2007年10月23日火曜日

11. 漂着静物画


 梅雨入りしたはずが、低気圧が抜けるのが早かったとかで、梅雨明けのような晴天に見舞われた六月の日曜日。蒼葉にはこの間の掃部先生の大判写真が目に焼きついていて、ある衝動に駆られていた。「荒川の叫び、というか、何か描ければいいんだけど」 こちらはフリップではなく、れっきとしたスケッチブック。今日のところは水彩で、ということは決めていたが、題材は未定。櫻姉には内緒で朝早く出てきた。橋から見下ろす川面は東からの陽光を吸収して、旺盛に輝いている。「これをそのまま描いたら写生だしなぁ」とか言いつつも、しばし流れる川波と光を見送る蒼葉。より遠方には鉄道橋。上り寝台特急が走って行く。そしてその橋梁の下から小型貨物船が遡って来た。絵を描く上で、蒼葉の視力は十分過ぎる程である。それゆえ、目に映るものあれもこれもとなってしまうのが悩ましい。歩き出す蒼葉の横を高校生風のお嬢さんが自転車で通り過ぎた。「あ、ごめんなさい」 その一言は柔らかく、蒼葉の印象に残った。
 とにかく干潟の方へ行ってみることにした。三日に行き損なった分、思いはひとしお。「七月一日の下見も兼ねて、と」 前回はミミズに目を奪われてしまったが、今日は草花に目が行く。ネジバナの紅色、ミヤコグサの淡黄色が初夏を彩っている。野球の試合はお休み。辺りは静寂に包まれている。
 デニムのハーフパンツにリボンシャツ、この恰好なら動きやすい。干潟へはひと降りである。「いやぁ、またしても...」 周囲が静かな分、物言わぬ漂着物はその存在感を増し、袋状のものさえ重量感を醸している。慄然とする蒼葉。「千歳さんも最初は衝撃を受けたんだろな」 潮位が変化する前に、アウトラインだけでも描き止めようと、鉛筆を走らせる。向かって右側、ヨシ原に目が留まる。干潟に根を下ろすヨシの群れは、足元のゴミにはお構いなし。少しずつ高度を増す太陽に向かって競うように背筋を伸ばし、威勢がいい。
 「取り除けばもっと元気になるのかな」 流されてきたらしい一本の枝を手に、そろそろと下流側のヨシ群へ。あまりの数のカニの巣穴に恐々としながらも、プラスチック製の包装類やペットボトルなんかを根元からどかしていく。レジ袋を一つ除けると、新しい茎がいくつか顔をのぞかせた。「なーるほど」 ヨシヨシと心の中で呟きながら、再び配置に付く。干潟の奥地は、毎度の如くヨシの束で覆われているが、うまく平らにすれば砂地に直に置くよりはいい。折り畳み式のミニベンチをそこにセットして、本腰を入れる蒼葉。鳥の啼き声もヨシの擦過音も耳に入らない。時折、寄せてくる波の音にハッとする程度。広めの干潟と大きめのヨシ、水際には漂着物が誇張気味に配されていく。そして、別の一枚には習作らしき線画がいくつか描かれていく。
