雨に降られる前だったのは良かったのかそうでなかったのか。十一日はそれぞれの停留所で下車し、それぞれの居宅に帰って行った二人。櫻は何が起こったのかよくわからないような感覚にずっと捉われていて、早くもあり遅くもありの十一月第三週を過ごしていた。机には蒼葉に撮ってもらったツーショット写真が立てかけてあって、一見しては小さく息を吐(つ)いてみたり。土曜日も朝からこの調子である。
「櫻さん、おはよっ」
彼の声に驚いて立ち上がる彼女。
「あっ、お、おはようございます」
「日曜日はありがとうございました」
「い、いえ、こちらこそ」
どうも櫻の様子が変なので、案じつつも、からかってみたくなる千歳である。
「櫻さん、どこか具合でも? そっか、今週寒かったから。春女さんには厳しかった、とか?」
「今朝も寒かったし...。また誰彼さんに暖めてほしいな」
あっさり返り討ちに遭ってしまう誰彼さんである。だが、櫻は結構本気。紅潮させながらも、千歳を熟視している。コンタクトレンズ越しではあるが、裸眼で見つめ合っていると互いに惹き込まれてしまいそうになる。珈琲を持って文花が来なければどうなってたことか。
そんな場の空気に一瞬たじろぐも、そこは事務局長である。
「はいはい、お二人さん、ここはドラマの舞台じゃございませんから、ほどほどにね。櫻さんはコーヒー飲んで、さっさと目覚めるべし!」
「なぁんだ、いいとこだったのに」
「だからそういうのは就業時間後! 隅田さんも何か言ったげて」
こういう場合、どっちについたらいいんだろう。ここは仕方なく、文花の言うことを聞く。
「あ、えぇ。時間後にまた、ゆっくり。でも、今日は業平氏が来るからなぁ」
櫻は一転、険しい顔つきになっている。
「いいわよいいわよ。私、午後出かけるし。千歳さんは、本多さんでもKanNaちゃんでも、どうぞ好きなようにお相手してれば」
ご機嫌斜めの櫻は、昼食を済ますと、クリップボードにどこかの白地図を挟んだものを持って、そそくさと出て行った。
「何時に戻れるかわかりませんけど、本多さんと行き違いになっちゃったら、よろしく伝えといてくださいな」
午前中は冷え冷えしていたが、午後は陽射しが出てきて、まぁまぁの暖かさ。地元探訪するには好都合である。四姉妹で廻るマップツアーを控え、今日はその下見。不機嫌面で飛び出してきたが、それで良かった。本音を云えば、千歳と一緒に訪ね歩きたい、だがそれでは同行予定の三人娘(蒼葉・初音・小梅)に申し訳ない。櫻は自分なりに訣然たる思いを以ってマップ作りに臨もうとしていたのである。
十六時近くになると、早くも日が翳ってきて、薄ら寒くなってくる。まだまだ巡回したかった櫻だったが、寒いのは御免。風を切ると凍えそうになるので、ペダルも弱めになる。センターめざしてノロノロ運転。誰彼さんもきっとこんな速さ、か。
「千歳さん、今帰るから...」 はやる気持ちを抑えるように走る。時に厳しく吹く風が恨めしい。
同じ頃、センターにはすでに業平が来ていて、法人登記に関するあれこれを文花と話し合っていた。
「印章もそろそろ作っておいた方が...」
「はぁ、特定非営利活動法人って入れるパターンかぁ。ただでさえ団体名長くなりそうなのに。全部入りきるかしら?」
「じゃまず名称ですね。理事会で早く確定した方がいいでしょう」
こういう話をしている時は、業平もビジネスマンチックである。文花としてはもっとフランクに行きたいところだったが、釣られて何となく硬くなっている。そんな時は、空気を変える人が現われるのが一番。いいタイミングで櫻が帰って来た。
「あ、本多さんいたんだ。こんちは!」
「あ、ども。って、どちら様?」
遠くからだったので、よくわからなかったようだが、程なく気付く。千歳は案の定の展開に苦笑い。
「さ、櫻さんなの? こりゃてぇへんだぁ!」
いつもの業平節になって来た。街の空気を吸ってすっかりご機嫌の櫻だったが、このリアクションで一層陽気になる。
「へへ、眼鏡外すとこの通りですの。これ、千歳さんの仕業」
「仕業って? 千ちゃん、どういうこと?」
「はい? 何か人聞き悪いなぁ。話せば長くなるけど...」
そんなこんなで、円卓には四人が集まり、よもやま話になる。
「そっかぁ、眼鏡の有無で人を見ないってのがハッキリするまでは、ってことだったか」
「もう何か合わなくなって来てたし、タイミング的に絶妙だったんですよ。仕業っていうか、やっぱりおかげ、かな。ね、千歳さん」
「今となっては、眼鏡の櫻さんが懐かしい...」
「眼鏡ってそういう使い方ができたのね。私は、着けたり外したりだから、今更素顔がどうこうってんでもないし」
眼鏡着用中の文花は、フレームをちょっとずらして業平に視線を送ってみる。業平はドキとなるも、動揺を隠すように別の話題を振る。
「で、皆さんお集まりのところで、ちょいと相談なんですが、今、いいですか?」
業平はホワイトボードに、相談事を三点、書き始める。其の一、流域情報誌の取材ネタ、其の二、ケータイ入力画面の今後の展開、其の三、次回クリーンアップでの実機試験。
「まず最初の件ですが、十一月号はクリーンアップ実践レポートで万々歳、でも十二月号はどうすんだ、て話です。榎戸さんとしては掃部先生に取材して起業ネタか何かを探りたかったみたいなんだけど、十月の回の時は応じてもらえなかったし、先生のブログを見つけたまではよかったものの、本人と連絡がつかない、ってんで困ってまして...」
