2007年11月13日火曜日

16. 学びの場


 夏休み最初の日曜日に向け、櫻リーダーは当日の段取りなどを思い描いていた。「蒼葉は来ないけど、弥生ちゃんと十代姉妹と先生と千...」 千歳さんと言いかけたところで、息が上がり、ハッとする。説明しにくい感覚である。「少人数だから、終わったらその場でお弁当、かな。多めに用意すればいいんだし」 次回打合せの日程調整の件に加え、弁当の提案を盛り込んで、千歳と弥生に同報メールを打つ櫻。「そう言えば、業平(ごうへい)さんて来るんだったっけ?」 p.s.でその旨の確認も入れて発信。

 弥生からはツッコミ系、櫻からはこんな感じの業務連絡系、そしてこの二人ほどではないが、文花や南実からも時にメールが来るようになっていた。名刺交換した甲斐があったと言うものだが、こっちのお二人からのメールは、内容的には漂着モノログに関するあれやこれやで一読する限りは当たり障りがない一方、どこか探りというか思惑めいたものが行間から感じられるのが特徴。こういう探りの入れ方は即ち研究機関関係者ならではの業なのか。仕事のメールはそこそこ捌(さば)けるものの、こうしたメールの処し方には正直窮する千歳君であった。七日を過ぎて以降、文花からは「七夕は何かいいことありました?」とか、南実からは「櫻さんにもよろしくお伝え何々」とか。で、共通していたのは「何か面白い話があれば教えて」系の一文。櫻から弁当提案の話もあったことなので、研究機関の先輩・後輩それぞれに夏休み最初の日曜の臨時イベントの予定を書いて、サラリと返信。フッと息をつく彼だが、この件、リーダーにお伺いを立てなくてよかったのかな? 梅雨が本格化し始め、この日も雨。自由研究デー当日の空模様、そして人間模様が気がかりである。

 朝方まで雨が残っていたものの、日頃の行いが善いせいか、今は何とか曇り空。屋外のイベントでは、天候の如何によって決行とか中止とか、連絡を回し合うものだが、千歳も櫻もケータイ不所持なものだから、出たとこ勝負になっているのが実状。参加予定者が限定的なのでメールで連絡がつく人には同報で流してもいいのだが、ブログの中に一筆載せてカバーしてみる。天候不順、足元不安定ながら、一応決行の旨、モノログの一角に掲載。集合時刻の一時間前のことである。
 櫻の方は天気のことなどお構いなし。着々と弁当の準備を進めている。「蒼葉ぁ、レジャーシート、持って来て」 備品の方も万全を期す。「まるでピクニックね。あ、一つ頂戴」
 切ったばかりの粒々パンに、櫻風デリの一つを乗せて早々と口に運ぶ。
 「蒼葉ったらぁ」
 「毒見ですよ。誰かさんに食べてもらうんでしょ」
 「...」
 何かマズイこと言ったかな、と口に手を当てつつ、妹は先に家を出る。「あ、私もそろそろ出なきゃ」 時計は九時半を指していた。

 「あれ、千歳さん?」 橋を折れて河川敷道路をしばらく走っていたら、いつもなら徒歩の彼が前を自転車で走行中。ノロノロ運転(河川敷ランナーの方が速い)なので、ちょっと加速すれば追いつきそうなものだが、あえて距離を保ちながら尾行するように走る櫻。「PC系は速いけど、普段はスローなのかな。ハハ」 湿気を含んだ蒸し暑い風が時折吹いてくる。風速二から三メートル、といったところか。自転車を飛ばせば吹っ切れる気もするが、かえってジメジメ感がまとわりつきそうな気も。千歳としても風が絡みつく感じは受けていたが、それ以上に「何か後ろに気配というか...」 干潟方面に下りる坂道の手前でふと停車。櫻はあわててブレーキをかける。「あ」
 「なーんだ、櫻さんじゃあないですか」
 「ハハ、バレちゃった」
 「声かけてくれればいいのに」
 「淑女は奥ゆかしくなくちゃ。あ、でもどうして自転車なんですか?」
 「資源ゴミ担当の業平君がお休みなので、代わりに、と思って。上旬はいいんだけど、月末が近くなると立て込んでくるみたいで」
 蒸し暑さもあるだろうけど、どうも必要以上に顔が紅潮しているようだ。櫻は帽子に手を当てるフリをしつつ、頬を確かめてみる。今はちょうど水の準備中。顔にちょっと水を浸してみる。「わぁ、生ぬるいぃ」

