2007年12月25日火曜日

24. 二人のカウンター

九月の巻

 誰かさんのようにクールとは言えないが、気候的には少しずつ、秋の涼やかさが同居し始めてきた。九月最初の日曜日は、暑さも和らぎ、穏やかな曇天。時々晴れ間がのぞく感じで、日焼けがどうのというのももう気にせずに済みそうである。
 八月下旬から、higata@のやりとりも活発になってきた。弥生、蒼葉の自己紹介メールに続き、文花からは掃部(かもん)先生の講座案内を兼ねた自己紹介が流れ、これでリスト参加者全員の紹介が完了。互いに面識がない組合せが一部に残るが、概ねの素性がわかれば、議論もしやすくなるというもの。八月最終週は専ら、十月最初の日曜日を一般参加可とするかどうかの件で、それは九月二日の様子を見てから決めてはどうか、手順や分担は講座の時に集まったメンバーで軽く話し合って、別途打合せ日を設けては、といった感じで話は進んでいた。
 そんなこんなでご機嫌な管理人だが、今日は櫻との再会も控えているので、さらに快調。装備の準備・点検に一層精を出している。欠席の連絡があったのは、文花からだけだったので、higata@メンバーで集まるのは自身を含め、男性三人に女性四人。これに石島姉妹が加わり、八広の彼女、弥生の弟君も参加する見通しなので、総勢実に十一名となる。過去最多というと大げさに聞こえるが、あの干潟の大きさからすればこれは十分な人数である。軍手と袋の予備はその人数を見越したもの。色違いの袋は、今回から導入予定の廃プラ専用回収袋だとか。バケツ、デジカメ、マイカップの三点は常備品だが、さらに、火バサミ(トング)、長靴を加えることにした。件(くだん)の四メートル級の増水によって、現場はとんでもないことになっているはずなので、いつも以上に入念である。南実からの潮汐情報により、今日の開始時間は前月と同じく十時半。余裕があったはずだが、気が付くとすでに十時を回っている。いつものマイバッグの他に、長靴などを詰めた大きめのレジ袋を持って、いざ出発!である。

 人数が多くなりそうなことは櫻も承知していて、袋類を多めに、そして自由研究の日に使ったレジャーシートを今回は用意していた。それに、カウンタ、クリップボード(用紙付き)、マイカップ。同じく三点セットである。十時を回った時点で、橋を渡っているところ。蒼葉と違い、視力には自信がないので、干潟の惨状はよくわからない。
 「大水の状況からして、きっとスゴイことになってんだろな。それにしても、この眼鏡、そろそろ替えないとダメかしら...」
 橋を降り、左へ折れてしばらく進む。すると、どこかで見たノロノロの自転車が。夏休みの初めと終わりに、同じようなシーンに出くわすとは、である。デジャヴのような錯覚の中、櫻は速度を上げる。前カゴに長靴袋を載せ、肩からはおなじみのバッグ。ちょっと三枚目な感じだが、彼のこういうところが気に入っているらしい。
 「千歳さん、Bon jour! Commant allez vous?」
 妹君ならこのようにフランス語で来ても驚かないが、姉君もこう来るとはビックリである。返答に詰まった彼は、Commant allez(コマンタレ)~のダジャレか「困ったねぇ、ブー」とか云って彼女を笑わせている。秋の風が心地良く二人を通り過ぎる。
 「櫻さん、ここ久しぶりでしょ」
 「そうなんですよ。でも、自転車で走る千さん見てたら、自由研究デーも同じだったなぁって。つい昨日のことみたい」
 集合時間まではまだあるので、自転車を押しながらゆっくり歩く。
 「あ、今日は蒼葉来ませんから」
 出だしから妹のことを聞かれるのも面映いので、姉は自分から切り出す。
 「そう言えば...」
 「ま、夏の疲れが出たんでしょうね。画家だけに繊細なところもあるんで、ね」
 姉を想っての気苦労なんかもあったかも知れない。千歳はちょっと申し訳ない気分になる。櫻が浮かない顔をしているのがわかると、千歳は18きっぷの旅について話を振った。
 「荒川上流方面だと、やっぱり八高線でしょうかね。ルート、考えてみます」 彼の趣味は、かつてはDTM(Desktop Music)、今はwebいじりといったところだが、その他に「探訪」があった。ブラリ旅とでも云おうか、結構あちこち出没しているらしい。六月君ほどではないが、この線に乗ると何処そこへ行けるというのは概ね把握しているとのこと。どんな旅を思い描いているのやら、である。

 干潟を見下ろす場所には、本日の一番乗りが到着済み。業平君である。八月三本目のモノログ記事を見て、増水時の状況について予習はしていたものの、現場が発するメッセージは予習や予想の域を超えていた。また随分ととんでもないことになったもんだ、と慨嘆する業平。だが、何故かニヤリとしている。「榎戸さん、ここ来たら納得するだろな」とな。秋は出会いの季節。また新たなメンバーが加わることになりそうだ。

 河原桜からは夏を惜しむかのような蝉の声。グランド脇の草むらでは、すでに秋の虫達の声が鳴り渡る。夏と秋の共存、即ち季節の変わり目、なのである。草の匂いの変化はすぐにわかった。川の匂いはどうだろう。どことなくだるそうで、どことなく凛とした匂い。模糊(もこ)としているが、漂ってくる感じはある。
 「過ごしやすくなりましたねっ」
 「クリーンアップ日和、かな」
 そんな二人の前を行くは、弥生と六月の姉弟。弥生は増水とゴミ漂流をこの目で見て、「今日は外せない」と意気込んでいて、六月の方はすでに上出来の自由研究をさらにブラッシュアップすべく乗り込んできた。年は離れていても、きょうだいとは斯くあるもの。息はピッタリである。

 十時半になった。現地には、今のところ五人。そこへ石島姉妹が自転車で乗り付けてきた。
 「小梅さん、先週はありがとね」
 「宿題だいたい終わってたし、塾の帰りに寄るだけだったから。充実の夏休み、でした」
 にこやかな妹に対し、姉の方は干潟近景を見て、暗い顔をしている。
 「水位が下がったら、こうですかぁ。親父、知ってんのかな」
 「え、親父って?」
 石島姉妹と石島監督の件は、櫻と弥生には話してあったが、業平は初耳。小梅から話を聞いて、「今日はその親父さん、いらっしゃらないの?」
 「お姉ちゃんには頭上がらないんだ。クリーンアップする日は試合もやらないと思う」
 「小梅はいいから! その話はまた後で」
 顔色を窺う妹。姉は、西の空を気にかけている。スカッと晴れれば、機嫌も良くなるんだろうけど、心なしか憂色が浮かぶ。

 晴れ間が出にくくなっているのは、自称雨女さんが接近しているからか。八広と舞恵は今日は自転車で現地をめざしている。
 「ちょっと、八(ba)クン速いよぉ」
 「あ、対不起(Dui bu qi)(すみません)!」
 「中国関係は顔だけにして」
 二人が停車した辺りの先では、一人のマダム、いやセレブ、ともかくいい具合に年齢を重ねた女性が早足で歩いていた。ある姉妹をスクーターで尾行していたが、堤防上の道路に入るところで見事に引っかかってしまい、徒歩を余儀なくされている。バイク&スクーターの乗入を遮るゲートの手前で、とにかく姉妹が干潟方向に向かうのを見届けてから、橋下の駐車場に廻り、再び堤防へ。自転車の二人はその女性を抜き去って行った。
 「何かあの人、こっち向かってない?」
 「さぁ、河原に来るには場違いな感じがしなくもないけど。競歩じゃない?」

 「まったくあの子たちったら、書き置きだけで伊勢に行っちゃうし。今日だって二人でコソコソと」 親の心配をよそに、快活な姉妹はすでに現地で軍手を着用中。水位がさらに下がるのを待ちわびているところである。
 二台の自転車は坂を下り、グランドを掠(かす)めて行く。その先にはちょっとした人だかり。「とにかく行ってみましょ」 そのご衣装からは想像し難い、なかなかの健脚ぶりで、歩く歩く。

 自転車カップルが合流した。銀行にいる時とは印象は異なるものの、櫻はしかと覚えていた。舞恵の方は、千歳と話す中ですでに感づいていたので、それほどの驚きはなかったが、
 「キャー、やっぱり。奥宮さん、でしょ!」
 と櫻が騒ぐものだから、つい乗せられてしまった。
 「やっぱりいらしてたんですね。千住 櫻さん」
 手を取り合って再会を喜んでいる。
 「ここってある意味、出会い系?」 と業平が訝れば、
 「あなたが宝木さん? あの方は?」 と弥生のツッコミが始まる。
 メーリングリストに入っていない石島姉妹は、カップル二人についての情報が全くない。何が起こったのかわからないご様子でキョトンとしている。こうなると千歳がフォローするしかない。
 「えっと、この後、小松南実さんがいらっしゃる予定です。全員そろってから自己紹介、じゃ遅いか...」 そこへリーダーが割って入る。
 「ごめんなさい。こちら、奥宮、えっと」
 「舞恵です。名前書く紙、ないんスか?」
 受付用紙とペンを差し出す。名簿筆頭は舞恵、続いて八広、弥生、六月と名前が埋まっていく。石島姉妹にペンが渡った時、「初音ちゃん、小梅ちゃん」 娘の名を呼ぶ声とともに、先の女性が現われた。
 「あぢゃー」
 「な、何で?」
 石島母である。「あ、あの皆さんは?」
 「石島姉妹のお母様ですか? お世話になってます。皆、ここをクリーンアップしている仲間です。私は、千住 櫻と申します」
 「はぁ、クリーンアップ?」
 「ホラ、お母さん、ここ見てよ」
 次女が指差す一帯は、ヨシとともに打ち寄せられた大きく太い名無し草の束と、それに絡まるように散らばるゴミの山、山。流木や木片もゴロゴロしているし、大きな袋類ものさばっている。三月の衝撃を彷彿とさせる漂着&散乱の極み。これに二人の娘は挑もうとしているのか。初音が記名し、小梅もいつもの達筆でスラスラ綴る。
 「じゃ、お母様もせっかくなので、ここにご署名ください」
 「あ、はい」
 干潟の有様にも吃驚(びっくり)だったが、小梅の字が上手なのにも驚かされた。子のことを案外わかっていないのが親である。
 「きょうさん? それとも」 六月が首を突っ込んできた。
 「『みやこ』って読むのよ」
 「へぇ、そんな読み方があったんだ」
 駅名に強い六月でもこの読み方は意外だったようだ。「石島 京」の次に「千住 櫻」が来たところで、三十男二人分の欄がなくなってしまった。
 「じゃ、『二枚目』にどうぞ。お二人さん♪」
 「二枚目だってさ」
 「業平君は自称三枚目だろ」
 こうして、場の空気は何となく和み、母親もひとまず胸をなで下ろすのであった。

 「ところで蒼葉ちゃんて、今日来ないんだっけ?」
 和んでいたところ、弥生が不用意な一言を発する。「あ、いけない...」 後の祭りである。
 「え、蒼葉さん、来るの?」
 「今日はね、アトリエで作業するんだって、ごめんね」
 さすがに夏バテという訳にも行かないから、もっともらしい説明になる。少年は「なぁんだ」である。不用意は姉弟間で連鎖する。そんな六月の一喜一憂は、小梅お姉さんがしっかり見ていた。何か起きなきゃいいけれど。
 (蛇足ながら、空気が読めても読めなくても、略せばK.Y.である。桑川弥生をそのままの順でイニシャル化すると、ズバリK.Y.になる。余計なお世話か。)
 弥生がバツ悪そうにしていると、場の空気を変える人々がやって来た。これで総勢十二名になる。時刻は十時四十五分を回ったところ。惨状を前にしつつ、なかなかクリーンアップに着手できないご一団である。

 「遅くなりました」
 「すみません。案内してもらったので、彼女の到着遅らせちゃって」
 仕立てのいいジーンズに、多ポケッツベストを着用。レンズ交換式サングラスとやらを額に当てている。どことなく高級感を感じさせるこの人こそが、
 「榎戸冬木さん、ですね」
 「あ、『えのきど』じゃなくて、『えど』でいいんです」
 どうやら業平の知り合いのようである。二人並ぶと、業平がちょっと高いくらい。つまり長身な人物である。スポーツ刈りという辺りがまたイケてる。左手薬指には新しめの指輪が光る。石島母を除くと、クリーンアップメンバーでは初となる「既婚者」である。(ちなみに掃部先生も既婚者のはずだが、お子さんはいらっしゃらないようなことを言ってたし、ある時「今は、し(ひ)とり身」とかこぼしていたので、とりあえず違うということにしておこう。)
 「本多さんとは、アフィリエイトがご縁で知り合いまして、今日は自分の仕事を兼ねて下見というか、体験させてもらおうと思い...」
 石島母に続くサプライズに加え、アフィリエイトという用語に面食らうことになる面々。六月を除く男性諸氏と、弥生、舞恵はある程度わかっているが、十代を含むその他の女性五人は、言葉は聞いたことがあるかな?程度。六月は受付名簿とペンを手に、南実と冬木のもとへ。
 「ま、難しい話はあとにして、お名前どうぞ!」
 少年はすっかり逞しくなって、この通り。千歳の下には南実の名前が続き、締めは冬木。
 「小松さんからだいたいの事情は聞きました。名前とお顔はこれで一致させればいいんですね」 冬木は名簿をしばらく眺めつつ、
 「『漂着モノログ』の隅田さん、あと『さくらブログ』の櫻さん...」
 アフィリエイトをやるだけのことはあって、なかなかのweb通である。まるで点呼をとられているようだったが、
 「当クリーンアップの発起人、こちらが隅田さん。私は進行係の千住です。よろしくお願いします」
 櫻が気丈に応じた。だが、
 「あのぉ、宝木さんて、イニシャルは?」
 リーダーの挨拶もそっちのけで、勝手に話を進めている。この調子じゃ一向に作業に入れない。
 「あぁ、Y.T.ですよね。八月のモノログの投稿、読みましたよ」
 筆力のある八広が書いた一編を転載した甲斐あってか、モノログのアクセスは確かに増えている。それはそれで結構なこと。だが、管理人(ここではブロガー)は千歳である。投稿者の方をまず持ち上げるというのも失礼な話である。
 そんなお騒がせさんを招聘したのは業平である。立場上さすがにマズイと思ったか、
 「榎戸さん、そういう話は終わってから、ってことで」
 空気を変える、どころではなかった。巷に云うKYなヤツとは、こういう人間のことを指すようだ。千歳はカチンと来たまま、固まっている。
 千歳と連動しているつもりはなかったが、南実の登場もあって、櫻も何となく強張(こわば)った感じになっている。とても本調子とは言えない。「じゃ、皆さんそろったところで始めますか。と言っても、初めての方がいらっしゃるから...」 さすがのリーダーも手こずっている。実施手順とか注意書きとか... すぐに配れるものを用意するとか、大きく掲示したものがあってもいい。そんな必要性を認識する場面であった。