「あぁ、その話。先週、センセも言ってたわ。で、それならここでも紹介してやれって、お仲間の再生工場の連絡先教えてくれたの。榎戸さんにはその日のうちに伝えといたけど、その後、どうなったかは不明」
「じゃ、とりあえず心配無用ってことですかね」
「確認とってみたら? 広告代理店の人間が工場行ったってろくな取材できないでしょうから、もしまだだったら、本多さん同行すりゃいいのよ。実機に強い人が付いてた方がいいんじゃない?」
「はぁ、そりゃそうですね。あとでケータイかけてみます。あ、ケータイ...」
相談其の一がサラッと終わってしまった勢いそのまま、其の二へ。が、一と二は実はセットだった。
「いやその、ネタ切れに備えて、じゃ例の入力画面を紹介するのはどう?って話もあったんですよ」
「まぁ確かによく出来てるし、その後も弥生ちゃん、テンプレート増やしたり、改良に余念なかったから。でもオープンにしちゃっていいのかな?」
「なもんで、ご相談て訳です。ここは一つ起業的に提案させてもらいますね」
業平はボードにまた三つほど案を書き込んでいく。1.センターのサイトまたはモノログからリンク。規定を設け、その同意を求める。あとは自由に利用可。(ID+PW(パスワード)、送信先アドレスの設定は必要) / 2.主に情報誌サイトからリンク。会員登録を求め、会員限定で利用可とする。登録は無料だが、入力画面にアフィリエイト設定を加え、そのアクセス等によって収益が得られるようにする。情報誌からの協賛金も付加される。 / 3.業平の会社サイトの一部として運営。定額制とし、分析サービスなども提供。
「こりゃまた話が大きくなったもんで」 千歳は目を丸くするも、すかさず「PC画面でもちゃんと見れるようにしといた方がいいね」と乗り気なご様子。
「開発者とか関係者にペイするような仕掛けだったら、私はいいと思う。でもそんなにニーズってあるのかなぁ?」 櫻は少々疑心暗鬼。
「仮に収入が入るとしても、受け皿ってどうすんの? こういう非営利なネタで分配を考えないといけないのって、難しいかも」 文花も首を捻(ひね)る。
よもやま話から、いつしかセンターの事業に近い話になっている。あぁだこうだやっているうちに見えてきたのは次のような設定。
「運営主体は当センター、管理者は隅田さん、メンテはバイト待遇で桑川さん、情報誌サイトとのやりとりは本多さん。試験的に開放して、ひとまず協賛金、ま、手付金かしらね。それはセンターが預かることにして、クリーンアップを業務の一環として行う時に備える。そんなとこかしら?」
「弥生ちゃんにも聞いとかないと」
「higata@に流しますか?」 千歳のこの発案に対し、
「そうね。桑川さんには、higata@上で直々に説明すればいいと思う」 文花が取り次ぎ、
「じゃ、言いだしっぺであるわたくしめが」 業平が引き取る。
「情報誌のネタにするかどうかは、メンバーで議論してからね」 このまとめを以って集約。冬木と業平が密談していたソーシャルビジネスの一端が少し見えてきたような... この話は後日、メーリングリスト上で明らかになっていく。
窓の外は夕闇が拡がっているが、四者会談はまだ続く。会談中は、センター来館者もゼロのまま。
「で、三つ目のご相談。次回はちょっとした機材を持ち込もうと思ってるんですが、運搬する手段があいにくとないもんで...」
「自宅兼自社は、せっかくリバーサイドにあんだから、ボートで遡上して来るのが筋じゃない?」
「千ちゃん、そいつは冗談キツイよ。仮にボートがあっても、漕ぎ着ける自信が、ない」
眼鏡をずらして、目配せ気味。クルマ所有者が申し出る。
「しょうがないわね。私が承りましょ。助手も同伴させますから、機材の一つや二つ。どうぞご遠慮なく」
「へへぇ、さすがチーフ」
「やぁね、名前で呼んでよ」
「はい、おふみさん。ところで助手って?」
「さぁ? そっちこそ機材って何よ」
「それはその、お楽しみってことで」
「じゃ、おあいこ」
外は冷え込んでいるかも知れないが、センター内はこの通り。ほんわかとした感じになっている。業平の相談事、これにてクリア。櫻も今はにこやかである。
閉館時間を過ぎて早々、文花と業平はとりあえず一緒にセンターを出て行った。館内に残るは二人。時間後になるのを待っていた訳だが、ここはあくまで職場。
「ねぇ、千歳さん、例の十万点プレゼントなんですけどね、予定繰上げで明日お渡ししたいの。いい?」
「え、もうそんな。あ、バーベキュー広場に行った日から、そっか、ほぼ三ヶ月ですもんね」
「ま、ポイント増えたり減ったりしましたけど、一応ね。だから、今日はもうこれで。明日はそうだなぁ、お昼頃って来れますか?」
最近の千歳は、探訪とかwebいじりとかは控えめ。DTM(desk top music)作業が復活してはいるが、いつでも彼女のお相手ができるように日・月は概ね空けてある。
「かしこまりました。姫様」
「フフ、早く明日になーれ。じゃねっ!」 姫様は何とか我慢して、彼とは逆の方向へ自転車を向けた。寒風の中だったが、とにかく加速。今は速度を上げるごとに暖まる感覚が心地良い。身も心も何とやら、どこ吹く風の櫻である。
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