2008年7月15日火曜日

57. わたしたち


 浮き沈みは一時的なものだからいいとして、気分の切り替えというのは、日単位ということもあるので案外難しかったりする。今日はどんな顔して彼と会ったらいいものか...足取りが軽いのとは裏腹に、顔には憂いが映る。櫻は一人スタジオに向かっていた。
 年が改まって最初の音楽会。各自、そこそこ練習はしている筈だが、寒い日が続いていたので、動きが鈍っていることが予想される。が、それ以上に出足が鈍いんじゃ話にならない。
 「あれ? 弥生ちゃんにルフロン、まだ二人だけ?」
 「櫻さんこそ、千さんどしたんですか?」
 「何か先に寄り道するとこがあるとかって」
 「あぁ、八クンもそんなようなこと言ってたさ。何か二人で企んでるんでないの?」
 「てことは、Goさんも一緒だったりして?」
 とここで、例の重低音着メロが響く。業平発、弥生着の呼び出しである。案の定、男性三氏はちゃっかり合流していて、しかもランチタイムミーティングをしていたんだそうな。詞と曲を軽く合わせるつもりがついヒートアップ。気が付いたら集合時刻を過ぎていた、とのこと。弥生はケータイ越しに、ツッコミともハニカミともわからないような受け答えをしている。「しょーがないなぁ。どうせまた新曲か何かでおどかそうって魂胆だったんでしょ? ヘヘ、ま、とにかく待ってます。ハーイ」

 本来なら下旬はおいそがしい身ゆえ、出てくるのだってひと苦労だっただろう。だが、このお嬢さんにアタックされてはそうは言っていられまい。いやいや、業平としても楽曲の持つメッセージ性を自覚してきたフシはある。作詞家と激論になった、というのがその証し。
 千歳は仲裁するのに労を要したようで、言葉少な。業平と八広はまだ興奮が収まらないような顔をしているが、機嫌は悪くない。
 「お待たせしやした。さ、詞ができてるのから、行ってみよう!」
 とりあえず、ベース、ドラム、パーカッション、Computer Manipulatorの土台系の方々のテンションは高いので、その四人だけでも十分成り立ちそうではある。櫻は千歳の顔を窺いながらも、うまく声がかけられない。千歳の方もそんな櫻の逡巡を読み取ったか、引き続き黙々としている。以心伝心ならぬ、以沈伝沈? が、そんな沈黙を打ち破るように、一曲目のイントロが流れ始めた。
 「ホレ、櫻姉、出番だぞい!」
 ルフロンはカウベルを叩いて煽る。
 「もぉ、私は牛じゃございませんわよ」
 鍵盤は抜きにして、ひとまずボーカルに専念する櫻。『届けたい・・・』はそう、クールな誰かさんに想いを伝えるところを原点とする曲である。今は、切り替わらない気持ちのモヤモヤを晴らすが為の歌と言っていい。
 そんな櫻の新境地はメンバーをどことなく揺さぶっていた。聞き流す構えだった千歳にもそれは勿論伝わる。曲は軽やかだが、歌声はシリアス。作曲者の意図としては想定外だったが、こんな「届けたい」も時にはいいだろう。
 歌い終わった櫻は幾許(いくばく)か晴れ晴れ。だが、千歳は逆に益々黙りこくってしまうことになる。「こりゃ、歌い方考えないと...」 歌姫は改めて、「伝える」「届ける」ことの難しさを知る。

 上の空のような感じではあったが、その歌は『Down Stream』(直訳すると下の流れ)。千歳はギターを鳴らしながら、さらりと歌い上げる。こちらも思うところあったか、もどかしさを押し流すような歌唱で、自作曲ながら本意とは異なる印象を醸してしまうことになる。時々の感情で歌は形を変えるものではあるが、聴き手の共感を得られないことには正に川流れ。掃部清澄先生の著述の心得は、音楽にも通じるところ大なのである。
 「隅田さん、大丈夫スか?」
 「何かこう詞が重く感じてきちゃって」
 それは本人の気の持ちよう。詞は決して悪くないのである。何はともあれ、ここまでの二曲、演奏については仕上がってきたと言っていい。