 当地での自転車デビューは、この少女も同じ。小梅は時にぬかるんだ土にタイヤをとられながら、グランドの脇をクネクネ走っていた。前方にはアラウンドサーティーのご両人。そしてその妹を追うように、直線的にRSB(リバーサイドバイク)を走らせるは姉の初音嬢。姉妹そろって来るかと思いきや、姉は妹に内緒で先発。カフェめし店を経由してのご来場である。
 「お、おはようございますぅ」
 「あら、小梅さん、あと、フフフ」
 少女がこわばったような不可思議そうな顔をしているので、千歳が手でちょいと指し示す。
 「あっ、お姉ちゃん!」
 「来てやったぞ。隅田さん、千住さん、今日はよろしくお願いします」
 妹は複雑な表情ながらもどこか嬉しそう。そんな妹を見て姉も微かに笑みを浮かべる。それにしてもさすがはティーンのお姉さんは、ハーフじゃなくてショートのデニムに、パーカ+キャミと来た。カフェ勤務中の落ち着いた服装に見慣れているだけに、この変貌ぶりにはビックリ。ヘソ出しまではいかないが、目の遣り場がちょっと... そんな三十男であった。「千さん、水こぼれてる」「あ、いけね」 水は大切にね。
 定刻に現地にいるのは今のところこの四人。あとは弥生と掃部(かもん)先生が来れば、前回のお約束の範囲でメンバーがそろう。その弥生は、自身同様アンテナは高いが、なぜか変わり者と評する弟君、六月(むつき)君を連れて、バスで橋を渡っているところだった。
 「今日は本物の青ガエルが出てくるかもよ」
 「東急のあの車両がいいの。オイラ、本物は苦手だし」
 「あ、降りなきゃ」
 あまり下車する人がいる停留所ではないのだが、この姉弟の他に、一人の女性も降り立った。長めのワンピースにニットを羽織り、「日傘ハット」を目深に被っている。薄色だがサングラスをかけているので、どこの誰かはこれではわからない。
 「姉ちゃん、あの人、付いてくるよ」
 「しかもクシャミしながらってのがまた気になるわぁ。急ご」
 何とも場違いな格好をしたこの女性。しかもサンダル履きだったりするものだから、歩くのには不利。若い姉弟にすっかり先を越されてしまった。「あの二人も干潟?」
 こっちは濃い目のサングラスに麦藁帽。先生のバイクが徐行しながら近づいてきた。サングラスだけなら、チョイ悪オヤジが往く、といった態だが、麦藁がその演出を帳消しにしている。後姿だけを見れば、少年オヤジである。女性の方は何となく気付いたが、先生はわからない。「ありゃ海辺スタイルだな」 この時、前方からは久々にあの人が向かってきていた。ただでさえ速さが出る電動アシスト車だが、力いっぱいペダルを踏んですっ飛ばして接近してくる。先生はただの自転車と思っていたようだが、読みが違った。速い速い。
 「キャ」
 「ととと」
 曲がる手前で速度を落としていたとは云え、ブレーキを制御し損ねた。右折する側が一時停止するのが筋だが、ところどころ濡れた路面がスリップを誘ったのである。直進すると思ったバイクが急に左折、というのもアクシデントの一因。後輪に危うく衝突しかけたが、運動能力が幸いしてか辛うじて回避。掃部公の方も先に曲がり切れると読んでいたので、右折車とわかっていながらブレーキをかけなかった。危ない危ない。
 「危ないなぁ、オヤジっ!」
 「何だぁ、そっちがスピード出すからだろっ」
 アクシデントの現場を目撃していた女性が立ち止まる。
 「先生、どうなさったの?」
 お互いサングラスをちょいと上げて顔を見合わせる。
 「おや、これは矢ノ倉女史。いや、このお嬢さんがさぁ...」
 「あ、先輩?」
 「何だい、知り合いかよ」
 「南実ちゃん、今のはあなたの一時停止違反。悪態ついちゃダメ」
 「だって、急に曲がるんだもん」
 「ね、掃部センセ」
 「エッ、カモン... 掃部清澄さん、ですか?」