 「見ての通り、先だっての増水で大量の漂流・漂着があって、この有様です。今日はちょっと違う方法を試してみましょう。ね、櫻さん?」
 櫻の機転が利けば、初めてでもそうでなくてもできる手法を思いつくと踏んだ千歳である。
 「あ、あの横倒しになっている草をまず除けないと、ですよね。男性の皆さん、お願いします。で、引き揚げた後に残ったものを女性チームでとにかく袋に入れましょう。数えるのはここの草がないところで」 千歳が思い描いていたのと同じような方法論がちゃんと出てきた。これぞ以心伝心である。いつもなら干潟上で仕分けたり、数えたりできるのだが、名無し草が跋扈(ばっこ)している以上、干潟では困難。陸揚げ&陸上作業、いざトライアルである。干潟と陸を結ぶ通路は、冠水した割にはしっかり確保されていて、むしろ通りやすくなっていた。通行アクセシビリティとでも言おうか。これは作業要諦の一つである。
 千歳が予備の軍手を配る間、櫻はレジャーシートを広げ、回収用の袋は女性がそれぞれ手にして行く。京は娘の安全を気にかけ、一緒に干潟に下りる覚悟だったが、思わぬ異臭に足が止まる。「ソウギョっていうか、ハクレンですね。腐乱しちゃって...」 南実は平然としているが、他の女性メンバーはさすがに硬直している。今回は五十糎超の大物。白身が露出していて、ハエがたかっている。「文花さん、ご欠席で良かったぁ」 櫻は一大リスクを回避できたことの方が大きかったようで、ハエもハクレンも眼中になかった。調子が戻って来たところで、すかさず指示を飛ばす。「さて、通路を確保するにはこれ何とかしたいですね。魚馴れしているお二人さん、お願いします!」
 六月の回でソウギョと対面した経験が買われ、千歳と業平が出動。八広は舞恵の前に出て、彼女をかばうようにしているが、ちょっと腰が引けている。その後ろでさらにビビッているのは、先刻まで威勢の良かった冬木である。現場を知ることで、人は謙虚になっていく。これで少しは言うことを聞くようになるだろうか。
 増水で流れ着いたらしい、長めの枝を一つずつ手に取る。二人で魚の頭と尾の方に枝を添え、「せーの」で押し出す。川に還(かえ)して差し上げよう、ということなのだが、
 「身が崩れそうだ」
 「ここから先はR25指定かな」
 舞恵は規制年齢ではなかったが、八広ともども背を向けている。八広以下、五人の男女は目を伏せる。冬木はビクビクやりながらも「これも取材のため」と薄目で様子を見守る。
 かくして、六月の回の四人がこのハクレンの川送りに立ち会うこととなった。枝で静かに押し出したつもりだったが、思いがけず腐敗が進んでいて、身も骨もバラバラになってしまい、跡形なし。ただ、蛋白源として重宝されただけのことはあって、その肉の厚みは目を見張るものがあった。清に詳細報告をする手前、デジカメをスタンバイモードで片手に持っていた千歳は、川に還っていくその体躯を克明に収めることに成功した。
 「では、皆さん合掌!」 業平がかけたそのひと声は、憂愁を誘いつつも、心に静かに響くものだった。小梅に続き、初音も合掌。桑川姉弟は黙祷の構え。冬木は己が名の如く、ただ立ち尽くしている。京はレジャーシートに腰を下ろし、姉妹の厳粛かつ真摯な様子を見つめる。「あの子たちったら...」 この干潟で何がなされ、なぜ子どもたちがここに来るのか、母は悟ったようである。

(参考情報→ハクレン(推定)の遺骸

 草と水の匂いが辺りを包む。いつになく粛々としたムードの中、現場慣れした(または、してきた)十人が動き始める。今回の実質的スタートは十一時過ぎ。文花が初めて当地に訪れた時のような、どことなくフェミニンなファッションの石島母には作業をお願いするに忍びない。シート上でそのまま荷物番をお願いすることにした。冬木は一応、草運び班だが、軍手をしたまま、まだ呆然としている。「さ、榎戸さん、情報誌やるからには何事も体験ですぜ」 業平が誘導し、何とか配置につく。千歳と八広のコンビは、早くも三束目を搬出中。着手してわかったことは、この名無し草の塊が幾層にも横たわっていて、たっぷり水分を含んでいる、ということ。これじゃ干潟の浄化作用も何もあったものじゃない。とにかく早く除去して、干潟の呼吸を回復させると同時に、クリーンアップするためのフィールドを確保しなければいけない。こいつがのさばっている間は、ペットボトルなんかをポイポイやる訳にも行かないのである。櫻の作戦、今のところ順調である。だが、
 「それにしても、長いし、重いし、土木作業みたいスね」
 「ま、エクササイズだと思って、励むんですな」
 「クリーンアップって、やっぱ体育会系?」
 と来れば、強肩のあの人の出番。早速、硬球やテニスボールなんかをビュンビュン放り投げている。京は頭上を遥かに飛んでいくボールを見ながら、「まぁ、あのお嬢さん、スゴイわねぇ」と、感心中。受付名簿を見ながら、顔と名前を確かめ、「小松さんか。野球とかやるのかしら?」てな調子で、悠長にやっている。監督の妻らしいご発言だが、スカウト担当ではない。ただ、惚れ惚れしているだけのようだ。
 そんな南実と距離を置いていた櫻だったが、男性陣が往復している隙を縫って、通路よりも上流側、その強肩女性がいる一角にやって来た。夏休み初日が初戦とすると、夏休み最終日にして決戦となる。ここで決着させよう、ということか。
 「小松さん、higata@ではいろいろと...」
 「私、お二人の反応を試してたんですけど、まぁうまく交わされたというか、二人とも大人だなぁって」
 流し気味の球を櫻が放ったとすると、南実の投球は実に対照的。またしても直球で応えてきた。これはキャッチボールと云えるのかどうか。
 「この間は言いそびれちゃったけど、千歳さんとはそういう仲です」
 「そういう、か。わかってますよ。両想い、なんでしょ。私のは花火みたいなものだから、いいんです。暑さ過ぎれば何とやら、とも言うし」
 「小松さん...」
 キャッチボールの手が止まったような感じになった。「両想い」、それが確認できたのは、今思えば南実が焚き付けてくれたおかげ、なのではないか。

 「さ、リーダー、あっちで若手女性陣がまごついてるみたいだから、行って差し上げたら?」
 「あ、ハイ。行ってきます!」 南実の誠実さが身に染みてきた。川から吹く風もまた染み入るよう。干潟を洗う波は今日は至って穏やかである。
 引き返す途中、六月とすれ違う。少年は、草束を運び出す途中でこぼれ落ちる小ゴミを集める特命を担当していた。袋に入れては、陸上の草のないところにパサパサ落とし、また搬出路に向かう、の繰り返し。「やるわね」「えへへ」 お互い眼鏡越しだが、目元が笑っているのがわかる。

 男衆四人はピッチが上がってきて、厄介そうな分については搬出を終えた感じ。今は草束を干す作業に勤しんでいる。乾いてほぐれてきたら、何かが出てきそう。その時は勿論、「あー、早く粒々やりたい」と呟いている人の登板となる。櫻が少し手分けして持って行ったものの、上流側のゴミは彼女が一手に片付けていたので、四十五リットル袋は満杯寸前。それでも肩が強いだけあって、重さは感じていない模様。体力あっての研究員、ということか。
 一方の若手女性四人衆は、下流の方から徐々に干潟中央部に歩を進めていたものの、手持ちの袋が何となく重みを増していて、ペースが落ちている。よくよく見ると、弁当やら空き缶を詰め合わせたレジ袋だったり、雑誌をヒモで括ったものだったり、重量級のものが入っている。これじゃ仕方ない。舞恵に至っては、スプレー缶のコレクション。名無し草とは別のエリアですでにこれだけの収穫である。草が除かれつつある干潟の中央(湾奥)の方も、埋没ゴミが露見してきて、見本市状態になっている。
 「皆さん、一旦、陸揚げしましょう。袋から出して、また拾う、その往復ってことで。重そうなのは男性チームに任せますかね」
 舞恵はハッとする。「なぁんだ、千住さんてしっかり者じゃん」
 そんな彼女の足元には、なぜか鉄筋らしき棒が数十糎程度、突き出て刺さっていたのだが、それには気付かず、代わりにある物体が目に留まる。その黒っぽさ故、目立たなかったが、潮が退いて存在が明るみに出た。
 「なんじゃこりゃ? あら、お財布!」
 拾い上げてひっくり返したところ、小銭を入れる口に詰まっていた砂の塊が落ちてきて、スニーカーにべっちょり。前回と違って、サンダル履きじゃなくてまだよかった。が、不運は続く。うっかりその場に置いてしまった袋には、いい角度で鉄筋棒が刺さり、持ち上げたが最後、穴は開くは、スプレー缶が出てくるは、散々になってしまった。
 一連の顛末を見ていた櫻は、「奥宮さんて意外とおっちょこちょい?」 と苦笑しつつ、首を捻る。第一印象というのは当てにならない。印象のカウンター、いやクロスオーバーが生じた瞬間である。
 彼氏にHELPを求めるまでもなく、石島姉妹がさっさとフォローしている。初音は吹き出すのをこらえながら問いかける。
 「大丈夫スか? 奥宮さん」
 「いいのよ。財布に大金入ってたから」
 姉妹が覗き込もうとすると、「んな訳、なーいじゃん」と来た。前回のような無愛想な顔をチラつかせるも、次の瞬間には高笑いである。天候に応じて機嫌が変わる初音もいい勝負だが、この突飛なお姉さんの表情の変化には敵わない。今回は幾分チャラチャラが減った感じのルフロンだが、初音としては十分、ファッションリーダー的存在に映る。そんな見た目のインパクトもさることながら、人を惹きつける何か、つまり、より内面的な部分に関心は移っていった。「空気の動きが天気になる。てことは、心の動きは表情、とか...」

 十一時半になった。段取りが奏功したか、草の塊は完全に除かれ、重量ゴミも概ね引き揚げられた。干潟の表面、つまり砂地が現われてきたのは好かったが、まだまだ散乱ゴミが残る。草の下敷きになっていた、という点では埋没ゴミだが、もともとは増水時の漂流ゴミ。同じゴミでも表現が変わるものである。
 春先と違い、紙皿や紙コップは見当たらなかったが、調味料のプラボトル、レトルトの袋、カップ味噌なんかが転がっているのを見るにつけ、夏のバーベキュー大会の名残というのは容易に察しがつく。バーベキュー広場での実態調査を想い起こしつつ、一つ一つ丹念に撮影していく千歳。それにしても、弁当屋のごはん容器はまだわかるが、ミニ納豆の容器が落ちているというのはちょっとなぁ。バーベキューと言えば、高カロリー食が中心だろうから、少しは健康を配慮してのことなのか。それなら最初から食材を考えればいいのに... 撮影係の手は止まったまま。その傍らで進行係は、撮影を終えた分からテキパキと袋に放り込みながらも、特に少年と少女から目を離さないようにしている。拾っている最中に大波が来たら、と思うと気が気でない。進行も大事だが、それ以上に欠かせないのは、注意・監視である。

 京を除く十一人、総がかりで漂流&散乱ゴミを拾い集めた結果、干潟表面はほぼ更地になった。残るは、業平と八広の手で前回築かれた防流堤よりも奥である。例の草に覆われていたのがよかったか、はたまたその堤に加勢するように板や丸太状の流木がうまい具合に横付けされたのがよかったか、草と木が絶妙に絡まり、より強固な堤になっている。(これを、自然による自然な工事、というかどうかは定かではない。) その強化された防流堤は、巧みにゴミをキャッチし、思惑通りの役目を果たしていた。だが、その役目の万全さが裏目となり、参加者の溜息を誘うこととなる。

(参考情報→流木は干潟の奥をめざす

 「いやはや、まだまだあるねぇ」 と業平が嘆き節を漏らせば、
 「何かいい装置ないんですか。大口吸引機とか」 と弥生がいつものツッコミ。
 「実機は得意だけど、資金がないことにはねぇ」
 世にはそうした吸引装置というか、吸引車なるものがあるが、何でもかんでも吸ってしまえ、というのも乱暴な話。今の業平が作るとしたら、生態や環境に配慮したタイプか。ま、期待せずに待つとしよう。
 タイムキーパー役を思い出した櫻がここで合図する。
 「今回はあの板というか壁というか、その奥は見送ることにしましょう。また増水することがあったら面目ないですが、とにかくブロックしてくれることを信じて、ということで」

 時は十一時四十五分。いつもより押している感じはあるが、次に控えるは分類とカウントである。量が量だけに気が遠くなりそうだったが、何と六月君が気を利かせてくれていた。皆が往復している間、ここでコツコツと大まかな仕分けを済ませていたのである。あとは今持ち寄った各自の袋にあるものを再度分ければいい。
 「やるじゃん」
 「グッジョブって言ってよ」
 小梅は少年をちょっと見直したようだ。娘二人を憂う必要がなくなったためか、いつしかうたた寝気味だった石島母は、皆がワイワイやり出したので、目が覚めた。
 「あ、ママ。こっち来て見てみぃ」
 長女に促されるまま、干潟が見下ろせる場所へ。
 「まぁ!」
 ここからではゴミゴミした湾奥は見えないので、今はとりあえず見違えるような光景が広がる。ここだけ見る限りは正にプチビーチである。母の気が干潟に行っている間、娘たちは経験者らしく、要領よく飲料容器の分類を進める。冬木はプラスチック製と発泡スチレン製の別がつかないらしく、南実に教えを請いながら静々と作業している。分類が終わったところから、櫻と舞恵が手分けして計数を始める。櫻はおなじみのカウンタでカチカチやっているが、相方は目をパチパチ、である。さすがのルフロンも今回の目計算にはご苦労されているようで、そのパチパチは数えるための筈だが、お疲れの瞬(まばた)きも混ざっているようだ。
 「奥宮さん、人差し指なしで数えられるの?」
 「えぇ、カウンター業務なんで」
 「何だかなぁ。それ言うなら、計算係のcounterでしょ。あ、でも窓口にいて、会計もやってたら、ダブルカウンターか」
 「counter @(at) counterね」 こういうやりとりをカウンターの応酬と言うらしい?