 詞ができているのを優先となると、前回の四曲目がお次の番となる。だが、肝心の歌い手がいない。
 「蒼葉さん、今日来ないんスね。こないだのディスカッションとかを踏まえて詞書いたんだけど...」
 「何か小梅嬢と絵を観に行くんだとかで」
 「へぇ、それはまた麗しいお話で」
 「まぁ、姉貴が歌って悪いことはないでしょ」
 櫻は歌詞カードを受け取ると、ざっと目を走らせて諳(そらん)んじてみる。
 「いつかきっと、時は来る、Re-Naturation...」
 人の働きかけで自然が本来の姿に戻っていく過程や望みが散りばめられている。その背景にあるのはTo-Beを思い描く画家としての眼差し。詩人らしい詞に、櫻も思わずクラっとなっている。蒼葉が見ても、同じように心動かされたに違いない。八広としては狙い通りだった訳である。
 一曲目とは打って変わって、櫻は朗々と、だが言葉を一つ一つ紡ぐように確かめるように歌っている。表現的に両立しにくそうなところを見事にクリアする歌姫であった。千歳はつい聴き入ってしまって、コードが思うように進行しない。これはスローとは別次元の話である。
 前回の三曲目は、詞が半分できたとこで止まっている。何をテーマにというのが定まっていなかったが、作詞家殿は、バンドのテーマソングというのはどうか、と申す。何でもサビに嵌(はま)る五文字を考えてたら「わたしたち」というのがピタっと来たそうで、そこから途中まで詞を起こしてみたんだとか。激論になったのはどうやらその辺らしく、
 「男衆もいるのに、私達ってのもなぁ」
 「だって本多さん、これと云った想定ってなかったんスよね?」
 「重厚な感じにしてあるのは、メッセージ性を持たせるため、ってことさ。五文字のキーワードだったら、他にも何かあると思うんだけどなぁ」
 まだ決着を見ていなかった。
 「まぁ、とにかく歌ってみるよ。もともとメンバーは女性優位でもあるんだし。ねぇ、櫻さん?」
 「え? 私に聞かれても...」
 冬木は、インタビュー記事のまとめが終わっていないため、休出中。南実は論文の書き足しに追われていて不参加。この二人と蒼葉を合わせた九名がこの曲で言う私達に該当するのだが、櫻にとってのそれは、彼と二人で、を指すことが多い。千歳の何気ない問いかけは、実は櫻にとっては重かった。「千歳さんの私達って、緩やかってこと? 私といる時も同じなのかどうなのか」 私達の解釈をめぐって、揺れる女心がここにある。メッセージ性はさておき、含蓄がある曲になることは間違いなさそうである。
 千歳がメインで歌うとしても、キーワード五文字については皆で声をかぶせればテーマには適う。そんな感触がつかめたところで、あとはhigata@で詰めよう、となった。途中休憩を含め、四曲流して二時間弱。流域ソング、課題提起ミュージック、バンド名は未定なるも、音楽の方向性はおぼろげながら見えている。モチベーションに支えられてか、鈍りを感じさせない演奏が続いた。時間配分も良好である。

 ここからは一部のメンバーには初耳となる一曲。即ち、弥生向けガールポップチューンである。
 「テーマは、現場の空気感というか呼吸というか。とにかく清々しくいこうと思って。詞はまだ途中です」
 極めて規則的なリズムが刻まれるも、ゆったりめ。ベースパートは音源で流した方がしっくり来るとのことで、生ベースはなし。リズムセクションの二人は、そんなリズムを壊さないようにしみじみと叩き、打ち鳴らす。原曲が業平というのがどうにも信じ難い。それだけ弥生がアレンジしまくったということか。編曲のやりとりなんかをしていれば、気心も知れてくるし、情も変化するというもの。弥生の歌い方からして、ラブソングと呼んでも差し支えなさそうである。
 「で、千さんはラブソングって作んないの?」
 清々しいお嬢さんに、毒舌の片鱗はない。せいぜいこんなツッコミが来るくらいである。
 「なくはないけど、内緒」
 「そっか、櫻さんにだけ、ってことか」
 「ま、今日のところはこれをちょっと流してもらえれば」
 千歳がUSBメモリで持って来たのは、新曲、つまりメッセージソングの楽曲データである。「漂うもの、溶けてしまうもの、見向きもされないもの...モノの安直さを問うというか、儚さみたいのをイメージしつつ、業平サウンドに倣ってビートを利かせてみたんだ。詞はこれからだけどね」
 業平のPCに取り込んで、まずはオケだけ流してみる。いきなりの重低音に、さすがの業平もビックリ。「千ちゃん、これって」 聴衆の度肝を抜くには良さそうだが、果たして発表会には間に合うのか、何番目にかかることになるのか、お楽しみの一つである。

 何だかんだで三時間。昨日と同じく、夕暉(せっき)が残る時間に散会となる。だが、六人にはまだ時間がある。ここは一つどこかでお茶でも、となるのが理(ことわり)
 「あーぁ、舞恵は腹ペコさ。この辺、食事処ってないの?」
 「ハハ、パーカッションは体力使うもんね」
 六曲目で目が覚めたか、ようやく気分転換が図れたようで、今の櫻はにこやか。
 「んじゃ、定食屋さん行きますか。でも、ルフロンさん、全面禁煙じゃツライですよね?」
 「いやいや、弥生ちゃんのリフレッシュソング聴いた後じゃ、吸うに吸えんさ。とにかくメシが先!」
 かくして、男女三組連れ立って、会食の場へ向かうことになる。
 「Goさん、あたしと一緒に歩くのイヤ?」
 「ハハ、そんなことはないけど...」
 デレデレ路線ではないが、ステディ系でもなさそうな弥生のモーションである。割とストレートなのはソリューション志向の為せる業だろうか。間違いないのは、彼女なりにアプローチを考え、実践する段階に入った、ということだろう。

