月曜日は休館日なので、櫻が南実からのメールを見たのは火曜日のことだった。櫻の名刺にはセンター用のアドレスのみで、自宅用は記していない。「そっか、小松さんには自宅用の教えてなかったんだ」 メールの使い分けについて少々思案する櫻。南実は文花つながりでもあるので、基本的には職場からやりとりできればいいか、などと思いながら、添付画像を開いてみる。いつしか文花が傍に立っていて、
「あら、その粒々の写真、何?」
「あ、文花さん、日曜日はサプライズでしたよぉ。教えてくれればいいのに」
「え?」
「小松南実さん、来ましたよ。で、彼女の研究テーマの写真がこれ!」
「ハハ。まさか本当に行くとはねぇ。でも少しは役に立ったでしょ?」
「えぇ、おかげ様で」
選り分けられた粒々を見ながら、よく見分けがつくものだと感心しつつも、ちょっと浮かない櫻。文花は逆に楽しそう。「さぁ、夜の準備しなきゃ」
情報通の文花は、どこで聞き付けたのか環境の日に因んで、件の五カンおじさんをゲストに迎える手筈を整えていた。今回の講座は、地域交流型の催しとして試行的に行うもの。そのため、公的な広報等にはあまり出さず、ネットを介した口コミベースで何となく発信した程度。しかも、ゲスト講師の氏名は当日のお楽しみ、という。櫻ですら誰が出てくるのか聞かされていないというから、ある意味、仰天企画である。純粋な公的機関ではこうした企画は通らないだろう。実験的アプローチを許されたセンターの特性を弁えた、ちょっとした工夫だが、文花としては賭けでもあった。日時と会場以外にハッキリしているのは、タイトルだけ。「荒川の目線で地球環境を考える」とな。
ワンフロアのセンターだが、講座を開くにはちょうど良い大きさのフリースペースがあって、三十人程度の席が設けられるようになっている。あえて事前申込制にはしなかったので、開始時間まで参加人数はわからない。だが、文花の読みはズバリで、この夜、二十五人が集まった。
会社帰りにフラと立ち寄ってもらおうということで、開始は十九時。男女半々、年齢層もバラついた感じ。いい塩梅である。客席には初老の男性もチラホラいて、顔を見合わせたりはしているが、談笑するでもなくただ開講を待っている。定刻になり、文花が挨拶に立つ。この手のご挨拶はあまり得意としていないチーフだが、試験的な催しということで肩の力が抜けた感じで一言二言。受付で見守る櫻もひと安心。
「これはこれは蒼葉さん、ようこそお越しくださいました」 開始直後、妹君も駆けつけて来た。
「満員御礼ですかぁ。関係者席とかないの?」
「あのねぇ」
蒼葉はやはり目立つようで、男性客の視線を何となく集めながら奥の席に着いた。「それにしてもゲストスピーカーの方、まだいらっしゃらないようだけど...」 その点がちょっと引っかかる。
「では、お待ちかね。今日の講師、掃部(かもん)清澄さんです」
「え?」 櫻の目線の先には、客席からひょこと立ち上がった、初老男性の姿。スケッチブックのようなフリップを携えながら、前方へ。足取りはどことなく蟹股(がにまた)。厳格そうな面持ちとは裏腹にちょっと滑稽な印象。「またしてもサプライズ、か」 櫻は苦笑するしかなかった。
「私、本名は掃部清と言いますが、欧米風に清・掃部とやりますと、清掃部になっちまうもんで、ペンネームを使うことにしまして...」 リングで綴じたフリップをパラパラやりながら、まずは名前の云われの紹介。客は一斉に大笑い。つかみを心得た人物である。「今日はあそこに突っ立っている役人さんに『酒呑んでるシマがあったら、こっち来て話聞かせろよ』とか言われたもので、仕方なく...」 またまた爆笑を誘う。櫻もすっかり引き込まれてしまった。しかし、突っ立っている役人さんて? その方を見遣る。「あ、須崎課長!」 櫻の元上司、須崎辰巳がいつの間にか奥の方に立っていて、苦笑いしている。ヒの発音がうまくできない掃部公。生粋の江戸っ子である。「皆さん、酒呑んでるヒマですからね。シマじゃないですよ」 辰巳のナイスフォローに一部から拍手が起こる。文花も思わず拍手。そして会場は一気に掃部ワールドへ。
フリップは写真帖でもあった。荒川流域の春から夏にかけての季節の草花などが次々と出てくる。「これはカントウタンポポ、次はご存じツクシ... うまく調理すれば結構いけます。荒川の恵みですな」 櫻にも見覚えがある植物の数々。荒川流域にもともとあった在来種をこれ以上減らさない、それと並行して、すでに減ってしまった、または絶滅してしまった在来種を戻していく、その両方が大事、といった話に続き、「今の季節は、このネズミホソムギが大敵でして」 外来種の話題になった。これを駆除することが在来種を守ることにもつながるのだと言う。「それ、花粉症のもとなんですよね」 文花が思わずツッコミを入れる。トークショーのような感じになってきた。その時、一人の青年が遅れて受付に。