2007年12月18日火曜日

23. 非日常


 処暑も過ぎたし、さすがに猛暑日になることはなくなったが、まだまだ暑さが続く晩夏。大気もバランスをとらないとやってられなくなったか、空が暗くなるのに乗じて、黒々した雲がいつしか集い、空中打ち水大会が始まった。一般的には給料日の金曜夜、屋外で一杯やっている諸輩も多そうな時頃である。ビールの泡を消す程の勢いがありそうな驟雨。飛んだ冷や水になったに相違ない。荒川流域に暮らすhigata@の面々は、雨に降られることなく、それぞれの夜を過ごしていたが、断続的ながらも、時に激しさを増す雨に気もそぞろ。干潟最寄住民の千歳としては、その矢の如き雨粒を窓から眺め、「この調子で降り続くと、間違いなく水位は上がる。干潟もどうなることか...」と、プライベートビーチの心配が先に立つ。涼しくなって良さそうなものだが、この雨、ちょっと度が過ぎるきらいがある。強弱はあったものの、深夜にかけてなお止むことはなく、道路の一部が冠水するほどの降りようとなった。

 翌、八月最後の土曜日の朝。千歳は、双眼鏡やらデジカメやらをバッグに放り込んで、あわただしく外に出る。堤防がぬかるんでいる可能性はあったが、とにかく自転車で走り出した。荒川本流が視野に入る。彼は目を疑い、そして言葉を失った。
 向かって左方向、いつもの橋の脚に付されている水位を示す表示に対して、三から四の間を川が洗っている。いわゆる大潮の時でも二前後なので、明らかな増水である。そしてひと目でわかる濁流。曇りがちな空から時に太陽が顔を覗かす午前八時。橋の中央から流れを追ってみることにした。
 「あぁ、漂流ゴミが...」 昨夕の雨は、中流や上流にも降り注いだようで、様々な物体を運んでいる。枝葉や木片の塊が列を成しながら、蛇行しながら、流れる。それらに混じって、ペットボトル、空き缶、食品トレイ、発泡スチロール片といった定番ゴミの数々。よくよく見れば、サッカーボール、塗料缶、灯油を入れるポリタンク... 浮遊しやすいものが漂流するのはわかるが、重量がありそうな品々まで押し流されているから壮絶。一例としては、一升瓶、タイヤ、トタンの扉、といったところか。双眼鏡なしでも、こうした類は判別がつく。細々したものはさすがに肉眼では識別できないが、おそらく夥(おびただ)しい量が流れに乗っているものと思われる。「干潟でキャッチできればまだいい方、ということか」 デジカメは連写モード。ブツクサやりながらも、撮りまくっている。そこへクリーンアップスタイル風の娘さんがやって来て、停車した。いつものRSB(リバーサイドバイク)だが、今朝は徐行運転である。
 「隅田さん、だったり?」
 「おや、石島さん。お早う」
 「これって、ヤバくないですか。何かいろいろ流れちゃってるしぃ」
 千歳がここにいるのがごく当たり前のように、初音は飄然と話を始める。アラウンドサーティー女性との接し方は何とかなってきた千歳だったが、ティーンのお嬢さんとはどう会話したらいいのやら。撮影は中断、プチ苦悩状態に陥る。
 「てゆーか、どうしてここに?」 とりあえず、ティーン口調に合わせてみる。
 「昨夜(ゆうべ)って、チョー雨降ってたじゃないですか。こりゃ、洪水になるぞいって」

(参考情報→増水時の漂流ゴミ

 橋には他にも濁流を見守る観衆がいたが、男女二人して、というのは彼等くらいである。この橋では様々な男女が共に歩いたり、またはすれ違ったり、時には離れて行ったり、多様なシーンが繰り広げられている。今日の千歳は、橋でバッタリのパターンだが、隣にいるのは櫻ではなく、ひと回り違いのお嬢さん。だが、姉という点では同じである。櫻も昔はこんな感じだったんだろうか、と目の前の現実からちょっと離れてみたりする。
 眼下では、畳と茣蓙(ゴザ)が寄り添うように漂っている。有り得ないゴミのような気がするが、この流れを見ていると、不思議な気がしない。それがまた不思議である。非日常感覚に捉われている千歳なのだが、「今日の天気はどうなんだろ。また土砂降りとか?」 初音にとってはまたとない良好な質問が口を突いて出た。
 「今日はこの後、雲は晴れ、気温も上がります。ちなみに今は...」
 某お天気情報番組特製のデジタル温度計を取り出すと、「二十八度 マジ?」という塩梅。
 「何かお天気キャスターみたいだね」
 「えぇ、ちっとは勉強してるんで」
 太陽が少しは出ている分、初音の機嫌は悪くない。「雨だと不機嫌だったりして?」と千歳の勘が働く。そう、天候に気分が左右されるキャスターというのもアリなのである。

 撮影を再開しようとデジカメを構えると、堤防下の道路をバイクが一台走り行くのが見えた。双眼鏡を使わないと判然(ハッキリ)とはわからないが、おそらく干潟は水没中だろう。とにかくその干潟がある場所に向かっているのは間違いない。
 「あれきっと、掃部(かもん)さんだ。行ってみよう」
 「あ、ハイ」
 スローな千歳に対し、ここぞで速さが出る初音。自転車のタイプが違うとは言え、ちょっと差が開きすぎたか。
 「隅田さん、遅いスよ」
 「ハハ、三十代になるとダメだねぇ」
 もともと遅いのを誤魔化している。今は三十ちょうど、年甲斐のない千歳であった。
 道路が冠水するくらいだから、グランドも同等かそれ以上である。水の捌(は)けはどうなんだろう。浸み通った水が崖地からチョロチョロ湧き出ていたのは前回確認済みだが、この大水じゃ出口を塞がれたも同じ、捌けようがない。そんな水捌けを心配する人物がすでに先に到着していて、今は掃部公と問答している。
 「石島さんよぉ、非番とは言え、ここが現場だろ。グランドの心配より、川の心配が先でねぇの?」
 「治水事業のおかげでこんなもんで済んでる訳ですよ。これでも一応、様子を見に来て、大丈夫そうだったから、グランドをチェックしてるんで」
 「大丈夫とか言って、どうせ今だけだろ。そのうちこれじゃ危ねぇとか言い出す目算さ。余計なことしたら承知しねぇぞ」
 水を撥ねながら、自転車が二台現われた。先に着いた初音は目を丸くして、一喝!
 「何だ、親父ぃ。家族ほったらかして、こんなとこでチョロチョロと」
 これには当の親父さんは勿論、千歳も清も吃驚(びっくり)である。
 「あちゃー、石島の娘さんだったか。この前、小松のお嬢さんが言ってた通りだ」
 「お前こそ、何でここに? 勉強しなくていいのか」
 「川が心配だから見に来たのさ。そっちはどうせ、試合ができるかどうか、とか、そんなとこっしょ?」
 「何だ、娘さんの方がよほど河川事務所向きじゃねぇか」
 千歳は再び非日常状態になっていて、三人のやりとりを黙って聞いているばかり。掃部先生が招き寄せてくれなければ、時と川の流れるまま、だったかも知れない。
 「この青年は、ここのクリーンアップの発起人さんだ。石島、会ったことあんだろ?」
 「隅田川の隅田、千歳空港の千歳、隅田千歳と言います。初めまして、ですかね?」
 国土交通省関係者に対する挨拶だからと言う訳ではないが、川と空港を引用するあたり、さすがである。親父はそれが気に入ったらしく、
 「やぁ、何度か見かけてはいましたが、貴君が発起人とは。石島、湊です」
 と丁重な応対ぶり。
 「初音さんにはお店で、小梅さんにはこの干潟でお世話になってます。でも、干潟...」
 干潟と言ってはみたものの、案の定、すっかり水没してしまって、示しようがない。
 「ハハ、正にしがたねぇ、だな。上流からの土砂が運良く堆積すりゃ、しろくなると思うけどな」
 「え、白く?」
 「だから、し、ひ...」
 「広くなるんでしょ。先生」
 父vs長女のバトルが続きそうな雲行きではあったが、今はひとまず「水入り」。親子水入らず、とは言うものの、そうはいかないのが石島親子。父は長女の意外な人脈に驚きを隠せない。「掃部さんと初音がつるんだら... ヤバそうだなこりゃ」 川の心配が先でしょうに。
 荒川本流は濁々としていて、ヨシの浄化作用も無力に映る。それでも、カニの巣穴の上部に群生しているヨシは、背伸びするように己の上半分を気丈に出していて、存在を顕示するかのよう。ここのヨシ群は即ち、干潟の湾曲地形の一部も示すことになる。そのカーブが漂流ゴミをキャッチする構造になる訳だが、川面を見る限りでは目立ったゴミはかかっていない。ボード状の発泡スチロールが数枚、ペットボトルが数本、そのヨシ群にブロックされている程度である。すると、ここぞとばかりに、珍品が流れ着いてきた。
 どこかの工事現場から浚(さら)われて来たような特殊な工具や緩衝材、そして、
 「『不法投棄禁止 建設省』だとさ。手前がゴミになってんじゃ、世話ねぇな」
 薄ぺらな錆びた看板が引っかかった。やや遠くではあったが、それは清でもハッキリ読み取ることができたのである。
 「余計な工事に、余計な看板てか」
 「さすがにあそこじゃ回収できませんね。面目ない」
 話によると、これだけの水位でも、四メートルよりは下なので「レベル1」どまり、水防団が待機する段階に当たるとのこと。掃部公にも娘にも頭が上がらない石島氏だったが、ここは現場担当者として面目を保ちたいところ。
 「九十九年は、戦後三番目、六・三メートル(岩淵水門上)を記録。その時ほどじゃ、ありません」とは言っても、荒川畏るべし、には違いない。甘く見ては不可(いけ)ない。
 多少水位は下がったようだが、それでもなお川の水の一部が上陸していて、とても大丈夫なようには見受けられない。さすがにグランド外野までは浸食していないが、特大ホームランが出れば、あっさり着水&川流れ、だろう。ともあれ、コンディションは最悪。娘の予報を信じて、お天道様に水分の蒸発を促してもらうほかあるまい。
 「ま、こういうのって日頃の行いだから。今日は諦めて、たまには家事とか家族サービスとかしたら?」
 娘の説教が続く間、清は青年をつかまえて、
 「隅田君さ、今度は九月二日だろ。俺はちょっと出て来れねぇけど、ここがどんな具合になったか、あとで教えてくれねぇかな」
 「えぇ、お易い御用です。でも、清さん、連絡のとりようが...」
 「じゃ、例のセンターに寄るよ。あそこ夜も開いてるもんな。そうさな、九月最初の火曜とか」
 「そうそう、八月の定例クリーンアップで、水溶性の紙燈籠てのを拾ったんですよ。その鑑定、お願いできますか?」
 「ナヌ! 灯篭?」
 これで話はまとまった。チーフに照会しつつ、メーリングリストで呼びかければOKである。初音はメーリングリストに入っていないので、今、知らせる。九月二日についても尋ねると、「小梅と二人で来ます。あの子も心配してたから」 もともと参加する意向だったようだ。そして、「あ、そうだ」 長女は再び父親に噛み付く。
 千歳はさすがに恐々としてきて、「初音嬢くらいの娘は皆あんな調子なのか、それとも他に何か理由があるのか...」 昔の櫻はああじゃないよなぁ、とかまた勝手に推測しながら、親子のやりとりを見守る。
 「あのさ、ここからゴミが大量に出てきたら、事務所も何か手伝ってよ。そしたら少しは見直したげる」
 「ほぉ、初音が奉仕活動とはね。分別してグランドの詰所の脇に置いといてくれりゃ、翌日引き取るさ」
 「奉仕活動とは違うと思う。うまく言えないけど、社会勉強に近いな。じゃ、粗大ゴミ級もOK?」
 「ケガしないように、な」
 ちょっとイイ感じになったところで、先生がクレームを入れる。場の空気を読み損なったか。
 「おぅ、さっきの話の続きだ。もし、ここの崖とかが崩れかけてたとしても、下手な工事はするんじゃねぇぞ。自然が自力回復できなそうな場合に限って、天然・地場の材料とかを使って最低限のメンテをする、ってことだ」
 「はいはい。そんなに予算も付かないから、心配無用ですよ」
 「何言ってんだ。必要な予算はちゃんと付けんだよ」
 「そうだそうだ!」
 石島としては、干潟の安全面がちょっと気になるところではあった。娘二人がここに出入していることを知ったとなれば、親心(?)からしても尚更である。この際しっかり調査して、安全面を確保しつつ、ついでに親水型の水辺としてうまく整備すれば、憩いの場にもなるだろう、などと踏んでいる。性悪な人物では決してないのだが、どうもこの辺が役人気質というか、掃部公が警句を発する所以である。