 十時十五分になっていた。退潮が始まっていたが、まだ水位が高めなので陸から干潟を眺める四人+姉弟がいる。リーダーは今回、受付用紙をちゃんと作ってきた。クリップボードにそれを挟んで名前を書きながら回覧する。初音と六月は干潟初登場だが、初対面が多い分、六月にはより負荷がかかりそうな場面。だが、姉から事前にレクチャーを受けていたようで、顔と名前をすぐに一致させると、「小梅さんて、先輩?」 小学校が同じことをつきとめたりしている。変わり者というよりは、強者(つわもの)である。物怖じしない、人見知りしない、千歳としては見習うべきところ大である。初音嬢は「このゴミ、マジっスか?」とか言っちゃって、店内での言葉遣いと大違い。またしても面食らう千歳に対し、櫻は「マジなんすよ。ね、小梅さん?」てな感じで飄々とやっている。小梅は得意げに姉に解説を始めた。橋の近くではプレジャーボートが行ったり来たり。その波が寄せては返す。「先生来ないけど、そろそろ始めますか?」

 細道は前よりも広めになった。六人は悠々と干潟へ下りて行く。すると、ヨシ群の後方から何やら問答調の会話が聞こえてきた。「あれ、またお客さん?」 櫻は引き返して様子を見に行く。千歳は「いやぁ、おそろいで来ちゃったよ」と内心焦りつつ、そそくさと干潟に着地。今のところ最年長の隅田氏は現場責任者の如く、「皆さん、潮が引いた直後はまだ凹みますから、足元には気を付けてくださいね。あと、刺さると危険なゴミもいろいろ落ちてますから、手にする時は十分注意して...」 陸から見下ろすのとはまた違う光景、そして漂着する物体のその異様さ・多様さ、初干潟の初音はしばし唖然としている。「前回はもっと多かったんだよ」 妹が一言。今日は姉に対して遠慮は要らない。話しかけて怒られても、きっと弥生と櫻がかばってくれる、そんな安心感があった。だが、それは杞憂というもの。今日の実姉は昔のような優しさを垣間見せる。
 「小梅、自由研究ってここ?」
 「ゴミがね、生き物を困らせてるって聞いたんだー」
 「手伝えること、ある?」
 小梅は小振りの画板に画用紙を付けて、
 「マップを描くの。で、カニとかハゼが見つかったら、その場所に描いて、近くにゴミがあったら、それも書き足して、って感じ。お姉ちゃんはあとでチェックして」
 「カニ? ハゼ?」
 「ハゼはね、あのオジサンが釣ってくれるんだ」
 蟹股のハゼ釣りおじさんが「ワハハ」とかやりながら下りて来た。南実がひと降り、続いて櫻が文花の手をとりつつ何とか着地。道が拡がったのに加え、ここの段差もこの数ヶ月間で人の行き来ができたせいか、他の釣り人が手入れしたか、上り下りしやすいような勾配になっているのだが、サンダル履きでは難がある。しかも大きめのカゴ状のバッグを提げていては仕方ない。
 「あれ、さっきのクシャミさんだ」 咄嗟(とっさ)のツッコミは六月君。すかさず「クシュン、ハァ」 千歳は笑いを堪えるように、「文花さん、何だかお忍びの芸能人みたいですね」
 「ハ、そう? クシュン」
 「ハハ、俺が刈った後でまた出てきたか。だから根絶やしにしねぇとダメなんだ」
 「まさか私がイネ科花粉症だったなんて、ハ...」(クシュン)
 可笑しそうな表情を見せながらも、怪訝顔の櫻。「矢ノ倉さんと小松さん、です。えーと、元先輩と後輩のご関係、でいいですか?」 ボードを取り出し、記名を勧める。
 「欄が手狭だけど、先生は別格だから...」
 「あぁ、俺はこれがあるからさ」と言いつつ、「清掃部」と書かれた大きめの名札を着用。「清掃部のかもん・きよし先生です。ヘヘ」 小梅が紹介する。
 「ありがとさん。それにしても、今日もまた美人さんばっかりだなぁ、ヨシヨシ」
 かくして人数が増えることを見越したように水位が下がった干潟には、総勢九名の男女がそろった。六月は早速、名前を確認しつつ、呼びかける。
 「墨田区に文花(ぶんか)ってとこありますけど、『ふみか』さんなんですよね」
 「文花なんて、よく知ってるわねぇ。雨水の調査で一回行ったことあるけど、六月君、何かご縁でもあるの? ハ、ハァ」(クシャミ中断)
 「東武亀戸線の駅めぐりしたんです」