「いらっしゃいませ」
「スミマセン。まだ大丈夫スか?」
「はい。こちらへお名前を」
宝木八広(たからぎ・やつひろ)と筆を走らせる。縁起のいい名前である。実は千歳から話を聞いて駆けつけたのだが、この時の櫻にはそんな経緯は知りよう筈がない。だが「この間、CSRレポートを見にいらした方ですよね」ということは記憶していた。
「あ、先日はどうも」
「奥の席へどうぞ」
青年の後姿を見ながら、まだ何かを思い出せずにいる櫻。この間、イネ科植物の話を聞き漏らしてしまったが、文花が「皆さんもネズミホソムギを見つけたら根こそぎ刈りましょうね」 なんて妙なまとめをしているのがふと耳に入り、「草を刈る、ってことは、もしかして」 櫻には思い当たるフシがあった。
ヨシの写真が出てきた。「そんな外来種と陣取り合戦をしているのがこのヨシ。悪しではなく『良し』と覚えてください」 ヨシには二酸化炭素の吸収、水質の浄化、生き物の棲家、といった機能があることに触れながら「ヨシを見かけたら『ヨシヨシ』と可愛がってやってくださいな」 またまた笑いに包まれる。櫻も客席に入り、蒼葉の隣へ。蒼葉は目を見開いて、写真を見つめている。
ヨシでは鳥の営巣も見られる。「このヨシゴイ 対 オオヨシキリは見ものでした」 ヨシゴイの方が大柄だが、鳴き声で分があるオオヨシキリがこの時は勝ったとか。縄張り争いの決着の瞬間を写真に収める力量、大したものである。「ちなみにオオヨシキリさんは、ギョシギョシと鳴きます。私はキヨシキヨシですが」 八広は櫻の近くの席にいた。遅れて来た彼は講師の本名は知らないはずだが、言い回しが面白いのか、大爆笑している。櫻はギョシギョシでハッとさせられた。ヨシから飛び立って行ったのは、オオヨシキリだったんだ!
「ところで皆さん、バイオエタノールてぇのはどうなんでしょう?」 突如、燃料の話になる。トウモロコシなど食糧になるものを燃料にしてまで消費をせずにはいられない、人間の哀しき性癖はどうにも治らないといった嘆き節だった。「どうせなら、ヨシの枯れ枝を使えばよろしい」 現場でヨシ束を目の当たりにしている櫻にとっては、説得力のある話だった。使い道があるのなら、あの束の除去もビジネスモデルになるってこと? 「まだ実用化メドはハッキリしませんが、枯れても用途があるとなれば、万能ですな。だが、ヨシにとって大きな脅威があります。外来種の侵入以上に」
(参考情報→枯れヨシの活用策)
ヨシ原とその根元に押し寄せる人工物とゴミが大写しになっている一枚を示す。「外来種もゴミですが、これは正真正銘のゴミ。これじゃヨシはしとたまりもありません」 ひとたまりがうまく言えないがここはご愛嬌。「干潟で見たのと同じね」 蒼葉がポツリ。成長したヨシがプラスチックシートを突き破って、そのまま茎にまとっている例も出てきた。「こことは別のし潟(干潟)で最近クリーンアップをしている連中を見かけまして...」
「姉さん、もしかして」
「ということは千歳さんが見かけたのってやっぱり」
思わず姉妹で目が合う。辰巳は「ひがた」とフォローしようとしたが、着席していたので、タイミングを逸してしまったようだ。
「掃部さん、クリーンアップチームって、若手数人の?」 櫻は何となく嫌な予感はしていたが、案の定、文花がチャチャを入れてくれたりする。
「いやぁ対岸からだったんで、よくわかんなかったけどさ、大橋の下流、数百メートルくらいかなぁ」
「あ、わかりました。その話はまた」
ホッとする姉妹。ここで話を振られたら、たちまち公然のスポットになってしまう。本日の進行役は涼しい顔して櫻の方を一瞥してニヤリ。「ったく、文花さんたら」 講師は話を継ぐ。「とにかく水際やヨシ原のゴミを片付けてくれる、というのはありがたいことです。川も悦ぶことでしょう」 こうしたゴミは社会の縮図、ゴミを通して社会の荒れ模様がわかる、再資源化できるものはゴミではないはずだが、人々の意識が資源をゴミ化させてしまっている等々、力説が続く。「なぜこんなゴミが、というちょっとした問いかけから全てが始まります。小さな一歩もやがては、大きな動きに。荒川も小さな水の集まりだけど、あのような流れになる訳で」 例の五つのカンがフリップに出てきた。「皆さんも、監・観・感・環・関を念頭に、地元の大自然、荒川へ行きましょう!」 