 千歳はひととおりの撮影を終え、深呼吸。モノログ史上初となる、ひと月三本目のネタがこれで上がることになる。モノログを開設してからというもの、少しずつではあるがアクセス数は増え、記事の掲載責任というものも重くなってきている折り、載せるなら、より熟慮した上で、と思う。それには現場で、ある程度記事の構想を練るのがいいようだ。
 お天気お姉さんの言った通り、雲が晴れてきた。九時を回り、温度計は早くも三十度を超す辺りを窺っている。河川事務所の課長さんは、しばらく付近を巡回すると言う。同じく掃部公も巡回モードだが、むしろこの課長殿の動きを監視するのが目的のようだ。五カンのうちの一つ「監」の出番である。父親としては、娘の帰りが気がかりではあったが、千歳が途中まで一緒、というので喜々として送り出した。何かカン違いされている気がしなくもないが、まぁいいか。
 「そうそう、この間はパンケーキ、ありがとうございました。美味しかったよ」
 「そりゃどうも。たまたまです」
 「この後はお店?」
 「そうスね。でもまだ早いから、お客さん来るまでは修行でもします」
 父親との一見不仲な感じの理由などについて小インタビューしてみたい気持ちもあったが、さすがに躊躇われた。逆に初音が千歳に問う。
 「隅田さんは?」
 「対岸の図書館かな」
 「その二階、っしょ?」
 図星なのであった。
 さて、いつもの初音ならこの辺でまたダーッと去って行ってしまいそうだが、ちょっと違っていた。
 「じゃ、櫻さんによろしくお伝えください」
 と言い残し、ごく普通に手を振っているではないか。ギャップが激しいというか、「妹さんが顔色窺うってのわかる気がする」と独り言。
 ここは橋の手前、右に進んで川を越えれば櫻の職場。それは非日常から日常に戻ることを意味する。自分でもよくわからないが、心安らいできたのがその証左。本流では相変わらず、漂流ゴミのオンパレードが続いていたが、むしろ小気味よく見える。足取りは軽く、気付いたら図書館に着いていた。が、しかし、
 「いけね。センター開くの十時だった!」(開くの十時云々てどこかで聞いたような)

 図書館には、上階の開館時間が近づくのをドキドキしながら待っている青年(いや三十男)がいた。彼も彼女もケータイを持っていないので、お互い連絡がとれない。つまり、こういう時は不意打ちのようになってしまうのである。何も知らない櫻は、弥生とともにセンターへ。
 「で、次はいつお会いするんですか?」
 「さぁね。結構クールなのよね、千さんて。いついらっしゃるのやら?」
 「クールでいそがしい人をクールビズって言うんですよ。きっと」
 この時、階下でクシャミをする人物がいたかどうかは定かではない。
 「何かまたピピって来るんですけど、気のせいかしら」
 「ケータイってこういう時に使うのね。でもなぁ」
 十時を回った。階下からノロノロした足音が聞こえてきたと思ったら、
 「あ、千さんだ!」
 「エッ!」
 「二人にはケータイ要りませんね。ホホ」
 本日の来館者第一号が現われた。
 「おは、いや、こんにちは。あ、桑川さん」
 「いらっしゃいませ。今日はどうされました?」
 「聞くまでもないでしょが。櫻さんは?」
 「あぁ、八月病が再発しちゃって、お休みですよ」
 カウンターの影で笑いをこらえている女性が一人。今度こそビックリさせてやろう、と構えている。
 「櫻さんてね、かくれんぼ好きなんだよ、ね?」
 「あ...」
 不意に現われただけでもシャクなのに、小作戦まで見破られてしまっては、憎さ倍増である。「何よ、さんざ待たせといて、さ」 初音みたいな口調になっている。なかなか非日常から抜け出せない。
 「昨晩の雨、そっちは大丈夫でしたか?」
 「早番だったんで、何とか。チーフは大変だったでしょうけど、昨日はたまたまクルマだったから...」
 「その矢ノ倉さん、今日は?」
 「野菜畑がヤバイからシフトするって、連絡がありました。午後からじゃないスか?」
 弥生はツッコミというか、冷やかしを入れたくてウズウズしていたが、「大人をからかうんじゃありません」てのを思い出し、しばらく見守ることにした。
 「八時頃、荒川を見て来たら、とんでもないことになってて、それでね」
 デジカメからメモリを取り出すと、要領よくPCのスロットへ。PC画面は河川監視カメラのモニターに早変わり。スライドショー形式で流していくと、コマ送り映像を見ているかのようである。
 「えー? 信じらんない」
 「台風の時も川の氾濫がどうこうって中継で映るけど、それに近いかも」
 「あたし、行ってみる。千さん、自転車でしょ。貸して!」
 弥生は二人のおじゃまにならないように、という訳ではなかったが、なかなか的を得た行動に出た。これも学部の勉強のうち、いや今日は仕事のうち、かも知れない。

 「で、文花さんに何かご用?」
 「干潟で掃部さんと会ったんだ。九月最初の火曜にまた情報交換しようってことになって、それならセンターで、って訳。ここのご都合とかどうでしょうか?」
 「あ、そう。大丈夫だと思いますよ。チーフが来たら、伝えます。higata@に連絡してもらえばいいですよね」
 どうもご機嫌斜めの櫻である。日常と非日常の区別が愈々(いよいよ)つかなくなってきた。千歳は取り繕い方を模索しながらなので、ぎこちない。
 「ところで櫻さん、日焼けしちゃいましたか?」
 「え、ヤダ。そんなに目立ちます?」
 「いや、何かイイ感じだな、って思って」
 ポロシャツにガウチョパンツというスタイル。肌が出ているので、目に付いてしまうのである。おめかしして来なかった櫻ではあるが、普段着でも十分通用するようだ。モデルの姉、というだけのことはある。
 「まぁ、どこ見てんだか。赤くなっちゃったのは、千歳さんが顔見せないから、ヤキモキして、それでよ」
 「もしかして、減点になっちゃいました?」
 「知ーらない」
 三十どうしのご両人はやっぱり仲良しさんなのであった。

 千歳はメモリを挿し込んだまま、早速モノログのアップを始める。データベース情報をweb仕様で掲載するための例のプログラムの一件もある。弥生が戻ってきたら、進捗状況など話し合うとしよう。口実のような感じもあるが、好機を逃さないのが千歳流、プロセスマネジメントなのである。PCをパタパタやりながら待機する彼を見ながら、彼女は見透かしたように独り言一つ。「私に会いに来た、って何で言えないんだろう。フフ」
 図書館は夏休みの宿題にスパートをかける子どもたちで賑わう。その賑わいの一部はセンターにも流れ込んできた。「フリースペースに案内しますか」 席を立つ櫻。「皆さん、いらっしゃい。こちらへどうぞ!」 接客はお手のものだが、最近では子どもの相手も馴れてきたようだ。小梅と六月の自発的環境教育にヒントを得て、こども向けの環境情報コーナーをそのスペースの一角に作ってみたところ、これがなかなか好評だとか。だが、単に情報を置いてあるだけよりは相談員がいた方が何かと心強い。「来週は小梅さんに臨時で手伝ってもらおっかな。弥生・初音ラインに頼もう」 いいもの、ならぬ「いいこと」を思いついたようである。千歳は賑わいとは離れた場所にいるが、時折フリースペースの方を見遣って、驚いたような、怪訝そうな、何とも不可解な顔をしている。ふとカウンターにいる櫻と目が合って、都度表情を正す。作業をしているのか思ったら、そうではなかった。彼はこっそり彼女にメールを打っていたのである。その場で話をすれば良さそうなものだが、あくまで彼女が勤務中、ということに配慮してのことらしい。「18きっぷをキープしてあります。有効期間内でご都合つく日ありますか?」 詰まるところ、会う約束を先に作っておけば櫻をヤキモキさせずに済むだろう、そんな配慮もあるようだ。危うく「18きっぷが余ってまして...」と打つところだったが、彼は見事に書き換えた。進歩したものである。 そんな訳で、このお二人さんが再会するのは、次の定期クリーンアップ、九月二日ということになる。(まるまる一週間、顔を見せない彼ってやっぱりクール?)

22. ある晩夏の日に


 千歳の呼びかけに応じて、業平からの自己紹介メールがhigata@に流れたのはその翌日。ちゃっかり自営ビジネスの宣伝つきである。よせばいいのに、アフィリエイト募集中なんてことまで出ている。こういうのが来ると、次は弥生が反応しそうだったが、その前に櫻からの先制メールが入って来た。「...管理人と相談して、皆さんに自己紹介をお願いすることになりました。次は小松さん、いかがでしょう?(行き違いがあったら、ご容赦ください)」 いつものことながら、簡潔かつ丁寧な一筆である。櫻としてはこれでひと安心のようだったが、燃える想いの南実には、この程度の水を向けられたくらいでは鎮静することはない。むしろ、逆に火が点いてしまったようだ。誕生日から二週間後、職場からhigata@に一本を投じる。ここしばらく仕事から離れていたこと、メーリングリストも今週からやっと見出したこと、大学院を出てからはずっと今の機関にいること、などが綴られ、ここまでは無難な感じ。だが、末尾に来てそれが転じる。導火線の如き一文が添えられていた。「隅田さま、八月七日はありがとうございました」 一読する限りでは、単なる御礼なのだが、千歳と櫻のもどかしい関係性を知るメンバーが多いこのメーリングリストにおいて、この発信は並々ならぬインパクトを持っていた。その一文があまりに端的なので、憶測を呼ぶという点でも効果大。higata@上のルールには、二人の関係をどうこうしてはならぬ、なんてことは決めていない。だが、このように横槍を入れるのにメーリングリストが使われる、てのは想定外であった。小松南実、二十九歳。二十代最後の一年を迎えた女性というのはかくも手強いものなのか。
 幸い、このメールは櫻の職場アドレスには届かないようになっている。だが、ドラマの仕掛人(演出家か)のあの女性のもとにはしっかり着いていた。
 「櫻さん、八月七日の夜って何してた?」
 「二週間前ですよね。部屋でボーとしてたら、妹に説教されたのを覚えてます。でも、その日がどうかしたんですか?」
 「隅田さんとは一緒じゃなかったのね」
 「えぇ。あ、思い出した。千歳さん、今日来るんだった♪」
 文花の問いかけが少し気になるところだったが、今はすっかり舞い上がっている。
 「まぁ、あの調子なんだから、私の出る幕じゃないわね」
 焚き付けるのが本分の演出家としては、らしからぬご発言である。七日の夜は一人じゃなかったことを南実はその日のうちに自己申告している。そして、その時のお相手の名前が今回公表された。文花の予感は見事的中していたのである。こうなると誰かに言わずにはいられない。だが、いくら今そこにいるからと言って、櫻に告げていいものか。いいはずがない。二女も三女も一女にとっては大事な存在である。大事な二人を争わせる訳には... かくして、クシャミを我慢している時と同じような、何とも不可思議な顔になっている。
 「あぁ、ウズウズする。叫びたいよ、私ゃ」
 センターの責任者たる人物、器量と度量が求められる。文花は一応兼備しているようである。

 蒼葉はケータイで南実からのメールを受信。お騒がせの一文を見つけて、蒼白している最中だった。長文メールだと、ここまで来るのに時間を要する。ケータイメールだと読むのも何だし、発信するにも手間がかかってしまう。もどかしさが募る。
 「この小松さんて何者なんだろ。とにかく千さんに真相を確認しなきゃ。あと、PC用のメールアドレスもこの際だから作ってもらお」
 蒼葉からhigata@宛に発信がされるのはしばらく先になりそう? いやどうだろう。