(参考情報→墨田区文花

 実姉は年が離れてて話にならないとか言っている割には、さらにお年(この日の女性最年長)の文花にはこの調子。姉のラフな格好に見飽きているせいか、エレガントなこの海辺スタイルがお気に召した、ともとれる。
 十時半を回った。改めてリーダーの出番である。「じゃ、小梅さんと六月君はさっき眺めてもらってプランができたと思うから、その自分で考えたプランに沿ってまずは調べてみてね。で、二人のお姉さんはサポート役、でいいかしら?」 手を挙げる弥生と初音。「じゃ俺はまたウロウロしてればいいかな」 先生はすぐにでも釣りに興じたいところだったが、どうも干潟の様子がいつもと違うことを察したようで、その点検を兼ねての志願だった。五人は何となく動き出した。
 次に櫻は千歳の方をチラと見てから、
 「チーフはクシャミが止まらないみたいだから、被害が少ないところを探して、って言いたいところだけど、干潟を見下ろせる場所で見張り役ってのはいかがですか?」
 「でも、折角下りて来た訳だし、ちょっと散歩してから、じゃダメ?」
 南実は首を振っているが、現場経験が少ない文花としては、一遇のチャンスである。「何が出てきても知りませんよぉ」 クシャミしながら、ソロソロと歩くチーフ。どうも危なっかしい。
 「私、この束突っついてますね。何か出てきたら、あの子たちにも」
 「ゴミ相談室ね。了解です。そうそう、千歳さん、ちょっと」
 陸に上がる二人を見送りつつ、南実は「やっぱり?」と訝る。ヨシ束の周りには飲みかけでフタをしたペットボトルが転がっていて、その甘味をキャッチしたか、小アリが行列を作っている。「ホレホレ」 アリを枝で散らす南実。ちょっと荒れ気味のお嬢さんであった。
 「千さんたら、ヤダなぁ。二人が来ること知ってたら、段取りアレンジしたのに」 生乾きの草地にレジャーシートを二人で展(ひろ)げつつも、いつになくご機嫌斜めの櫻がブツブツ口調。千歳はあわてて、
 「いえ、お二人から何かネタがあれば知らせるように頼まれてたんで、こういうのがあるよって。本当にいらっしゃるとは、て感じです」
 「フーン」
 言葉少なのリーダーは、細道を戻る。手持ちぶさたの千歳は、デジカメを取り出して、バッグを置く。面々の手荷物は、干潟中央になぎ倒されていた枝葉の上に暫定的に置いてもらっていた。櫻は一人でこれらを引き上げてきて、シートの上に並べ始める。「あ、気が付かなくて」 ちょっとした沈黙。そこへ息を切らせて弥生が駆け上がってきた。
 「櫻さん、データカードってあります?」
 「あれ、ケータイ使うんじゃ?」
 「あの子ったら、何を思ったか数だけじゃなくて銘柄を調べようなんて言い出すから、メモできなくて」
 「じゃ、ボードごとどうぞ!」
 「あれ、千さんここにいたんですか」
 「千さんはいいの。行ってらっしゃい!」
 「喧嘩しちゃダメですよぉ」
 弥生にちょっと救われた。「じゃ櫻さん、僕は撮影係してますね」
 「はいはい」 手を振りつつもまだ曇った顔をしている。「そんなに怒らなくてもなぁ」スクープネタへの反応は速いが、女性心理についてはそうはいかないようである。こういう局面の打開方法を会得していない千歳君。いや、打開というよりも心情理解がまず必要なようだ。
 文花が来るまで、ここで会場監視することにした櫻。心模様とは裏腹に空模様は好転してきた。プレジャーボートが下流へ向かってきた。やがて小刻みな波が干潟を洗い始める。誰かが騒ぎ出しそうだったが、思いがけず静かなまま。櫻の胸中にも波、波。すると今度はペレットを洗い出すのに使う容器を探しに南実が上がって来た。何とも言えないタイミングである。
 「ヨシを洗うのに丁度いいのがなくて。どこかに落ちてないですかね」
 「あぁ、細道の脇のヨシの間にいろいろ絡まってたけど、バケツじゃないとダメよね」
 ちょっとキョロキョロやっていた南実だったが、深呼吸すると、直球勝負に出た。
 「櫻さん、隅田さんて彼氏、ですか?」
 「え、いや、あの...」