 「よく考えると千歳さんと本多さんが揃ったのって、二週間ぶり?」
 「そうなんだよ。何か前に会ったのが去年のことみたいでさ。まえ、あ、奥宮さんもだよね?」
 「やぁね、おすみさん。まだそんな奥宮だなんて」
 「だって、縁結びの立役者さんだからねぇ。丁重にお呼びしないと」
 「え、縁結びって?」
 「そっか、弥生ちゃんには話してなかった、か」
 「まぁ、この話はR25でないの? ある意味、刺激的だし、櫻姉の名誉のためにも」
 「エーッ、知りたい! Goさんも知ってんの? だったら教えてよ!」
 「ヘヘ、そのうちね」
 日頃のツッコミのお返しという訳ではないが、すっかりいじられている弥生であった。
 「いいわよいいわよ。でもルフロンさん、あたしもお願いすれば、その縁結びってしてくれますかぁ?」
 「いい娘(こ)にしてればね。でもその必要ないんじゃん?」
 「いいえ、ライバルがいますから」
 千歳、櫻は言うに及ばず、業平が食後のお茶を吹き出しかけたのは、無理のないことである。八広は思索に耽(ふけ)っているようで、どこ吹く風の態。
さ「って、そういう話じゃなくて。新年会、どうして来なかったのかなと思って」
ご「不覚にも風邪ひいちゃってね」
ま「そういう時、ひとり身だと困るんでないの?」
ご「まぁ、共同代表が隣で暮らしてるから」
 弥生は吹き出す代わりに、思わず茶をゴクリ。「へ、共同代表? 聞いてないよぉ...」
 業平は専ら実機担当。IT系がどうとか言ってたのは、その共同代表を指すらしい。いったいどんな人物なのか、というか女性だったらどうしよう...弥生は一転して頭を抱えることになる。
 弥生が休止モードになったのを見計らい、舞恵は業平に話を切り出す。縁結びネタということではなさそうだが、耳打ち気味なのが少々気にかかる。
 「ちなみにGoさんとこ、融資ってどうしてる?」
 「特にはね。とにかく今は代表二人でギリギリって感じ。融資があれば、誰か雇えるかもってのはある」
 「ほほぅ、身近なところに顧客がいたさ。じゃ当行の社会的起業融資ってのどう?」
 「な、なんと!」
 「貴社で働きたがってる乙女もいるようだしさ」
 「?」
 どこでどう相談が為されたのかはいざ知らず、弥生の思惑をしっかり読み込んで、希望先にそれとなく伝えてみる。これは立派な橋渡しと言っていい。
 「機械に使ってもいいけど、やっぱ人材よ。有望なのを育てるのもソーシャルビジネスの役目っしょ?」
 起業家たる者、何につけ自立性が問われるところだが、その自立は多様な関わりの中から得られて然り。金融サイドとしては、お金の使い方を通じて、社会をより良くする先導役が期されて然りである。相応の審査は必要になるだろうが、これも何かのご縁。お互いに、いやこの場合は三者にとって三方よし、となればいいのである。

 男性三氏は僕達ではなく『私達』の密談を交わしているようなので、女性三人の方も談話に励むことにする。しっかりデザートを追加注文しているところを見ると、こっちの私達は短時間では済まなそうだ。
 「初姉ってその後、聞いてる?」
 「あんましケータイかけられないから、待つ身です。こないだのメールでは、第二第三に備えてるとかって」
 「ルフロンも会ってない、よね?」
 「今月からは完全オフだって。だから看板メニューのパンケーキもなし」
 「何か、こっちも気が気じゃないわね」
 「まぁ、合格の知らせが来たら、皆でパアッとお祝いするさ。お店だと気遣わせちゃうだろうから、センターでね」
 「その時は多少デコりますかね?」
 「お、その調子。いっそ、そのまま派手にやろうよ。手伝うし」
 「ルフロンさんが飾りつけすると、何かボサボサになりそう」
 「あーぁ、いい娘にしてたと思ったら、また毒づきおって」
 「あ...」
 といった具合に盛り上がっている。舞恵の自作曲の件は、二月三日、クリーンアップ後に千住宅にて、ということで仮決定。弥生も行きたそうな顔をしているが、「その日はちょっとね。クリーンアップは弟に行ってもらいますんで、よろしくです」
 と、ここで業平はひと足先に退席すると言う。「あっ、Goさん、ストップ!」 店の外で弥生は業平をつかまえる。
 「ん? どったの弥生クン」
 「そのぉ、二月の予定なんですけどね。第二木曜日って先約とか...」
 「あぁ、そっかぁ。じゃメールでまた。曲も仕上げないといけないし」
 「とにかく空けといてね♪」

 方や店内に残る四人は、
さ「じゃ、お二人さんとは二十六日ね」
ま「あ、そうそう、その日ね、ちょっとムリかも。おふみさんには、二月には監事さん連れてくから、ってそう伝えといてくださいな」
ち「て、八広氏も?」
八「自分は行くつもりでしたけど...」
 舞恵が咳払いをしているので、どうも行けなさそうである。その理由...今日の新曲とかにヒントがありそうだが、さて? 五人が店を出たのは、十九時過ぎ。大寒イブというだけあって、一段と冷え込んではいるが、寒さは感じない。何人であっても私達。何とも言えない一体感が寒気(かんき)を遠ざけている。