 櫻は今のところあまり浮き沈みなく、穏やかに過ごしている。ちょっぴりドキドキしてきたのは十八時になってからである。早番の文花は櫻を気遣ってか、定刻通りセンターを後にする。外に出ると、噂の人物がちょうど到着したところだった。この間のバーベキュー場偵察で、自身もバーベキュー状態になってしまった千歳君である。その日は気付かなかったが、日が経つにつれ、ヒリヒリしてきて自分でも痛々しい。
 「あら、隅田さん、ひと月ぶりね。また灼けた?」
 「どうも荒川は日光浴に適しているようで」
 「ま、色男ってのはそういうもんよ」
 「あの、櫻さんいらっしゃいますよね?」
 「待ちくたびれて、机で伏せてるわ。早く行ってあげて」
 千歳は約束通り、スチロール箱ごと紙燈籠を持って来ていた。すれ違いざま、チーフが呼び止める。
 「その箱、何? 残暑見舞い?」
 「えぇ、活きのいいヤツ(魚)を持って来ました。ご覧になります?」
 「ヤダ、遠慮しとく。でも、今の言い種(ぐさ)、誰かに似てる。そう、櫻さんそっくり!」
 「あ、矢ノ倉さんもそのうち自己紹介メール、お願いしますね。じゃ」
 引き止めたついでである。この際だから、お節介しておこう。
 「隅田さん、そのメールのことだけど、ちょっといい?」
 「あ、はい」
 「まだ見てないかも知れないけど、今日南実ちゃんから発信があってね。八月七日のこと、書いてあったんだけど...」
 文面について軽く説明する文花。千歳はさほど驚くこともなく、フンフンと頷くばかり。
 「そうですか。ま、あの日はレジンペレットを渡すだけ、と思ってお会いしたら、食事に誘われちゃって。正直、焦りました」
 「まぁ、そんなことだろうと思ったわ。櫻さんまだメール見てないみたいだから、先に事情を話しておいた方がいいかもね。こういうのって、後でわかるとショックだから」
 文花の恋愛経験が如何ほどのものかは不明だが、人生において数年は先輩なので、こういう助言も出るのだろう。これはお節介ではなく、千歳にとって実に有意義な示唆となった。
 「ありがとうございます。箱の中味は御礼代わりってことでご査収ください」
 「はいはい」
 文花はその場では受け流したが、ふと立ち止まる。「ご査収? 魚を?」

 千歳の足音が近づく。櫻のドキドキが高まってきた。カウンターの影に隠れてるんだから、なおさらである。
 「あれ? 櫻さん...」
 誰もいないセンターだが、照明は点いているし、空調も稼動中。櫻は出るに出られなくなっている。
 「接客担当の千住 櫻さん、いらっしゃいませんか? ご不在なら帰りますよ」
 「あー、ごめんなさい。ここです」
 カウンターから静々と立ち上がってきた。
 「いらっしゃいませ」
 「かくれんぼですか?」
 「いえ、眼鏡を落としちゃって。捜してたんです」
 本当はビックリさせようと隠れていたのだが、ここは失敗。言い訳としてはもっともなような、そうでないような。ドキドキはまだ続いている。
 「持って来ましたよ。お土産...ってほどでもないか」
 フタを開けると、例の紙燈籠が寝そべっている。さらに劣化が進んだ感じである。
 「はぁ、こんな風に溶けちゃうんですか」
 「拾った当初は、ちゃんと筒状になってたんですけどね。乾燥させなかったもんだから」
 「ハハ、今の私みたい」
 「へ?」
 要するに緊張が解けたことと、誰かさんといるとこんな感じになってしまう、ということを言いたかったようだ。だが、センターにいる間はどうしても敬語会話になってしまう。これは緊張云々とは別の話。忠実に接客している証しなのである。
 「いえ、何でもございません。じゃ、そのまま窓際に置いといてください。明日から日光浴させます」
 七夕の時に櫻が用意した水溶性短冊も、どうやら同じメーカーのものらしかった。
 「あの感じだと、あまり環境に良くなさそう。溶けて水に流れちゃえばいい、てもんじゃないんですね」
 「でも、どの程度の影響があるんでしょう?」
 「パックテストで調べてみましょうかね。文花さんにまた聞いてみます」
 「短冊ならOKだと思いますけど、ね」
 「雨に流れたか、風に溶けたか。川に迷惑がかからなかったのなら、いいですが。でも、私の願い、一つは叶いましたよ」
 さっきから、カウンターで対面する形で語り合っている。センターでの接客スタイルとしてはこれでいいのかも知れないが、この二人、今は彼氏と彼女のご関係ではなかったか。
 今度は千歳がドキドキする番が来た。
 「あの、小松さんからのメールって、今日ご覧になりました?」
 「いえ、まだ。自己紹介メール、ですよね」
 「僕もまだ見てないんで何とも言えないんですけど、櫻さんに先に話をしておこうと思って」
 八月七日は、南実と会っていたこと、すぐに帰るつもりだったが断り損ねて会食することになったこと... 文花に話したのと同じように事情を説明する。そして、
 「意中の人は櫻さんだって、その時、キッパリ申し上げました」
 「え? 二週間前にそんな風に?」
 「櫻さんがどう思ってるか、は別にして、とにかく正直なところを伝えたんです」
 「つまり、小松さんを振っちゃったんですね。彼女、モテ系なのに、あーぁ」
 櫻はすまし顔で、我関せずのような口ぶり。千歳は思いがけないリアクションに焦りを募らす。そう言えば、櫻からちゃんと返事を聞いてなかったような...
 「私が千さんを振っちゃったら、どうするの?」
 「紙燈籠みたいになっちゃうでしょうね」
 「ウソウソ。この間のお返しよ。フフフ」
 千歳は本当にフニャフニャになっていた。極度に緊張していたところ、一気に解放されたのだから仕方ない。櫻は笑いをこらえつつも、真顔で続ける。
 「正直に話してもらって、櫻はうれしうございます。私、千歳さんを信じます。でもちょっと悔しい」
 千歳の腕はよく灼けていて、皮が一部剥がれかけていた。その皮をペリペリとやり出したのだから、彼が面食らったのは言うに及ばず。四月に初めて会った時の櫻さんの印象は「面白い人だなぁ」だった。そんなことを今更ながら思い返してみる。
 一応、櫻はまだ勤務中。千歳は帰り支度を始める。だが、彼女は彼をそう易々とは帰させない。
 「八月七日って小松さんの誕生日だったんですってね。文花さん、お祝いがどうのって。今思い出しました」
 「そう、だったんだ...」
 千歳は少し心が動いた。南実の性格なら、自分の誕生日を堂々と明らかにしそうなものである。それをあえて伏せていた、というのが実に健気というか、意外な一面を見た気がしたのだ。
 「あら、本人言ってなかったの。まぁ、千さん善いことしたじゃない。一日一善、よね」
 櫻はすっかり余裕の構え。千歳は引っかかるものがあったが、気を取り直して、
 「そう言えば、櫻さんの誕生日っていつですか? 三月?」
 「千歳さんと初めて会った日は、二十代最後の週の初日でした。その五日後が三十路最初の日」
 「それはそれは。お祝いしそこなっちゃいましたね。失礼しました」
 「いいえ。二十代のうちに出逢えてよかったです。それで十分」
 改めて櫻への想いを認識する千歳。櫻と来れば「咲く」だが「萌え」も有り得る。境地としては蒼葉の時よりもピッタリ来るようだ。そんな彼の萌える想いを察してか、彼女ははぐらかすようにアナウンスを入れる。
 「今日はちょっとトーンダウンしちゃったけど、プラス千点かな。ちなみに十万点になりますと、いいものを進呈します。お楽しみに」
 櫻得意の「いいもの」は応用範囲が広い。楽しみではあるが、いったいいつの間にそんな査定が始まってたんだか。
 「私の場合、一日一千(いちせん)なんです。四月から七月までは七回お会いしたんで、七千点。で、一昨日からは毎日千点ずつにしました。今日で一万点ですよ」
 千歳はすっかり帰る気が失せている。見計らったように櫻はさらに一言。
 「今日この後、引き続き当館をご利用いただくと、さらに千点、どう?」
 「櫻さんには敵わないなぁ。ま、女性一人残して帰ったら、大幅減点になりそうだから、ね」
 いざという時は非常ベルを鳴らせば、一階の図書館から職員が駆けつけてくれることになっているのだが、彼氏に傍にいてもらえるなら、それに越したことはない。

 自己紹介メールをメーリングリストに流すのもいいが、この二人に限っては、お互いにちゃんと自己紹介しあった方がいいのではないか。それに気付いたご両人は、どちらからともなく、紹介を始め、気が付くと十九時を回っていた。
 「いけない、仕事しなきゃ」
 「じゃ、僕はPC借りて、作業してます」
 このタイミングで良かったのかどうなのか。二人が配置に戻った時、階下から早い足音が近づいて来た。確かに女性一人じゃ心細い。
 「櫻姉、いる?」
 駆け込んできたのは姉想いの妹である。
 「あら蒼葉、どしたの?」
 「もう、千さんたらひどいじゃない。八月七日のこと、知ってた?」
 「まぁまぁ。あちらにいらっしゃるから、お気が済むまでどーぞ!」
 「エッ? あ、千さん...」
 千歳はちょうどwebメールをチェックしていたところで、蒼葉からの一件(詰問メール)を正に開くところだった。本人が来れば話は早いが、メールのやりとりで済むなら、その方が心理的には楽とも言える。だが、この一件はそういう訳にはいかない。
 「蒼葉さん、こんばんは。五日はお世話様でした」
 櫻に続き、千歳も悠然としているので、かえって不審に思う蒼葉。今日の装いは、七日の南実によく似ている。それが彼を少しこわばらせるのだが、とにかく話を進めないといけない。今日はこれで三度目である。メーリングリストで何かあった時のフォローは、このように直截(ちょくせつ)的な形でも行われる。管理人はツライ。
 「なぁんだ、そういうことだったの」
 「蒼葉さんから話を聞いてたから、勇気を出して言い切ることができたんだ。感謝してます」(と言いながらも、内心はちょっと複雑)
 「あ、ハハ。私、言い過ぎちゃったかな、って。でも、櫻姉、本当に元気になりました。逆八月病って感じ」
 円卓での座談は、こうして丸く収まった。続いて、蒼葉からのご要請の件に移る。ここにPCが置いてあるというのは実に好都合であった。
 「じゃ、aoba@でいいですか?」
 「いえ、aoba1010@がいいです」
 「はぁ、千と十?」
 「千住蒼葉ですから。1010。語呂合わせです」
 「これ、エルオーエルオー(lolo)と間違えないようにしないと」
 「私のこと知ってる人は間違えないと思うんで。迷惑メール対策にもなるし」
 こうして、蒼葉のPC用アドレスは即日設定され、メーリングリストにもこのアドレスで登録し直し、となった。
 「このwebメールを使えば、今すぐにでも送受信できますよ」
 「へぇ、さすがは千さん。姉さんの彼氏にしとくのもったいなかったりして」
 「何か言ったぁ?」
 「いいえ。ちゃんと姉さんの長所と短所をお伝えしてるとこですから」
 「余計なこと喋ったら承知しないわよ!」
 こんな具合で、晩夏の夜は更けていく。三人寄れば何とやら、か。
 「良くも悪くも、あのノリが姉さんなんです」

 櫻は彼と食事でも、と考えていたようだが、千歳の方はもともと早く帰るつもりだったから、案外素っ気ない。「もしかして、私、じゃましちゃった?」と蒼葉が気にかけるのももっともである。
 「あ、千歳さん、今度は曲のこと、相談させてくださいね」
 「そうだった。忘れてた」
 櫻は弁えたもので、今日は彼の想いなり生い立ちなり、いろいろと知ることができたので、これで十分と思い直していた。一昨日同様、自転車で反対側へ走り始める千歳。前回と違うのは、あわててその場から抜け出さずに済んでいることだろうか。これは櫻自身が想いを上手にコントロールできたことが大きいとも言える。妹の手前、というのもあったかも知れない。蒼葉はおじゃまどころか、実にさりげなく二人の想いを調整する役を担っているのであった。

 「姉さん、曲って?」
 「へへ、二人だけの秘密♪」
 「まぁ、お熱いこと。暑いのは残暑だけにしてほしいワ」 その一曲を口ずさむ櫻。サビのところは、「届けたい・・・」とか歌っている。はてさて?

2007年12月11日火曜日

20. 想い重なる立秋の週

八月の巻(おまけ)

――― 八月六日 ―――

 送られてきたプラスチック粒の画像を眺めつつ、珍しく浮かない顔をしている女性がいる。立秋の前日にはとうとう二十代最後の年令になる、というのが一因だが、誕生日にまた一人、というのがどうにも居たたまれず、今ひとつ元気がない。「出張パスってでも、行くんだったなぁ」 粒々を数えながら、ブツブツやっている。この際、メーリングリスト参加OKの返信と合わせて、直球をぶつけてみるか、と南実は思いを巡らすのであった。休み時間、職場からパタパタと返信する。その中にはこんな一文が紛れていた。「粒々の現物を引き取らせてください。八月七日、あの商業施設の近くに行く用事があります。夜って空いてますか?」
 千歳が大いにあわてたのは想像に難くない。この時点では櫻からの返事はまだ。当然のことながら、最新の櫻ブログも未見である。「まぁ、これをお渡しするだけなら...」 洗って乾燥させた粒やら小片を使用済み封筒に入れ直してサラサラ振っている。何ともお気楽な千さんであった。

