとっているが、土曜日は一緒に自家製弁当を持ってくるんだとか。
「お箸は持ってきたんだけどなぁ」
「だからこういう大事なことはこの櫻さんにちゃんと言わないといけないのよぉ」
「面目ないです」
気が済んだか、今度は櫻がグッと来るお言葉を述べられる。
「いいわ。来週から千歳さんの分も作って来てあげる。ま、今日のところは駅周辺でも行ってらっしゃいな」
プラの容器包装類は、当市ではちゃんと再資源化されるので、その筋の弁当を買って来るのも悪くない。だが、誕生日翌日のランチが弁当ってのも...
「では、自転車お借りします」
昨日と比べると幾分涼しいが、意気揚々としている分、バランスがとれて過ごしやすい。心も空も秋晴れ。ペダルを漕ぐ勢いが加速する。いつもの彼の速度ではない。こりゃ心配だ。
無事に帰って来た彼に続き、本日のスペシャルゲストがお見えになる。
「あ、清さん。いらっしゃいませ」
早くも櫻流儀のお迎え挨拶を会得している千歳である。先生は目を丸くするしかない。
「おや、隅田氏。接客担当にでもなったんかい?」
「今日はお試し出勤です」
「ははぁ、貴君もまんまと矢ノ倉女史に担がれちまった、てか」
掃部訓の五カンには「勘」も含まれるんだろう。いいカンである。
「センセがいらしたんで、打合せはあとでね」
「はーい。千歳さんとさっきの続きやってまーす。どうぞごゆっくり♪」
櫻もすっかり晴れやかになっている。眼鏡越しだが、目がキラキラして見えるのは気のせいか。
「ま、半分合格ってとこじゃねぇかな」
六篇のレポートをガサガサと拡げてから、合格と称す三つを取り出す選考委員長である。
「ちなみに首席とか次席とかってあります?」
「そうさな、やっぱこの、し潟の役割を説いたヤツが出色かな。船から眺めててよくここまで思い廻(めぐ)らせたもんだ、って。いや、現場経験が少しはあるってことか...」
首席レポートは、干潟理論をもとにゴミの発生抑制論を説いているのが特長。身近なレベルからより広域なレベルへのアプローチ、即ち、地域が地域を大事にする、そんな想いの連鎖によって良好な環境が保たれていく、そんなまとめもまたインパクトがあった。
次席は、その逆のアプローチ。まず地球規模での変異や危機を弁えた上で、次は自分の目や足で検証する、というもの。情報を得たら、それを咀嚼(そしゃく)し、自ら現場に出て確かめ、それをまた新たな情報として広め、共有する。地域には地球環境を考えるための素材があふれている。まずは荒川へ行こう。なかなかの力説である。
「地域から地球を見るか、地球から地域を見るか、ってな」
「センセ、それ『Think Globally, Act Locally』に通じる話ですね。その逆もあるんだとか。ご存じだとは思いますが」
「ま、俺の場合は、東京ローカルだから... しっかり窮めりゃ、自ずと見えて来るものもあるんだろうけど。まだまだかな」
「またまたご謙遜を」
「とにかくよ、対照的なのがこうやってそろうてぇのは大したもんだよ。バランスがとれる訳さ。木だけでも森だけでもダメ。ただし、しとりで二つとは言わない。役員は複数。お互いカバーすりゃいい、そんなとこだろ」
文花は、得意とするレポートで千歳にリードされたことが少しばかり悔しく思われた。だが、この清の御説に大いに励まされると同時に、千歳を抜擢した自身の目利きの確かさに惚れ惚れ。
「あ、コーヒーお持ちしますね」
清は笑顔の文花を見送りながら思う。コーヒーを飲みに来るだけでもいいから、当所に定期的に顔を出すのは悪くない、と。だが、秀作レポートの主がここにいることを知ったことで、俄然前向きになっている。