 印象派志向の蒼葉嬢だが、印象派画家で水彩作品があるのは「シニャックか、デュフィか」なんだそうで、手本が限られている分ちょっと描きにくそう。「あ、水...」 水彩用絵具と筆は持って来たが、うっかり水溶きの用具を忘れてしまった。すでに太陽は真上近くまで来ている。干潮はピークに。「あ、そうだ」 何を思ったか、近くにあった食品トレイを拾うと、退潮してしまった水際に駆け寄り、トレイを濯ぎ始めた。そしてそのまま川の水を掬う。「川を描くんだから、やっぱり同じ成分を使わなきゃ」 この辺りの機転は姉と似ている? 筆はと言えば、櫻曰く「庭に生えてた」例の一本。太めなので、まず大まかなところの彩色に使ってみる。筆はすでに川の水に馴染んでいた訳だから、違和感ないだろう。川の青はよく見ると悲痛な色を湛(たた)えている。要するにブルーなのである。
 空の青と対照を成す川の青。ヨシと干潟を力強く描くことで、その愁いあるブルーを少しでも清らかに見せようとするが、漂着物の現実がそれを妨げる。缶の銘柄などが目に入ると、つい筆が止まってしまう。そして小さく溜息。それでも上物の筆は、青、緑、グレーと穂先の色を変えながら、忠実に蒼葉の想いを紙に映していく。あくまでラフスケッチのつもりだったが、小筆に持ち替えると細部にも力が入っていく。現実は現実と受け止める。それは悲嘆にも通じるが、逆に幾許(いくばく)かの希望をも浮かび上がらせる。果たして、川の水を使った効果か否か、何かが乗り移ったようにその「水彩」は展開され、どことなく荒川の匂いを含む一枚が仕上がった。陰翳を伴っているが、印象派風の光を髣髴(ほうふつ)とさせている。ふと時計を見る。十三時半を回っていた。
 軽々と陸に上がり、今日は人気ない洗い場でトレイをひと漱(すす)ぎ。画面いっぱいの水彩画は日光浴。ミニベンチを置いて、ピクニックスタイルの昼食を一人でとる蒼葉。離れていても目立つお嬢さんは、河川敷道路を自転車で通過中の青年の目に止まった。「この間、センターで見かけた人かなぁ?」 今日はゆっくりめに走っている。彼は例の縁起のいい名前の持ち主。掃部先生の一言に触発されたか、地元の大自然にやって来たようだ。このあたり実に素直である。「も一回、橋から下流側を見てみっか」 話に出ていた干潟を探しているらしい。小休止後、青年は上流側へ去って行った。
 蒼葉は再び干潟へ下りる。習作のつもりで描いた線画にも、この際着色してみようと思ったようだ。潮が反復して来ていて、川の水は手近だった。またトレイでひと掬(すく)いしようとしたその時、見慣れない小型の透明チューブに出くわした。「あら、何か青い液体が...」 おそるおそる手にとって、チューブの一端を見てみるとCOD(D)と打ってある。「何かの試薬かなぁ」 時間が経っているので、正しい標本色ではないのだが、その深い青は彼女を大いに惹き付けた。現場経験が一度でもあれば抵抗感がなくなるようで、その辺に落ちていた空の小型ペットボトルにその青チューブを収容する。櫻姉経由で矢ノ倉チーフに聞けばわかるだろう、という手筈である。