――― 八月七日 ―――

 さすがに電動アシスト車を走らせる訳にも行かず、電車とバスを乗り継いでの参上である。何とか約束の十八時に間に合った。七夕からちょうど一カ月が経った今、その七夕飾りはとうになく、イベント広場は閑散としていた。そこに、リボンの付いたプルオーバーと長めのタイトスカートの女性が一人、落ち着かない様子で立っている。勝負服ともとれるが、あくまで通勤着の南実嬢なのであった。買い物客とはちょっと異なる装いなので、目立つことこの上ない。千歳はすぐに気付いたが、少々遅刻してしまった上、気後れも手伝って、遠巻きにしている。南実が時計を気にしているようなので、仕方なくトボトボとやって来て、自分で「スミマ千」と切り出す始末である。ヤレヤレ。
 強肩の南実は直球に加え、速球も投げてくる。軽く会釈するや否や、開口一番、「隅田さん、この店、どうですか? 私、おごりますから」と来た。広場に面したシーフードレストランが客を待ち受けている。「こんなはずじゃ...」 千歳は不承不承ではあったが、「ま、封筒だけ渡してお別れ、というのも無粋だし」と思い直したりして、とにかく葛藤を抱えたまま、席に着くことになった。
 どう注文したのかはよく覚えていない。ただ、シーフードというだけあって、貝柱やら小粒なイクラやら細かく切ったイカやらが入ったパスタが首尾よく出てきた。今日持って来たプラスチックの粒々と重なって見えてくるから困ったものである。ご丁寧にシソを刻んだのが盛ってあって、今度は人工芝の切片の如く映る。生き物が誤食してしまう、というのが妙にリアルに実感され、言葉を失う千歳。一方の南実はただ嬉々として、フォークをクルクル回しては、桜エビなんかを散らした和風パスタを頬張っている。何を話すでもなかったのだが、粒々の話が高じて、漂着ゴミを巡る最近の社会的な動き、人が立ち入れない場所(特に離島)でのゴミの惨状、さらには海洋法や関連法規の話題に至るまで、いつしか南実の独演場となっていた。

(参考情報→海ゴミ―拡大する地球環境汚染

 インタビュアーに徹していた千歳は心得たもので、この調子のままお開きになればそれはそれで、と踏んでいた。だが、ふと我に返る。外出直帰とは言え、南実がわざわざここに来て、こうした席を設けたからには何かあるのでは?と今更ながら感知したのである。南実は「講義しに来たんじゃないのにぃ」と同じく我を取り戻すと、化粧直しのためか、あわてて席を外した。テーブルには、当の商業施設系列の通販カタログが置かれている。待合せの間に手にしていたのだろうが、降って沸いたような一冊である。千歳は興味本位でパラパラと繰っていたが、晩夏ファッションの特集ページで手が止まった。「蒼葉さん?!」 一昨日は不覚にも萌えモードになっていたが、今はちょっと違う。その見事な着こなしに目を奪われつつも、何かを訴えるような視線の方に釘付けになっていたのである。「そうだ、櫻さんと会う約束...」 ファッションモデルの訴求力というのはただならぬものがある。
 唇には淡い紅色。それだけでも、掃部(かもん)先生と一戦を交えたあのお嬢さんとは思えない変身ぶりである。南実が静々と戻って来た。着席すると咳払い一つ。お互い緊張が走る。
 「あの、前からお聞きしたかったんですけど、千住さんとはおつきあいされてるんですか?」
 「櫻さんはどう思っているかわかりませんけど、僕はそのつもりです」
 「そうなんだ...」
 通販カタログのモデルさんが彼を後押ししたのかは定かでないが、心の準備ができていたこともあって、自分でも驚くほどキッパリと言ってのけた千歳。ストレートをあっさり打ち返したような応答である。だが、手強さで定評のある南実はこれで引き下がったりはしない。
 「ま、いいや。また干潟には顔出しますから。それとメーリングリスト、早く作ってくださいね」

 こじつけのようだが、八月七日は「花の日」だとか。スーパーはまだ開いているが、専門店街にあるフラワーショップはそろそろ閉店時刻。前を通りがかると、その記念日にちなんでか、綺麗な赤い花のミニポットが特売扱いで残っていて、客の足を止める。
 「あ、サルビア」
 「今日ご馳走になっちゃったんで、ささやかですが、これでお返しさせてもらえますか?」
 「それはお礼? それともお詫び、ですか?」
 「え、いや...」
 「どっちにしても、ありがとうございます。この花は私にとって特別なんで」
 祝ってもらう立場でありながら自分で食事代を払うは、胸ときめく言葉どころかプチ失恋のような台詞を聞く羽目になるは... 誕生日にしては冴えない展開ではあったが、宵を一人で過ごさずに済んだこと、そして思いがけず誕生花をプレゼントしてもらえたこと、この二つは大きかった。誕生日であることを申告すればまた違うストーリーになったかも知れないが、今日のところはこれでよしとしなければ。受け取った封筒の方はもともと口実のようなもの。下手するとその粒々が誕生日プレゼントになってしまうところを回避できたのだから万々歳である。期せずして千歳は、また違う場面でポイントを稼ぐことになった。が、それが面映かったか、「じゃ、僕はここで買い物してから帰るんで」といつものマイバッグを手に、そそくさと去って行く。南実は薄笑いを浮かべると一言、「今は隅田さんの片思いってことじゃん」 まだチャンスはなくはない。それがわかると何となく火が付く南実嬢であった。サルビアの花言葉、それは「燃える想い」である。

――― 八月八日 ―――

 静かな想いを温めつつ、されどなかなか返事もできず、逡巡するうちに立秋を迎えてしまった。今日からは残暑見舞いに切り替わる。情報誌の編集を進めている櫻だが、ネタがちゃんとある割には、普段よりもペースが遅い。まだ八月病が癒えないのか、否、八月十九日のことで頭がいっぱいなのである。今日も猛暑日になりそうな予感。チーフは見かねて「櫻さん、大丈夫? 暑さのせい?」と声をかける。
 「あ、すみません。打ち水のこと書いてたら、かえってボーッとしちゃって」
 「打ち水が必要なのは櫻さんね。かけたげよっか?」
 「私よりも、野菜畑の方を心配してあげてくださいよ」
 「ハハ、こりゃ失敬」
 蛇足ながら、八月八日はハゼの日だったりするが、ズバリ「ハハ」なので笑いの日でもあるそうな。そんなちょっと笑える昼下がり、インターン生が現れ、さらなる笑いを誘う。

(参考情報→八月八日

 「こんにちはぁ。もう溶けそう...」 いつもはチャキチャキしている弥生が言葉の通りフニャフニャになっている。スタッフ二名は笑いをこらえながら、声をそろえて「いらっしゃい」。この調子だといつもの弥生節は不発になりそうだが、「そうだ、櫻さん、メーリングリストの件!」と相変わらず鋭い切り込みよう。
 「まだ返事してないんだなぁ」
 「千さんきっと待ちくたびれてますよ。あ、今もピピって。千さんキターって感じ」
 「弥生ちゃんにはかなわないワ」
 ここでチーフが首を突っ込む。「メーリングリストって、隅田さんが呼びかけてる件?」
 「え、文花さんも」
 「あと、南実ちゃんもね」
 「そうなんだ... メーリングリストですもんね」
 誰が入る・入らないで参加の可否を決めるものでもないのだが、この話を聞いて、櫻は益々返事に悩むことになる。櫻を困らせないための発案だったのだが、どうもそうなっていない。千歳の想いもうまく届かないものである。
 「南実ちゃんで思い出した。メールしなきゃ」
 「どうかしたんですか?」 櫻にしては珍しく強い反応を示す。
 「あの娘、昨日が誕生日だったのよ。お祝いメールしそこなっちゃったから」
 いつものことながら、後輩思いの先輩なのであった。「あれで彼氏でもいれば、周りがいちいちお祝いメッセージを送る必要もないんでしょうけどね。きっと昨夕も一人よ」 自分のことはそっちのけ、まるで他人事である。
 チーフが私用メールを打っている間、櫻もあれこれ思案する。「てことは、自宅宛に小松さんからのメールも届くようになる... 何かドキドキしちゃうなぁ、でも」 先刻まではノラリクラリだったが、決然とした表情に一変する。弥生は再びピピと来たようだ。
 「データの送信先もメーリングリスト宛でいいですよね? 櫻さん」
 「え、デート?」
 「またまたぁ、トボけちゃって。誰とですか?」
 「フフ」 不敵な笑みがこぼれる。これまた蛇足ながら、二月二日はフフの日かと云うと、そうではない。櫻の浮き沈みは二月も八月も関係なし。日常茶飯事である。
 早番だった櫻は、女性二人をセンターに残して帰途を急ぐ。おなじみのセミは立秋など素知らぬ振りで賑やかに鳴く。「ちゃんと返事出すますよーだ。急かさないでよねっ」 いつもの櫻が戻って来た。

 「残念でした。今回は一人じゃなかったですよーだ」の一文の末尾には「あかんべー」の絵文字付き。小憎らしい後輩からのショートメールは夕刻になって届いた。「え、まさか」 文花は思いがけない返信に些か狼狽するも、「何だかドラマみたいになってきたわねぇ」と苦笑い。自分がその仕掛人であることがどうもわかっていない。やはり他人事のチーフであった。

 こうなってくると、櫻からの返事が早く着いたに越したことはない。文花からは探りメール、南実からは次の一手メールが届いてしまう。千歳が余計な動揺をする前に、想いが届けばいいのだが。だが、櫻が意を決したのが伝わったか、彼も一念発起して櫻ブログを開いていたのである。「これが櫻さんの想い、だったのか...」 八月病と題した記事の中には「発起人さんからお見舞いメールをいただきました。感謝感激、今日の天気は雨あられ? 私は思わず涙雨(!_!)」 千歳も思わず目が潤んできた。そこへ図ったように櫻からのメールが到着。千歳からの助言でメールソフトを入れ替えたのが奏功したらしく、差出人名はきちんと「千住 櫻」と表示されている。些細なことのようだが、彼にはそれがまた嬉しかった。タイトルは「残暑お見舞い申し上げます(^^)v」 本文を読む前にのぼせて来た。
 案の定、八月病で返事が遅れた云々という弁明に始まるも、「お気遣いいただき、誠におそれいります。今はおかげ様で元気です」と丁重な一節が添えられ、あとはメーリングリストの設定については弥生とも相談したこと、登録するアドレスは自宅用で構わないこと、などが淡々と綴ってある。そしてp.s.ながら実はこっちが本題の件については、「八月十九日、何が何でもお供します。時間と場所をご指示ください。By櫻姫」との返し。姫の写真を眺めながら、泣いたり笑ったりの千歳だったが、一日の終わりはやはり笑って締めたいもの。ハハの日とはよく言ったものである。

――― 八月十一日 ―――

 民営ではあるが、公設でもあるので、夏季休業を設けて悪い、ということもないだろう。環境情報センターが四日間の連続休館に入る前日の土曜日は、世間はすでにお盆休みということもあり、今のところ来訪者はゼロ。情報誌の発送手配はすでに終え、チーフはひと足早く休みに入っている。今日は一人ゆっくり、データのメンテナンスなどをしている櫻である。窓は閉め切ってあるがセミの声が喧々(けんけん)と入ってくる午後のひととき、たまには機材の点検でもするか、と席を立った時のことである。思いがけない客人がやって来た。若いお二人さんである。「あら、いらっしゃいませ」
 「あれ、櫻さんだけですか?」
 「文花さんはこの暑さでバテちゃいました。何ちゃって」
 「櫻さんはもう平気なんですか?」 眼鏡の少年が、眼鏡の女性に尋ねる。
 「え、えぇ。あ、五日は行けなくて、ゴメンナサイね。ま、私がいなくても大丈夫だったと思うけど」
 「千さん、何かアタフタしてた。『櫻さん、来ないかなぁ』とか言ってたし」
 「そ、そうだったんだ...」 不意の来客であわてている上に、乗っけからこういう話を聞かされては動揺するのも無理はない。
 六月の自由研究の方は千歳のフォローで無事まとまったことを聞き、ひと安心。となると、今日ここに二人して来たのはまた何故?
 「そう言えば小梅さん、お姉さんと旅行して来たのよね」
 「伊勢の親戚宅に行って来ました。青春18きっぷで」
 「え、普通列車で?」
 「自由研究の日、図書館でひと調べした後で、中の談話室で夏休みの予定について話してたんです。伊勢の話になったら、六月君が時刻表で調べてくれて、それで」
 「東海道線では乗り継ぎが多くなるけど、名古屋には午後二時台に着けばいい。名古屋からは快速列車に乗れば速いけど、接続が良くない上に、途中から18きっぷが使えない線に入っちゃうのが落とし穴なんだ。名古屋から伊勢方面までJRの普通列車で行くとちょっと遠回りだけど、時間的には大丈夫なのがわかったから、18きっぷを使ってこの行程でどうぞってね」

(参考情報→伊勢鉄道は別料金

 「弥生ちゃんから話は聞いてたけど、さすがねぇ」
 「で、五回のうち四回分使ったんで、残った一回分を六月君に渡そうと思って」
 「それでわざわざ?」
 「あ、あと自由研究の御礼と思って。櫻さんにお土産です」
 小梅は、伊勢の名物、某餅を持って来ていた。粉飾だ偽装だと喧(やかま)しい折りである。この一品も賞味期限ギリギリではあったが、この際、どうこういうのは止そう。
 六月への御礼も兼ねているということなので、
 「ありがとう。じゃ三人で食べますか。残ったら弥生ちゃんに、ね」
 タイムリーなことに、ちょうどおやつの時間になっていた。
 「明日からここお休みなんですよね。櫻さんはどこか行くんですか?」
 「千さんとお出かけ?」
 「え? 六月君まで、そんなこと...」
 お土産の餅ではないが、赤くなっている。「いいじゃないか♪」と餅の宣伝フレーズが聞こえてきそうだが、
 「18きっぷ余ったらオイラ使うからさ」なんて、さらに余計なことを言うもんだから、「いいじゃ」到底済まない。赤面+膨れ面になってしまった。(これが本当の赤ふく状態? 決して笑えない。)
 「大人をからかうんじゃないのっ」 前にここで弥生にも同じように冷やかされたことを思い出した。年は離れていてもやはりきょうだいである。ま、ここは弥生嬢に免じて許して進ぜよう。
 「小梅さん、伊勢って言っても広いじゃない。志摩の方とか?(そういや、石島と伊勢志摩って似てるわね)」
 「鳥羽の手前、二見浦ってとこです。海の近く...」
 「あぁ夫婦(めおと)岩のある、あそこね」
 「海水浴場の方なんですけどね。漂着ゴミ、すごかったです」
 太平洋から伊勢湾に回り込んで来る漂流物よりも、湾に注ぎ込む河川などからのゴミの漂着が甚大らしい。袋に破片に、とにかくプラスチック類が目に付いた他、より大きめの発泡スチロール片、あとは黒の長細い筒なんかが結構散らばっていたそうな。さらに川が増水すると上流からの流木が海に流され、湾内の海岸に打ち寄せるというから一大事である。荒川の一(いち)干潟の比ではなさそうだ。