「ところでセンセ、この間は肝心のお返事聞き損なっちゃいましたが、いかがでしょ? お引き受けの程...」
「あぁ、彼、隅田君が加わるってことだったら」
「えぇ、了解はとれてます」
「じゃ決まり。こっちも張り合い出るしな。ま、よろしく頼むよ」
法人化に向け、大きな一歩が踏み出された。
この後は、①不合格判定の役員候補各位に対し、合格レポートを読んでもらい、法人理事候補として名乗りを上げるか否かの意思を確認。②立候補する場合は、公募式でかける候補者募集に応募してもらうが、一次選考に当たる課題論文審査には審査員として加わってもらうことでアドバンテージを付す。③課題論文上位者には二次選考として、自身の論文要旨等をプレゼン発表してもらい、相互に評価を交し合って絞り込む。④可能であれば監事についてもこれと並行して互選にて選出するが、詳細は③の段階で候補者が固まったところで定款案を検討してから詰める。... 敏腕チーフは実にここまでプロセスを考え出していた。
カウンターに櫻を残し、三人は円卓に。形としては「鼎談」なのだが、文花のプランを聞く会、そんな印象である。
「いきなり、全面公募っていうのも不自然なんですってね。前身を担ってきた人材をベースにしつつも、新たな人材に加わってもらう機会も保障する、そんなイメージでいいみたい」
「あとは定款で、新陳代謝的な面を規定する、ってことでしょうか」
「そうねぇ、思い入れがあると固執したくなっちゃうのって、何かわかる気がするけど、ちょっとねぇ。定款はそういうのを防ぐためにあるんでしょうね。ま、当所はそこんとこがいい意味で曖昧だから、あまり気にしなくてもいいかも知れないけど」
ちなみに、櫻は身分上まだ公務員のため、理事等の役員兼任はできない。年度が改まる、即ち法人化が実現した折りには、櫻の処遇が変わる可能性は高いが、出向を妨げるものでもない。文花なりにすでにその辺りも思い描いているようである。
「出向=役所から、ってばかりじゃないのよ。地元企業から応援に来てもらうなんてのも大アリだし、インターンとか実習とか、いろんな関わり方があると思うのよね」
「自然もしと(人)も多様な方が磐石ってな、もっともだ」
「働き方のモデルもここで提示しようってことですか?」
「提示ってのは結果論でしょうね。まずはその人自身がここで何かを模索してもらえばいいんじゃない?」
文花なりの労働観のようなものが語られる。六月と小梅が生き生きしているのを目の当たりにしたこと、クリーンアップを通して「現場力」の重みや意義を実体験したこと、などから、センターを自発型の「学びの現場」にしよう、と思い至ったようである。千歳が考える「スローワーク」モデルに通じるものもありそうだ。
十四時近くになる。三者協議はそろそろお開き。
「で、ですね。掃部先生につきましても、レポートを一筆お願いしたいんでございます。ブログからの引用でも構いません」
「お題はなんだい?」
「『地域を元気にするハコモノのあり方』ってのを考えてたんですが、どうでしょう?」
「あえてハコモノってか。逆説的でいいねぇ。気に入った」
職場での彼氏との接し方を何となくつかんできた櫻が、カウンターから声をかける。肩の力が抜けた感じで朗らか。
「千歳さん、準備できましたよぉ」
「はい、ただいま」
円卓にいる二人はコーヒーを飲み干して語らいモード。
「いいね、あの二人」
「干潟でもそうですけど、見てると和むっていうか」
「そういうおふみさんは、和むお相手はいないんかい?」
「私、恋多き女でして、決められないんですのよ。ホホホ」
当たらずも遠からずか。いやいや、本当のところは役員候補よりもお相手の方を募集したい、そんな気持ちの方が強いかも?