大拍手とともに、掃部先生のお話はこれにて一旦終了。文花とのやりとりなどがあったせいか、予定時刻よりも押し気味。十九時四十分を回っていたが、盛会ならば申し分ないだろう。二十時には閉館しないといけないが、ここはチーフの裁量の範囲内。委託・受託の関係上、辰巳がいる中での時間延長は気が引けなくもなかったが、大目に見てもらうとしよう。「荒川を通した地球環境、いろいろと見えてきたと思います。ここで質疑応答、といきたいところですが、時間の都合上、ここでお開きとし、代わりに掃部さんを囲んで二十時までご自由に、というスタイルにします。どうも、ありがとうございました。もう一度、拍手を」 アドリブトークを織り交ぜられた余裕からか、文花にしては鮮やかなしめくくりだった。櫻はそんなチーフに対して、心から拍手を送っていた。
八広は櫻の方を見て軽く会釈すると、そそくさと退席。櫻は思い出したように出口へ向かい「ありがとうございました」と声かけに回る。蒼葉は自発的に受付の片付けを始めた。半分ほど帰ったが、掃部先生の周りには、ちょっとした人垣ができていて、ガヤガヤやっている。
「須崎さん、多少延長してもOKですよね」
「ま、ここは矢ノ倉さんのご裁量でどうぞ。師匠を早々に追い立てる訳にもいかないし」
「お話、通していただいて助かりました。お噂を聞く限り、おっかなびっくりだったんですけど、あんなに面白い方だったなんて」
「昔はよく怒られましたよ。今はずいぶん円くなったかな」
「じゃ、お姉様、私は先に失礼しますわ」
「あ、ありがとね。またのお越しを」
こういう場だと妹に対してもつい律儀になってしまう。時刻は二十時。先生はまだ数人と談話中。櫻はイスを片付けながら、耳を立てる。
「この間、水際に立派な魚が打ち上がってて驚いちゃった...」 掃部氏と同年代と思しき女性が話しかける。写真帖を繰って、
「こんな魚?」
「あぁ、そうそう」
「ソウソウ、ソウギョ」
それは正しくソウギョだった。櫻は笑いをこらえつつ手を止め、話を聞く。「利根川水系では自然繁殖してるんだけど、荒川だとあんまりねぇ」 すかさず挙手する櫻。
「先生、何で打ち上がってしまうんですか?」
「おっと、お姉さん、ズバッと来たねぇ。魚の都合だから、俺にはわかんないけど、水温の変化とか、水が濁ったとか。とにかくソウギョに訊かねぇとな」
「海水が来るのを避けて、ってことですか」
掃部公の表情が変わる。
「確か汽水域でも平気だから、それはないだろうけど、さすがに海には出られないんだな」
「ありがとうございます!」
残った数人は「へぇ」とか「ほぉ」とかまだやっている。文花は魚の写真を見て何となく固まっている様子。
「千住さん、元気そうだね」
「課長、受付通らないから、わかりませんでしたよ」
「いやぁ、内輪みたいなもんだからね」
どことなくぎこちなげな二人。櫻にとって辰巳は、元上司というよりも身元保証人のようなところが今はあるので、相応の振る舞いをしないといけない。辰巳はそのあたりを汲んで、余計な負荷をかけまいと、控えめに客席に紛れていたようだ。櫻へのちょっとした気遣いだが、本人にはどうもうまく伝わっていない模様。まぁ元気でやってるならいいか。
ガヤガヤが済んで、清掃部おじさんと地域振興課長さんが一緒に出て行ったのは、二十時十五分。文花はまだ残るという。
「文花さん、今日は環境デーなんだから、省エネしなきゃ。あまり残ってちゃダメですよ」
「ハイハイ。でも忘れないうちに今日のことメモっとかないといけないから」
顔がわかる範囲で本日の参加者宛に速報メールを打つんだとか。頭が下がる。
市民メディア云々の編集会議が終わって、帰って来た千歳君。「八広君はちゃんと行ってくれたかな」 ケータイからの早打ちで、取り急ぎの報告メールは届いていた。「講師は掃部清さん? はぁ、何か変わったお名前で」 そのメールにかぶさるように、南実からの一報が届いていた。講座の件は後回し。「画像の転載、おそれいります。でも、隅田さんが撮ってくれた写真の方はどうしてウキだけなんでしょ?」と来た。クレームのようなそうでないような不可思議な文面。「肖像権の問題とかあるしなぁ」 お騒がせのウキは筆立てに収まっている。ブツブツやりながらも、早速返信。「クリーンアップの日程などを公開することになったら、いずれ関係者の写真を載せる機会も出てくるでしょう。それまでは非公開ってことで...」といった弁解モード。ちょっとトホホな気分である。「櫻さんと早く相談した方がいいかな」 トリミングしていない元の画像ファイルをやや小さめにリサイズして添付する。南実の反応やいかに?