 「それにしても、六月君。一回分とは言っても、18きっぷは高額品よ。何かお返ししないとねぇ」 からかい半分で諭す櫻。すると、 「ちゃんと特命受けてますんで」 若い二人は顔を見合わせ、ニコニコしている。毎度、微笑ましい限りだが、羨ましくもある。「若いっていいわねぇ」とか、内心呟いているが、これはほんのご冗談。十九日の予定はだいたい決まっていて、あとは当日を待つばかり。気持ちに余裕がある故の呟きだが、このお二人さんを見ていると、どうにもソワソワして来る。櫻にとっては、長く暑い夏季休業になりそうである。

21. 咲く・love


 待ちに待った旧七夕の日がやって来た。夏は何々の季節と言うが、四週間ぶりの再会となっては、何々も某もあったものではない。ただこの久々感とでも言うべき感覚は重要で、ドラマ的な心理を否応なく盛り上げる。待ち合わせは、センター下の図書館談話室。図書館でドキドキするシーンというのは学園モノでは一般的だが、まさかこの年になってそのシーンの当事者になるとは、である。約束の十四時まではまだ時間がある。談話室で一人黙々としているのは、本来バツの悪いものだが、己との対話だって談話のうちである。何を話そうか思案しつつ、ドキドキを楽しむ櫻であった。
 一刻も早く、という想いに押されて、千歳も定刻前に到着していた。ガラス張りのその一室に、目を閉じて深呼吸する一人の女性を見つけ、やはり胸高鳴るものを覚えるも、それが沈静するのを待つべく、何となくウロウロしているのであった。見方によっては不審者と思われても仕方ない。こういうシーンも学園モノにはありそうだが、彼の場合は退出させられる前に何とか次の行動に移ることができた。櫻は即座に席を立つ。
 「千歳さん!」
 さっきまで黙りこくっていた女性がいきなり声を上げたものだから、周囲の視線を集めることになる。千歳は「ハハ、参ったなぁ」とか言いながら、櫻に近寄ると、「お久しぶりです。櫻姫」 櫻は思わず飛びつきそうになったが、学園ドラマではないので、ブレーキをかける。今度は小声で「千歳、さん...」
 「外はまだ暑いので、ここで涼んでから行きますかね」
 櫻は放熱、いや放心状態。これが蒼葉の言っていた「ボー」なのか、と様子見しつつ、ゆったり構えることにした。ドキドキが収まるを確かめつつ、口を開く櫻。奥ゆかしい間合いである。
 「何か蒼葉があることないこと喋っちゃったみたいで、かえってご心配おかけしまして」
 「もう大丈夫ですよね。櫻ブログも絶好調のようだし」
 「ハハ。せっかく作ってもらったんですもの。あふれる想い、届けたい...です」
 その想いって?と聞き返したかったが、千歳もブレーキをかけてみる。蒼葉が見たらやきもきしそうなワンシーンである。
 「じゃ、今日はモノログネタの調査同行、よろしくお願いします」
 「てゆーか、デートでしょ。素直じゃないなぁ、千さんも。フフ」
 何とも返事のしようのない千歳はテレ笑い一つ、そそくさと先を急ぐ。春先に目撃し、その後も重点ゴミとして目を付けているバーベキュー関係の漂流ゴミの発生源を探るべく、橋よりも上流側にあるバーベキュー場を併設する公園へ、というのが今回のテーマ。五月に単身、調査しに行こうとしていたが、橋から掃部公を目撃して、干潟へ行ったりしたもんだから、その日は叶わず、以来ずっと棚上げになっていたのである。三カ月が経ち、今はシーズン真っ盛り。満を持しての現場偵察である。

 前日はぐっと気温が下がり、これじゃバーベキュー客も減か、とちょっと気を揉んだが、この日は一転して再猛暑となった。櫻はいつものクリーンアップスタイルとは似て非なる、あの晩夏のアウトドアファッションである。デニムのハーフパンツに、シャーリングのカットソー。暑いということもあるが、普段は長丈で隠している腕と脚が少々露わになっているのがポイントである。
 「今日の櫻さんのその衣装、もしかして『お上がり』とか」
 「あら、よくご存じで。どう? モデル並みでしょ」
 ここで下手に蒼葉と比較するのもどうかと思い、とにかく頷いて拍手を送る。二人とも自転車を手にしたまではいいが、なかなか走り出そうとせず、この調子。これはこれで微笑ましい光景である。
 小振りな麦藁帽を被り、多少なりとも日焼け対策を講じてはいるものの「まさかここまで晴れ上がるとはねぇ」と絶句する櫻。十四時半、日射はピーク。バーベキューの方は、読み通り、撤収組がチラホラ出始めた頃合いである。ひととおりの飲食が済んでからは、リバーバレー(?)に興じるグループ、キャッチボールをする男女、駆け足を競う親子、縁台将棋にギターの弾き語り、はたまたジャグリングの練習に余念がない諸兄など、広場では実に様々な過ごし方が展開されている。その一方で、まだダラダラと飲み食いを続けている若者グループも結構いて、そのラフな格好からして、半ば日光浴を楽しみながら、の様である。バーベキュー向けに用意されている囲いなども予め据え付けられているのだが、道具類は概ね自前で持ち込まれている。コンロや網も本格志向なら、テントやテーブルも立派なもの。レジャーシート組は少数で、デッキチェアでくつろぐスタイルが主流になっている。こうなると、バーベキューの方も気合いが入ったもので、焼肉・焼野菜のみならず、シーフード系のグリルあり、焼き鳥あり、さらには自家製ハムを燻しているところまである。どこかの屋台村に迷い込んだような趣である。当然のことながら、飲食に供される容器類、排出される袋類や生ゴミの量も並々ならぬこととなる。それらは傍らで数多(あまた)見受けられ、行く末が案じられて仕方ない。この人数にかかれば、一部が散乱・漂流することになるのも大いに納得となる。

(参考情報→河川敷でのバーベキュー例

 「最近のバーベキューって、何か凄まじいですね」
 「勿論楽しんでやってるんでしょうけど、いかに本格的にやるかって方にエネルギーが注がれてる感じもします」
 調査なのかデートなのか、定かではないが、少なくともレジャーに来た訳ではないこの二人は、批評家然、かつ漫然と広場を散策するのであった。
 幸い、今この時間に片付けている皆々は、その分別については怪しい面も散見されるものの、自分が出したものはきちんと持ち帰る、という一点において極めて真っ当である。犯人探しをするつもりはないが、何かしらの因果関係がここにありそうな以上、もうちょっと調べを進めたい。捨てられそうな場所に先回りすることにした。
 この辺りには自然地も干潟もない。ただ傾斜のある護岸が川と陸を隔てるばかりである。その斜めの護岸にちょっとした間隙があると、ヨシならまだしも、セイタカアワダチソウなんかがヒョロヒョロと根を下ろし、草陰を作ったりする。さらにはアレチウリなる厄介な外来植物が陸地にちょっとでも蔓延(はびこ)ってたりすると、それも忽ち護岸に侵入してきて、セイタカと連係した日には、そりゃあもう。人目が届きにくい恰好の一隅を作り出してしまうのである。これは推論だが、不届き者は、そのセイタカを目印に、根元に袋入りのゴミなんかを放置する。高潮になれば、川の水が護岸を洗うなんてのは訳ないことなので、そのゴミ袋も容易(たやす)く流されていく。干潟に生ゴミ入りのレジ袋が漂着するのは、こういう図式によるのではないか、と。

(参考情報→アレチウリの脅威

 事実、この日はそんな草陰において、飲食の不始末と思しき袋入りのゴミが見つかった。ペットボトルと使い捨てカップの詰め合わせである。初めてゴミ箱干潟を目にした時の衝撃を思い起こしながら、デジカメで記録する千歳。その脇で櫻は、露骨に積み棄ててあった炭の塊を発見し、
 「自然に還るってことなのかも知れないけど、これじゃあんまりね。公然というか平然というか、私が捨てました、って開き直ってる感じ」
 「スミに置けないって、こういうことを言うんですよ」
 「隅田さんたら、やだワ」
 どこまでが洒落なのかわからないお二人さんであった。そんなダジャレを冷やかすように、川面からパシャパシャ音がする。覗き込んでみるとハゼの群泳である。時折、体を跳ねつかせるものの、その魚影は黒く、何ハゼだかは識別できない。これもひとまず撮影し、別途、掃部先生に鑑定してもらうことにした。紙燈籠の件もあるし、どこかで先生とお目にかからないといけない。メーリングリストに先生も入れられればいいのだが。
 護岸上にはさらに、花火の棒が散らかってたり、カセット式コンロのガス缶が転がってたり、漂着ではなく、明らかにその場に放置されたと思われるゴミが見つかった。これでまたプロセスの一端が把握できた、という点では喜ばしいものの、大いなる悲哀も感じてしまう千歳なのであった。ポイ捨ても積もり流されまた積もり、その結果があの干潟なのである。今日は櫻以上に憂いな表情になっていることは自分でもわかっている。だが、しかし...
 「あーあ、千さんがブルーになっちゃった。心はいつもサクラ色、じゃなかったの?」
 「え、あぁ、失礼しました。発生原因がこれで少しわかったんだけど、じゃどうすれば防げるかなぁ、ってね」
 「捨てるのも人、拾うのも人、って清さん言ってた。ひとまず拾える分だけでも拾いましょ」
 さすがはリーダー、用意のいいことに大きめのレジ袋を持ち合わせていた。いっそアレチウリも引っこ抜いて帰りたいところだが、今日のところはこの護岸で目に付くゴミを片付けるのみである。広場の一角にある水場でひと休みしているカラスが居る。よく見ると、何かの食べ残しを嘴(くちばし)に挟んでいる。片付け係はここにもいるぞ、と言わんばかり。少女が一人その威張ったカラスに向かって「やい」とか「おい」とか、挑発しているから可笑しい。
 「あの子、度胸あるわね」
 「カラスも全く動じないねぇ」
 「小梅嬢はカラスが怖くて干潟に近寄れなかったって前に言ってたけど、それが普通よね。ああいう勇ましい子が増えると、カラス減るかしら?」
 十五時になった。カラスにとってはおやつのつもりだったんだろう。

(参考情報→少女 vs カラス

 調査はこれで終了なのだが、デートの方はどうなんだろう。集めたゴミは千歳が持って帰るのはいいとしても、そのまま彼の宅へ、という訳にはまだいかない。お目にかかりたいとか言って誘い出しておきながら、ちゃんとプランを考えていなかった千歳君。管理するものではないけれど、こういうのもプロセスのうち、である。ちゃんと練っておかないと不可(いけ)ない。櫻はその辺を見透かしたように機転を働かせ、「私、初音さんとこ見て来ます。一応、店の外で待ってますね」ということになった。
 受験を控えていることもあり、初音は通常は十四時上がり。だが、この日は珍しく厨房設備を使ってパンケーキなどを作っていた。お客が少ないこともあるが、こういう店の使い方があってもいい。言わば店員特権である。
 「多く作り過ぎちゃったけど、ま、いっかぁ」と何セットか手にして厨房から出てくると、外から中の様子を窺う女性が目に留まる。「あ、櫻さん?」 櫻も気が付いたようで、手を振っている。姉という立場では同じ二人の対面である。こちらも四週間ぶりのこと。
 「初音さん、いないかなぁって、見てたんだ。よかったよかった」
 「今日はたまたま残ってたんスよ。もう帰ろかなって」
 「あら残念。あ、この間は伊勢名物、ありがとうございました」
 「いえいえ、本当はちゃんとお礼しないといけないのに、取って付けたみたいで。今日はお一人、ですか?」
 「いや、ある人と一緒だったんだけど、へへへ」
 ここで千歳が現れると、二人の関係がより公然となってしまうのだが、よく考えると、五月の回で初音にはしっかり認識されているのである。今更、どうこうでもあるまい。
 「隅田さん、でしょ。あ、そうそう、よければこれどうぞ」 セットの一つを取り出して、手渡す。
 「あら、パンケーキ。初音さん作ったの?」
 「私こういうの苦手なんスけど、お店で働いてるのに、手に職がつかないのももったいないな、と思って。ま、自由研究品です。添加物なし」
 「アツイうちにどーぞ!」とか言いながら、またしてもさっさと走って行ってしまった。袋くらいくれても良さそうだが、この店は原則、簡易包装である。「確かにホカホカね」
 初音とは対照的に、ノロノロと千歳が戻って来た。
 「どうしたんですか、その包み?」
 「ついさっき、初音嬢からもらったんですよ。ここに来た甲斐がありました」
 と言っても、これを持ち込んでお茶するのも気がひける。初音としてはここでどうぞ、ということだったのかも知れないが、作った本人がいないことにはちょっとねぇ。
 という訳で、店頭にあったフリーペーパーでもうひと包みして、センターに向かうことにした。カフェではなく、公的施設。やはりちょっと変わったデートである。