KanNaの一斉案内メールの発信に立ち会うと、次は「Comeon(カモン)」ブログ教室である。円卓では今、清と千歳があぁだこうだとやっている。
「おぉ、これがこの間の写真...」
「お書きになる記事に合わせて画像を選んでもらえれば、今アップしますよ」
「おや、小松のお嬢さんのアップもあるねぇ」
「えぇ、ご自分で撮ったようで」
櫻は「小松」と聞いて、ピピとなっている。その本人写真を見てみたい気持ちもあるが、我慢我慢。この調子じゃやっぱり集中できない、か。
清が選んだのは、辰巳が結束させたヨシの束を撮ったものだった。
「せっかく固めたのによ、放ったらかしだもんな。ブログを通して、活用法でも問いかけてみるさ」
お年は召しているが、ブロガーとしては新米の先生。円卓に残り、PCと睨めっこ、である。文花は何を思ったか、「新しい、私♪」とか口ずさむ。十月だけど「チェリーブラッサム」。今ここにいる四人、皆一様にそんな気分であることは間違いない。
オリエンテーションを兼ねた打合せも三十分ほどで済んだ。櫻が来館者対応をしている間、千歳はメールのエラーチェックやら、館内資料の確認やら。文花は流域考察レポート「巡視船紀行」の事後処理と今後の役員選考に向けた案内広報づくりを進めている。こんな感じで、緩やかながらも時は確実に過ぎ、すでに午後六時。土曜日は早番も遅番もなく、今この刻(とき)を以って閉館となる。
試用勤務とは名ばかりで、早々に即戦力的な働きをこなした千歳に、文花は最敬礼しつつ、
「そんじゃ、来週にでも履歴書と職歴書持って来てね」
「え? 矢ノ倉さんに情報渡したら筒抜けになっちゃうじゃないですか」
「あら、私そんなに信用なくて?」
冗談のつもりで軽く受け答えした文花だが、千歳はそうでもなかったらしく、少々息巻いている。
「また可愛い後輩さんに、とか。今日から非常勤に入る話だって」(ブツブツ)
「南実ちゃん、あれこれ聞いてくるから、つい。隅田さんのこと慕ってるのよ。わかるでしょ?」
「もしそうだとしたら、その理由も矢ノ倉さんなら。何かご存じなんじゃ?」
「あ、ハハハ。そう来たか。多分そうだろうな、というのはある。来週教えましょう」
昼休みにデジカメプリントを済ませてきた千歳だったが、南実にそれを送るのは来週に先延ばし、ということになる。理由の如何によっては、添え書きの内容も変えなきゃならないからだ。
「私ったら何やってんだか。三角形作ってどうすんのよねぇ...」
自分のお節介ぶりにちょっぴり呆れて溜息モード。櫻も南実も妹みたいなものだから、良かれと思ってついつい。しかし、そのおかげで千歳が振り回されているところはある。
「文花さん、記念写真撮ってくださいよ」
千歳のデジカメを自分のもののように手にして、チーフを撮影係に指名する櫻。館内点検を終えて戻って来たところである。
「はいはい。記念日ですもんね。何をバックに撮りますか?」
清が帰った後の円卓では、スタンバイモードのPCが出番を待っている。
「写らないかも知れないけど、一応、KanNaちゃんを表示させて、と」
PC画面を挟んで千歳と櫻が並ぶ。櫻はしっかり眼鏡を外して得意の笑顔。文花は再び溜息。「やっぱりご両人、絵になるわ」 深呼吸してシャッターを押す。記念日写真、一丁あがり。
「じゃ、千歳さん、今度持って来てくださいね。多少大きめがいいかな」
「大きめ? どっかに飾るってこと?」
「あ、携帯用も欲しいかも。とにかく2パターンくださいな」
微笑み交わす二人。時間外なので別に構わないのだが、さすがの文花もやきもきしてきた。だが、さっきの自省を思い出して、ぐっとこらえてみる。忍耐強さも事務局長に求められる資質のうちなのである。
秋の夕闇が拡がり、彼と彼女の時間が流れ始める。蒼葉は弥生とお出かけ中につき、夕飯の支度は無用という。
「どこかで食事しましょうか?」
「じゃ今日は僕が」
「振り込まれてから、じゃなくていいの?」