 雲が切れ始め、光が注ぎ出す。「今日はね、陽射しが出てきたら大変よ。今も二十七度くらいあるけど、もっと暑くなるから」 観天望気をしながら、初音がにこやかに予報する。小梅は画板を姉に預け、汗を拭う。マップのアウトラインは描き上がりつつあった。
 温度上昇を受け、周囲の草々から蒸気が上がって来るのがわかる。櫻と南実を煽るような自然熱。櫻の心の波が高まってきた。
 「櫻さんにその気がないんだったら...」 南実がそう言いかけた時、「キャー!!」 文花の大声が響いた。チーフを、先輩を、放ってはおけない。「南実さん」「ハイ!」 二人はその理由が十分にわかっていた。あるものに遭遇してしまったのである。
 女性六人中、上から二番目と三番目が駆けつけてきた。最年長さんは上流側で固まっている。先生がすでにフォローしたようだったが、
 「いやぁ、枝でつついたら、余計に怖がっちゃって」
 「ほら、文花さん、もう姿見えませんから」
 「しょうがないなぁ、先輩は」
 文花が現場に出て来られない確たる理由はこれ。「魚嫌い」である。形ある状態(つまり動いている)ならまだいい。「キャ」程度で済んだはず。今回はよりによってコイの白骨骨格を見てしまったものだから万事休す。「ハ、ハハ」 クシャミを止める程の衝撃を受けた模様。櫻と南実に引きずられるようにして、その場から退却。シートに腰を下ろすと安心したか、水筒をゴクゴクやり出した。
さ「じゃあ、しばらく休んでてくださいね」
み「これでまた現場に足が向かなくなりそう」
さ「虫はてんで平気なのにね。言わんこっちゃないワ」
 先刻の蒸気は収まったようだ。南実はまだ心中が蒸す感じが残っていたが、先輩から「南実ちゃーん」なんて呼び止められたもんだから、すっかり拍子抜け。ヨシの蔭から何やらプラスチック製のトレイのようなものを見つけ出してから、「今、行きますから!」
 櫻はようやく干潟に降り立った。「南実さんて、手強いわぁ」 眼鏡が鈍く反射する。千歳は遠くから恐々と櫻を見ている。「櫻さんて、コワイ人?」 何だかんだで、時すでに十一時近く。船が届ける波はよく見ると泥交じりで茶褐色。雨の後は水が濁るってこれのことか? 一連の波の動きがわかるように連写する撮影係であった。
 点検を終えた掃部公は、釣竿キットを持ち出し、下流側へ。干潟の奥にたまっていた飲料容器の銘柄調査をざっと済ませた姉弟は、通りがかりの先生をつかまえる。
 「先生、この間はこんな感じじゃなかったですよね?」 カニの巣穴の上方はヨシで覆われていた。その崖土が削り取られ、ヨシの根っこが露わになっているのである。
 「ご明答。この間、台風来たろ。あれで荒川も増水したみたいなんだな。その証拠がこのヨシの根っこと、そこのゴミさ」
 「あ、気付かなんだ」 弥生も見上げないとわからない高さ。干潟面から五十糎ほどの高さから生えている背高なヨシの真ん中あたりだから、三人の足元からだと二メートルほどになるだろうか。トレイやらカップめんがヨシに絡んで留まっている。六月の目線からはさらに上に見えることだろう。こんな位置まで水面が? 俄かには信じ難い弥生だったが、土が浚(さら)われるくらいなんだから、ウソではなさそう。
 少年の目前には、ヒョロヒョロした根が錯綜している。おそるおそる根元を引っ張ってみる六月君。先生が「あっ」と声を上げた時はすでに遅し。ヨシ群の一部が崩落してきた。気鋭の姉もさすがに「ヒエー」となる。
 幸いその三メートル近いヨシ束は彼等を直撃することはなく、葉の重みに任せて逆方向に倒れてくれた。
 「この子はもう」
 「面目ない」
 「いいさいいさ。何事も経験。おかげでゴミが出てきたさ」
 ペットボトルがコロコロと出てきた。これでまた銘柄が増える。一つはミネラルウォーター。もう一つはスポーツ飲料である。養分補給? ヨシにとってはありがた迷惑な話である。
 「あれ、何だこのフィギュア?」 軍手で泥を払うも、うまくいかない。水際でバシャバシャやり出した。「初代モビルスーツ?」 弥生がチェックする。これって結構なお宝では?