(参考情報→パックテストでCODを測る

 青の衝動とでも言おうか、その後の習作はいずれも青が基調になった。漂着物の数々も青をなぞってから、モノトーンをかぶせるような描き方。四人でわいわいと拾ったり数えたりした物体が、今は正に自然にとっての脅威のように重々しく映る。我ながらその切迫感に息を呑む。筆も震えた。動力船が通過する。程なく、海でのそれとは異なる間隔の細かい波が干潟に押し寄せてきた。そろそろ潮時のようだ。十五時近く、太陽は上流側の橋に架かる位置まで傾いている。波は規則的に続き、しばらくしてから平面に戻った。だが、蒼葉の心にはいつまでも波が残っているようだった。
 本来の仕事を終えた筆は、川の水から離れ、今は水道水を浴びている。筆の水を切る時、その突端に字が彫ってあることに気付いた蒼葉。「ン? K.K.だって。持ち主のイニシャルかも」 習作第二部が乾くのを待って、帰途に着く。画家の日曜日はこうして過ぎていく。

 「蒼葉ったら、ケータイも持たないでどこ行っちゃんたんだか...」と妹を案じつつも、姉は姉で一人の時間を閉ざされた空間で過ごしていた。姉妹の日常は平屋の戸建が舞台だが、庭には別棟(はなれ)があって、時には出番が回って来る。主用途はアトリエだが、アップライトのピアノも置いてある。画業に集中するために防音構造になっているが、それは音楽家にとっても好都合だったようで、ピアノも気兼ねなく弾けるという特典つき。ピアノに向かうこともなくなっていた櫻だったが、妹がいないのも手伝って、今日はここで缶詰になっている。例の機内チャネルの一曲を耳で憶え、ピアノ部分をアレンジしながら、一音一音確かめるように弾く。器用なものだ。
 空の想念を音で描く櫻、川の現実を水彩で描く蒼葉。青い広がりを持つものを「描く」という点で同じだが、アプローチは異なる。食事中の表情も対照的な姉妹。習作第一部とともに、大まかな状況報告を受け、ウンウンと頷く姉君だったが、波が収まらない妹君は、
 「私、隅田さんにメールする!」と、いつになく衝動的に一言。そして、「弥生のアドレスと交換てことで、いいでしょ。櫻姉さん」
 「ま、今のところ、モノログに新ネタ載ってないみたいだから、蒼葉からスクープが届けば、喜ぶとは思うけど」
 「何かこう、他の人にも広く知ってもらいたいな、ていうのがあって...」
 「でも、現場で写真撮ってないでしょ。ケータイ置いてっちゃうし」
 「これ、載せてくれないかなぁ」
 習作第二部を繰る。彩色した漂着物の数々は、蒼葉にしてはトーンが暗めなので、櫻も驚く。感想を述べるには及ばない。習作という域を超え、そのメッセージは鮮烈に伝わった。
 「ケータイで写せる?」
 「姉さんの職場まで持ってってスキャンする程じゃないものね。試してみる」
 かくして、更新ネタを取材し損ねていた千歳君に、思わぬ投稿が舞い込んでくることになった。
 「なんと写実的で重厚な...」 櫻が加わるようになってからというもの、千歳にとってのゴミ箱干潟は、むしろ明るく朗々としたイメージに彩られていた。だが、蒼葉が描き留めた「漂着静物画」は物言わぬ故の重く響くメッセージを伴い、彼の心をも波立たせた。三月のあの衝撃、初心を想起させて止まなかったのである。「そう、だからブログで発信しようって」 蒼葉の思い、届いたようである。
 「それにしても、こうなるとゴミじゃなくてアートだね」 川の水で溶いた隠れた青。それが哀感を滲ませる。缶、ライター、カップめんの容器、さらにはゲームソフトのケースまで... 低解像度ながら、千歳の手によってweb上で再現されていくモノの表情。漂着モノログの新展開、と言ったら大げさだろうか。
 静物画に目を奪われて、見落としかけた一節がある。蒼葉からのメールの末尾には、「p.s. 六月二十二日は、ローソクを持ってセンターへお越しください、とのことです」 「え、ローソクって?」 職場訪問の日程調整は済んでいたものの、特に持ち物などについては指示がなかったので、余計に不思議に思う千歳だった。
 蒼葉とはケータイがつながらなかったこともあり、時間を持て余し気味だった弥生嬢。設計仕様書が櫻から届いたのは一週間前だったが、ある程度構想は練ってあったため、比較的スピーディにプログラムは組めていた。今日は時間を埋め合わせるようにその追い込みに入っている。「二十二日、多分間に合うと思うけど、データをどこにストックしてもらうか、詰めないとね」 彼女は専門学校でこの手のプログラミングをマスターした後、そのスキルをより実社会的に応用させるための接点を求め、社会科学系の大学に中途編入した人物。舌鋒鋭い点も含め、気鋭の人(蒼葉談)である。かくいう蒼葉は、絵描き修行のためフランス留学した後、己の画業を模索する中で、通俗的でありながら批評性(いや風刺か)を備えた表現を深めることを思い立ち、弥生と同じ社会学科を選んだ次第。学業がどの程度、絵画に活かされようとしているのかは、未知数である。だが、一つのきっかけは掴(つか)めた、と言っていいだろう。