「昨日の御礼、と言っては何だけど、ひとまず」
自転車を押して歩く櫻と、ちょっと遅れて歩く千歳。昼間、自転車で通ったのとはまた違って見える街路。徐々に暗さが増す中、気が付けば駅前。禁煙席のある洋風居酒屋が目に留まる。ここは、櫻のオススメの一店。
「どうですか? そのお箸」
「えぇ、おかげ様で、どんなお料理も美味しくいただけそう」
「では、わたくしめも。これでおそろいね」
洋風居酒屋なので、オムレツとかナポリタンとかロールキャベツ(ひと口サイズ)とかが並ぶ訳だが、どれも箸で対応している。二人とも箸使い、というだけでも十分だが、おそろいというのがまた好い。櫻はニコニコしながら、千住桜木ツアーの話を持ちかける。
「二十一日ってのはいいんだけど、千歳さんとの待合せはどうしよ。九時半じゃ早いかなぁ?」
「店の中で待ってればいいんでしょ。ドリンクバーもあることだし。あ、でも他の皆は?」
「バスが限られてるから、何時何分発のって指定します」
「集合場所はバスの中、って訳かぁ。面白いね」
筋肉痛よもやま話、コンタクトレンズQ&A、来週からの弁当プラン、櫻アレンジ曲のレコーディングスケジュールなどなど、話は尽きない。今日のお騒がせ親展封書の件も話題に乗せたい気持ちもあったが、何となく特定できてきたのであえて口にはしない。いずれ千歳から話してくれるだろう、櫻はそう信じることにした。
「ねぇねぇ、生年月日を証明できるものって今お持ち?」
「えぇ、免許証でよければ」
「まぁ、ゴールド...」
「都内じゃまず自分で動かすこともないから、持ち腐れです。運転しなきゃ自ずと優良になりますよね。ちなみに櫻さんは?」
「私も同じ金帯付き。たまに文花さんに借りて動かす程度です」 そう言いつつ、席を立つ。「じゃ、ちょっとお借りしますね」
何のことかと思っていたら、しばらくしてワッフル状のホットケーキが運ばれて来た。たっぷりのホイップクリームとミニキャンドル付き。
「では、昨夜かなわなかったバースデイケーキによるお祝いを」
「いやはや、さすが櫻さん。でも今日は当日じゃないですよ」
「フフ、前後三日間有効なのです。いいでしょ、このお店」
店員さんがその場で点(とも)してくれた火を吹き消す。当然のことながら、細々と一条(ひとすじ)の煙が上がる。
「あ、ここ禁煙席でした。すみません」
櫻の話芸は場所を問わない。店員さんも結構ウケている。千歳は感涙していたが、「ハハ、煙が目にしみる」なんて、よくわからないことを言って誤魔化している。
昨日のリベンジとかで、クリームは櫻に大方とられてしまったが、これはもともとサービス品。彼女に全部食べてもらってもいいくらいである。
「食べないのぉ? それとも、『はい、お口開けて』ってやってほしいとか? フフ」
それはさすがに辞退したが、お口の方は正直なもので何となくポカンと開いている。よくよく考えると櫻と二日続けて顔を合わせたのは今回が初めて。この調子でお会いする機会が増えると、そのポカン、つまり心ここに在らず状態に拍車がかかりそうである。だが、櫻の方も期するところがあるようで、「小松さん、油断ならないから、何としても射止めねば...」というのが偽らざる想い。苦手としていた領域だが、「新しい私」効果か、攻めの姿勢が出てきた。新たな情念が沸き起こっていたのである。
眼鏡を外して、彼に問いかける。
「千歳さん、私のこと好き?」
半ば放心状態の彼にこの質問は酷だったか。返事の一言までに数十秒かかることになる。
「え、えぇ、そりゃあもう... まいったな。ハハ」
この日は、駅前から路線バスに乗ってのご帰宅。優雅でいいのだが、乗車間際に彼女に抱きつかれた時の感触が背中にまだ残っていて、深く腰掛けられずにいる。外はすっかり涼しいのに、体はポカポカ、口は相変わらずポカン、そんな一人の男がバスに揺られている。隅田千歳、誕生日翌日の夜が更けてゆく。
- タテ書き版PDF
- 次話 ↑ 「38. グリーンマップはブルー」