 ヨシの崩落事件で、一女・三女を除く、四人(本日の定刻集合組)が集まってきた。少女はめざとく生き物を見つける。「あ、カニが出てきた」 人が近づくと穴に引っ込むものだが、このカニは今日の少年のように物怖じしない。おそらく巣穴内部でも変化があって飛び出して来たのだろう。「クロベンケイって言うんだよ。ね、先生」 六月は眼鏡を外して、覗き込む。似たもの同士の対面、といきたかったが、実は内弁慶カニだった。身を翻して穴へ。その後はずっと引きこもって出てこない。やんちゃ系だとヨシで穴を突っついたりしそうなところだが、少年はじっと待つ。「そっとしておいてやるもんだよ、ね」 これには千歳をはじめ、一同感服。この感性が変わり者たる所以(ゆえん)なんだろうか。
 気が付くと、千歳の隣に櫻が立っていて、変にニコニコしている。
 「千歳さん、さっきはゴメンナサイ。何かツンツンしちゃって。エへへ」
 「いやぁ、リーダーにちゃんと話をしなかったんだから、悪うございました。干潟何周?」
 「じゃ一緒に一周」
 弥生はそんな二人を微笑ましく見送る。六月はめでたくカニと対面中。

 「さーて、釣りの時間だよぉ」 いつしか組み立て終わった竿を担いで、先生が動き始めた。十代姉妹が続く。妹は何を思ったか、崩落ヨシの近所から特盛サイズのカップめん容器を拾い上げて持ち出す。水位がさらに下がり、積石も歩きやすくなっていた。程なく、干潟マップにはハゼが加わることになる。だが、描くだけでは物足りなかった少女は、数匹のハゼをカップに泳がせて、他のお姉さん達に見せに戻った。
 途中、四女は「へぇ泳ぐんだぁ」、二女に見せると「あら小梅さんたら。お昼に食べちゃう?」てな具合。小梅はその反応が可笑しくて仕方ない。本日初対面の残り二人のお姉さん方はどうだろう?