仕様書がようやく仕上がったGo Hey君は、ようやくいつものノリが戻ったようで「千ちゃんに送るのが筋だけど、この際だからCCで女性二人にも入れちゃおう!」 渾身の一作だが、あとは千歳マネージャー次第。彼のチェックを経て、櫻→弥生と渡ることになる。
六月三日から五日まで、短期間ながら四人衆の間でメールのやりとりが活発になってきた。出遅れていた櫻だったが、六日に出勤すると早速三人に向け、同報でコメントを発信。南実には、写真の感想、文花との後日談、データカードにレジンペレットの数を加えて提出に備えていること、など。「ソウギョのことはまだいいかな。外来魚のことも調べてくれるって言ってたし」 掃部先生のことはひとまず伏せておく。業平には、仕様書の御礼方々、千歳と相談してからプログラマーに渡す旨など。そして千歳には「千さんが三日に目撃したと思われる人物と接触しました。詳細は今度いらした時に...」 ちょっと思わせぶりな一筆で締めくくる。
たまたま出かける用件がなかった千歳は、櫻がメールを打っている時分、仕様書への赤入れを着々と進めていた。「ステップとしては、①サイトにアクセス、②自治体選択、③画面呼び出し、④必要事項&数値入力、⑤確認画面、⑥送信実行、で確かにいいんだろうけど、品目追加のところと、ずっと画面を開けとかないといけないってところが引っかかるねぇ...」 赤入れの手が止まったところへ、櫻メールが到着。「相談してからプログラマーさんに渡すって... でもいつ?」 とりあえずさっさとチェックして、櫻姉に送るとしよう。発砲(→泡)スチロールといったシャレにならない誤字は業平ならではか? その辺の校正も入れつつ、午後早々には、To:櫻職場、Cc:業平、南実自宅、Bcc:櫻自宅、といった振り分けで、チェックを無事クリアした仕様書案が発信された。
午後は、ニュースレターの仕分けやらイベント情報の入力やら。六月はどうも情報量が増えるようだ。その合間にカウンター業務が入るものだから、ろくろくメールチェックできなかった櫻。早番だったので、明るいうちに帰宅できたのは幸いだった。「あ、仕様書の直し、もう届いてる」 相談するまでもなかったか、と思いつつも、Toが櫻で、同じく自宅宛がBccという千歳の配慮が嬉しく感じられた。「一応皆さんの意見云々てなってるけど、ケータイの世界は私ダメだし、ここは小松さん次第かな」 千歳からのメール末尾には「返信期限は八日までで良いですかね。櫻さん?」という一文が。一人で頷く櫻。優しい妹はいつもの調子で、
「櫻姉!」
「わぁ!」
夕飯の時間なのであった。
「あとで、桑川さんのアドレス教えてね」
「お一つ千円です」
「たく、誰に似たんだか」
六月の夕べはまだまだ明るい。
千歳、業平、櫻、再び千歳の順で三人から届いたメールに目を通す南実。日付は七日に変わる頃合だった。環境月間だと言うのに、自身の職場環境はどうも対象外のようで、残業続き。さすがの南実もおつかれモードだったが、櫻からのメール中、例の思わせぶりな一節を見て瞠目(どうもく)。「え、今度いらした時って?」 千歳からの返信メールも思っていた程の反応がなかったこともあって、余計にピリピリして来た。業平君の快作も空しく、南実の心中は「気になるなぁ」状態。アクティブな彼女のこと、きっと何か仕掛けてくるだろう。
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