 先輩の横で微細ゴミ調査をしていた南実だが、成果が乏しいようで退屈気味。そこへ六女が現れた。「こ、小松さん、これ。清さんが釣ったんだよ」 荒れがちだった南実だったが、これにはさすがに表情が緩む。
 「あ、アベハゼ?」
 「マハゼじゃなくて?」
 「夏のマハゼもこのくらいだけど、これはもともと小っちゃいの。泥が多いところに出てくるんだって」
 南実がちょっと目を離した隙に、止せばいいのに一女のところにも見せに行ってしまった。「あ、小梅ちゃん、ダメ」
 「えーと、矢ノ倉さん?」 干潟を一望しつつもまだ放心状態の文花は、ハゼを見たくらいでは動じなくなっていた。「まぁ、カワイイわね」 異名「ダボハゼ」は、カワイイてのが気に入らなかったか、ひと跳ねしてみせた。「キャ!」 我に返ったか。だが、「も一回、見せて」 一女なりに努力はしているようである。クシャミはさっきから止まったまま。
 カップをその場に置いて、六女と三女は干潟へ。五女はマップのチェック中である。生き物への影響という点では、袋ゴミは見逃せない。マップには袋の絵がチラホラ描かれていたが、何の袋かがハッキリしない。
 「お姉ちゃん、そこの袋拡げてみて」 初音はおっかなびっくりだったが、肥料袋の一つを持ち上げる。すると、パラパラと粒状のブツが落ちてきた。
 「あー、こんなところに!」 南実は嬉々として、「石島姉妹、でかした」 姉妹はキョトン。南実のレジンペレット講座が始まった。盛り沢山の自由研究である。
 そんな様子を垣間見ていたチーフは、自問自答モード。「環境教育って、レクチャー式になりがちだけど、それだと時々『どうだ』とか『スゴイだろ』とか、講師の自賛、いや自己表現にすり変わっちゃうのよね。ここは子どもが自分でテーマを見つけて、自力で学んでく感じ。大人はそれをサポートするだけ...」 一匹のダボがまた跳ねる。文花はもう驚かない。

 十一時半を回る。自由研究用のゴミ調査が一段落したのを確認して、櫻はクリーンアップ開始の合図をする。見張り番は掃部先生に交代。多少免疫のついたチーフが干潟に下りて来た。
 「とは言っても、実は今日、袋が足りなくて... 放っておくとマズそうなのだけ拾って数えましょう。続きは次回、八月五日に」
 「櫻さん、この袋、使えないの?」
 小梅がハキハキと問うている。実姉は吃驚(びっくり)せずにはいられない。
 「こりゃ失礼。使えそうなのあった?」
 「この大袋なんて、どうでしょう?」
 初音が拡げておいた一枚は、四十五リットルの倍ほどの大きさの透明なもの。多少穴が開いているようだが、軽くて大きめのゴミなら何とか使えそうだ。
 という訳で、四月の回同様、ターゲット限定型で収集が始まる。増水で流されてしまったのか、食品の包装類やら発泡スチロール片など軽めのゴミが目立たないのが今回の特徴。全体的に量が少なく見受けるが、ヨシがキャッチした分を忘れてはいけない。崩落を招かない程度にそれらを引っ張り出すとどうなるか、である。ヨシに隠れたものも含め、特に多かったのはペットボトルだが、これは弥生・六月チームが銘柄を調べつつポイポイやってあったので、集めるのに時間はかからなかった。ただ、アリがたかるもの、泥まみれのもの、再資源化可能レベルと、銘柄とは異なる分別が必要になるので、その時間は加算しなければいけない。あまり身動きのとれないサンダルの人は、集まってきたボトルの飲み残し処理をやっている。
 初音嬢は、チェックを終えた袋を丸めながら、支給された四十五リットルに放り込んでいた。「奉仕活動って、半強制的な感じがするけど、今日のはこう『何とかしなきゃ』って自分で思うから張り合いがあるっていうか...」 ボランティア、奉仕、社会活動、それらの違いって何だろう?とか真面目に考える十代の女性がそこにいた。千歳は片付けながらもスクープ探し。あまり真新しいものはなかったが、しゃもじと果物カゴと「はい、千さんこれも」 弥生が差し出したのは例の機動戦士である。「ネットオークション、かけてみる?」「いえ、記念にとっときます」
 六月と小梅は、カニの巣穴に詰まりかけていた小袋や、ヨシに引っかかっていたヒモ状のものを取り払っている。ゴミと生き物の因果性を改めて認識できたようだ。
 マップに描き止めた袋の数は、とにかく大きめのものが五、概ね三十糎前後の中レベルが十五、容器包装系など十糎以下の小物が三十余り。これらとは別にレジ袋が八つ、肥料袋が三つ、土嚢(どのう)袋が二つ、さらにはクルマのカバーと思しき特大のシート片も見つかった。梱包用ヒモが数片、ヒモ状のものもいくつか。それに南実先生が洗い出したペレットが「今日はこんなところでしょ」と言いつつも、二十ほど。短時間ながら社会の縮図のようなマップ(下書き)が描出された。
 ここでケータイを取り出す弥生。「じゃ、データ入力するよ」 袋の破片、食品の包装・容器、袋類(二タイプ)、と読み替えが必要だが、新たにデータ保留機能が付いたので、多少間違えても修正が利く。ここへ来て、弥生の正体を知った一女と三女は声をそろえるように、「あ、そうか、桑川さんてプログラマーの...」 とかやっている。
 「そうですよ。小松さんの後付け仕様には参りましたけど」
 「先月は私と桑川さん、行き違いだったみたいで。話は櫻さんからいろいろと」
 弥生株は急上昇。普段はあまり相手にしない弟君も見直したようである。
 「じゃ、六月君。缶、ビン、ペットボトル、申告して」
 「あ、ハイ」 素直でイイお返事である。
 複数タイプのコーヒー、メジャーどころの炭酸飲料、アロエやオレンジなどの果汁系、各種アルコール類、ココア、トマトジュース、スープもある。缶類はボトル缶も含めて二十余り。ビンは十ほど。半分はラベルが剥がれていて銘柄不明。判別できたのは、栄養剤がいくつかと何かの錠剤の薬瓶といったところ。そして、主役のペットボトルはと言えば、ドラッグストア級のラインアップである。複数タイプはコーヒーの他に、緑茶やウーロン茶も。紅茶にソーダに梅酒に、ヨシにはいい迷惑と思われるスポーツ飲料&ミネラルウォーター。大小様々、メーカー各社揃い踏み状態で合計実に三十有数。サラダオイルの空ボトルや焼酎の大ボトルも転がっていた。ヨシの蔭にはまだまだ隠れてそうだが、これだけ数え上げれば上等だろう。
 「それにしてもよく調べたねぇ。銘柄とメーカーがわかると、より具体的な対策とか立てられそう」 千歳が賛辞を送ると、「次回はフタを調べてみます」 頼もしい返事が返ってきた。
 南実と文花はカウント画面の操作を教わっている。「私のケータイ... あ、お店だ」 初音は仕方なく、お姉さん達の画面を見せてもらっている。その傍らでは、数え終わった自由研究ゴミを袋に入れ直す仲良し二人。小さい方の仲良し二人は、干潟を何周かしつつ、実地見聞を続けている。お騒がせボートはいつしか撤退していた。波が来ない静かな干潟は憩いの場として最適。だが今日は憩い以上に、「学びの場」というのが大きかった。時には黙考の場だったり、創作の場だったり、生態系がそうであるように、実に多様である。太陽が真上から降り注ぎ出した。そろそろ正午になろうとしている。

 先生はダボハゼが弱ってきたのを見逃さなかった。器を持って下りて来ると、
 「じゃ俺はまたひと釣りしてくらぁ」
 「あら、センセ。お昼は?」
 「俺の食事はウナギ。釣るまでは戻って来ねぇから」
 「ウナギ?」 一同騒然。
 「へへ、土用の丑も近いしさ。ま、稚魚だけどな」 本当は網で掬(すく)うところなのだが、この辺は掃部流のジョークである。南実はウナギの真相を確かめるつもりか、興味津々で先生を追う。彼女にとっては伝説的存在とも云える掃部先生。直伝を受ける絶好の機会を易々と逃す訳にはいかない。仲良しご両人と一緒にお昼を共にするのが居たたまれない、というのも動機ではあったが。「じゃ、皆さんまたあとで」 サンバイザーを着け、駆け出した。

(参考情報→ウナギの稚魚