 休館日でもこうして施設を使えるというのは職員の特権である。邪魔が入らないようにと、櫻は中から施錠する。どうやら千歳に対しては、不信も何もないようだ。むしろ「これで二人きり、フフ」てな具合である。小悪魔復活、か。
 パンケーキを皿に載せ替え、冷蔵庫にキープしておいたアイスコーヒーを注ぐ。櫻にとってはちょっといい時間である。プラン不十分の千歳だったが、ここに来るのは想定内だったようで、ドギマギするでもなく、割と飄々としている。八広がお世話になっている情報コーナーを周回し、気になるCSRレポートをパラパラ繰ったり、勝手知ったる何とやら、である。櫻としては、センターを完全に私用で使うのもどうかと思い、打合せするような感じで、話を進めることを思いついた。光熱費に見合うだけの成果が得られればいい。
 「それじゃチーフに倣って、議題を書き出すとしますか」 櫻は話したいことが多々あるところ、それらを整理するように、ホワイトボードに書き並べていく。
 かくして、①これまでのクリーンアップデータの整理、②十月の定例クリーンアップに向けて、③メーリングリストの活用法、④その他... というのが挙がった。
 「他にございますか?」
 「あ、掃部先生との連絡のとり方、ってのお願いします」
 「まだありませんこと?」
 「櫻さんに聞きたいことがあるんですが、ひととおり終わってから、ですね」
 デート中の会話に議題も何もあったものではないのだが、これがこの二人の流儀。地域や環境に向ける視点が揃っている以上、こうした話題が何より楽しいようである。さて①の件だが、五月から八月まで、自由研究デーの分も含めると、これまでにすでに五回分のゴミデータが蓄積されている。清書したデータカードもあるが、途中からメールでデータが届くようになったので、今は表計算のファイルに全データが収めてある。横に集計すればすぐにでもこれまでの累計と総合順位が出せるのだが、「そのうちクイズを兼ねてメーリングリストに流そうと思って」なんだそうな。データカードに関しては発起人は櫻なので、ここはお任せ。楽しみに待つとしよう。
 次に②である。七夕デートの際、少々話題には上ったが、検討するのは今日が初めて。荒川での一斉クリーンアップの要領に合わせつつも、干潟特有の注意事項もあるだろうから、それをまとめてみてメーリングリストで協議しよう、ということがまず決まる。あとは一般参加者を募るかどうかだが、モノログの掲示板機能が有用である以上、それを使うのが妥当だろう、と相成った。逆を言うと、広く呼びかけることはしないが、モノログを見た人に限っては参加も可能、という募集形態に、ということである。なかなかの妙案である。「当日その場でボランティア保険の手続きしようとすると何かと大変だから、参加希望者には予め最寄の社会福祉協議会とかで加入してもらうように呼びかけましょう」 そんな話も含めて、これもメーリングリストに付されることに。

(参考情報→ボランティア保険は事前に

 ③については、①と②で十分に活用されそうな気はするが、櫻の意図としては「お互いまだ知らないこともあるだろうから、自己紹介し合うのもいいし、あとは連絡網機能として、流域とかで何か異変があったら知らせ合うとか、ね」 コーディネートに長ける櫻ならではの発案である。パンケーキはなかなか美味だったようで、二人ともペロリと平らげていたが、食べ終えたことを失念するくらいテンポ良く話し合っている。「あれ、いつの間に食べちゃったんだろ?」 実際のデートシーンでもこういうことはありがちか。

 「メーリングリスト参加者で、面識がない可能性があるのは、宝木氏と桑川さん・小松さんの組み合わせ、ですかね。彼はセンターには何度か顔出してるでしょうから、矢ノ倉さんとは面識ありますよね?」
 「あの、意外かも知れないけど、蒼葉と小松さんもお互い面識ないですよ」
 「さすがはリーダー。確かに自己紹介、必要ですね。そういや、業平も初対面の人いるかも知れない」
 めでたく開設の運びとなったメーリングリスト(higata@~)は、参加者の名前を記した案内と簡単なルールをセットにしたものを千歳がまず流したのに続き、八広から早々にモノログネタとしてこういうのはどうだ、というのが軽く流れ、さらに櫻からはご挨拶方々、センターの夏休み入り前日の来客記録と同休業案内が出され、といったところ。出足としてはまあまあだったのだが、お盆休みを挟んだこともあり、その後は早くも小休止状態になっていた。メーリングリスト管理人として、ここはテコ入れが必要との認識は持っている。一つ業平に自己紹介を振って、再点火させるとするか。
 「じゃ私は小松さんに水向けてみる」
 彼女からのメーリングリスト第一報が発信されるのに先んじてのひと振り。先手を打てば、手強い文面が来るのを少しは予防できるのではないか、という読みである。櫻も十分手強い。
 二人して、二杯目のアイスコーヒーを飲み終える。あとはその他の議題。ここまで来れば、フリーディスカッションでも良さそうな気がするが、「掃部先生、月に一度はここにいらっしゃいます。何か渡すものとかあれば、お預かりしますけど」と一応、追加議題に沿った話をしている。「メーリングリストを通じてチーフに聞いてみて、先生が来る日時がハッキリしたら、皆にも集まってもらいますか、ね」 higata@、なかなか使い勝手が良さそうである。
 業務連絡を兼ねた打合せはここまで。時間にして一時間弱。メールのやりとりだけでは埋まらないものである。ここで千歳はいつものようにバッグをゴソゴソやり出すと、
 「この場で演奏できないけど、お約束の自作曲、持って来ましたよ」
 「エ? メモリカードに」
 「対応するプレーヤーとかメモリオーディオがないと聴けないですよね。じゃ」
 円卓上のPCのスロットに挿し込んでみる。ここから聴けなくもないのだが、
 「データをアップロードしとくんで、このURLを打ってダウンロードしてみてください。ご自宅でじっくり、ね」
 とりあえず二曲分だそうな。ギターでアウトラインを作ってから、PCでリズムやらベースやらを打ち込んで、そこに再度ギターをかぶせ、あとはおまけの音色をPC音源でもって加えていったんだとか。キーボードで作った曲もあるのだが、あえてギター曲にした。メロディーラインは櫻に託そう、ということらしい。鍵盤で電子的に採譜して、そのデータを業平に渡すと、また違った楽曲になるとも言う。
 「で、タイトルは?」
 「ボーカルを入れられるように作ってはあるんですが、詞がないことにはタイトルも付けられないし。櫻さんのいつもの鋭い感性で付けてください」
 「了解です。ピアノで音を拾ううちに思いつく、かな」
 休業中はピアノの練習に励んでいたこと、だがあまりの暑さに今度こそバテ気味だったこと、といった話、国際イルカ年だというのに、迷いイルカが助けられなかったのはどうしたことだ、とか、ペルセウス座という割には思いも寄らない場所に流星が出てくるので、ろくに願い事ができなかったとか、話題は尽きない。まだまだ日は長い。彼と彼女の時間はゆっくり流れて行く。
 「千歳さん、聞きたいことがあるって、何ですか?」
 「あの、『咲く・ラヴ』って、何か特別な意味がおありなんでしょうか? ずっと気になってて」
 ひと呼吸おいてから、櫻はニヤリ。よくぞ聞いてくれました、とでも言いたげな風である。
 「そんな、わかってるくせにぃ。櫻さんて人がいて、誰かさんに想いを寄せてる訳ですよ。それをちょっとひねっただけ。原題はあくまで『さくらブログ』」
 「モノログからもリンク張っていいですか?」
 「だって、今日のバーベキュー場の件、千歳さん載せるでしょ。私もちょっと書こうかなって思ってるんで、ねぇ...」と俯き加減。だが、すぐに顔を上げると、「リンク張って、見る人が見たら『あ、この二人』ってなっちゃいますよ。私は構いませんけどね。エヘヘ」とのこと。これで晴れて相互リンク、となりそうだ。

 蒼葉には遠慮は要らない。だが、食事当番は守りたい。櫻の表情に憂いが浮かんできた。離れがたい旧七夕の織姫と彦星に容赦なく夕暮れが迫る。そして帰りを急かすように遠雷が響く。図書館はすでに閉館時間を過ぎ、暗くなっている。
 櫻に交際相手がいないことは先だっての蒼葉とのやりとりでわかっていた。だが、それを本人に聞いて確かめるほど野暮なことはない。千歳はドキドキしながらも、自転車を動かす。今日のところはここまで、か。
 櫻が彼を引き止めたのは、その時である。
 「ち、千歳さん、私も聞きたいことが、あります」
 次の瞬間、剛速球を投げ込んできた。南実を凌ぐ勢いである。
 「おつきあいしてる人っているんですか?」
 ちょっと考えて、彼は答える。
 「えぇ、いますよ」
 「エ、うそ?」
 「ここに、ね」
 櫻は俄かに信じられない様子だったが、
 「もう、意地悪ぅ。う、う...」
 泣き顔になってしまった。眼鏡越しだが、目が潤んでいるのがわかる。千歳は再び蒼葉の言葉を思い出す。泣き出しちゃうかも、とはこのことだったのか。櫻は眼鏡を外しかけたが、すぐ手を止めた。
 「今度はいつ逢えますか?」
 「九月二日じゃ、また先になっちゃいますね」
 「本気で泣いちゃいますよ」
 「近々、紙燈籠持って来ますから、その時、また」
 櫻はブレーキをかけるのを止めていた。日中の暑さは和らいでいたが、彼女は逆に熱くなっている。
 「じゃ、明後日! 千歳さん来るまで待ってます」
 「わかりました。櫻姫」
 姫はドキドキが収まらない。このままだと本当に彼に飛びつきそうだったが、意地悪な彼は自転車に跨り、走り出してしまった。
 「あぁ、ドキドキした。どうなるかと思った」
 どうやら彼にも事情があったらしい。櫻のあふれる想いへの処し方がわからなくなっていたのである。
 セミは鳴いているらしかったが、二人には届いていなかった。櫻も今頃になって気付く。
 「あーぁ、何か切ない。これで蜩(ひぐらし)だったら、もっと切なくなりそう」 櫻の方もノロノロと走り始める。こらえていた涙が線になって頬を伝う。心地良い涙である。七夕の日、ヨシに吊るしたもう一枚の短冊に込めた願い... 今夕、それが叶った、そんな気がした。佳(よ)き哉(かな)、である。

2007年12月4日火曜日

19. 八月病


 千歳マネージャーはタイムキープに関してはあまり得意ではないらしく、ダラダラと撮影記録を続けている。もともとスローな彼だが、折からの暑さがダラダラを助長しているようだ。発泡水に手が行くも、フタを開けようとすると手が止まる、その繰り返し。こういう状態をアタフタとはよく言ったものである。「フタ... あら、結構出てきた?」 六月の自由研究の見通しが明るそうなのが救いである。
 十一時十五分。ようやく号令がかかり、各班が集めたゴミの品評&計数が始まる。研究員がいないので詳しいことは言えないが、ヨシ束をバサバサやる要領だけは心得ている千歳。微細ゴミは別枠だが、ひとまずバケツに漬けてみる。思わずプカプカ出てきたので焦る焦る。「ハハハ。この手のプラスチック片は後で数えますね」 再び冷や汗の千歳君。
 この手の束をはじめ、細かい漂着物が干潟の奥で鬩(せめ)いでいた訳だが、これは例の不詳背高草が倒れていたおかげ。大きくなり過ぎて、身が持たず倒伏してしまったとすると、実に自虐的。だが、倒れてなお、防波・防潮に身を捧げたとするなら、ご立派の一言に尽きる。
 「この前はこんなに大きくなかったよね。千さん?」 少年にまで千さん呼ばわりされてしまった。だが、悪い気はしない。「千さんてか、じゃ君は六さんだね」 もう一人、名前に数字がつく人物がいるが、後回し。だが、その八さんは「この流木もインパクトありますね。防波堤みたいだ」と口を挟んできた。確かに背高草と連係するように身を固定し、発泡スチロール片やらミニ納豆の容器やら、水位が増せばあっさり流れ出てしまいそうなゴミ達を巧みにブロックしている。防流堤とでも名付けて敬意を表するとするか。
 そんな流出を免れたプラスチック類を再分類しながら、品目別に各自カウントを開始。職業柄なのかどうかはいざ知らず、ルフロンは目算、いや目計算が速かった。カウンタ要らず、である。そんなこんなで少人数ではあったが、それに見合うような集計結果がまとまった。とりあえず画用紙にメモする。

 ワースト1:プラスチックの袋・破片/三十六、ワースト2:食品の包装・容器類/三十一、ワースト3:フタ・キャップ/二十三、ワースト4:飲料用プラボトル(ペットボトル)/二十一、ワースト5:袋類・袋片(農業用以外)/十九といった具合。七月一日には多々見つかった硬質プラスチック破片と紙パック飲料が数個程度に激減したのには千歳も業平もビックリだった。いったい何が原因なんだろう? 代わりと言っては何だが、今回は新たにガラス片や陶器片が二つ三つ見つかった。漂着物の変化に何らかの因果関係があるのかどうなのか、これは中長期で統計をとればわかること? ムムム。臨時リーダーは思いを新たにするのだが、それも束の間、頭が重いネタがあったことを思い出した。微細プラスチック(レジンペレットなど)である。これをしっかり数えると、おそらくワースト1になるところだが、今はひとまず置いといて、数え終わった分をデータ送信するとしよう。しかし次なる試練が。「あ、ケータイ画面、どうしよ」 櫻、南実、弥生... 三人の存在の大きさを痛感する千歳であった。

(参考情報→2007.8.7の漂着ゴミ

 「はいはい、千さん。私、やりますよ」 どうやら操作をマスターしたらしい蒼葉が手を挙げてくれた。設計者の業平は傍で同じように操作して再確認している。八広も業平とあぁだこうだやりながらカチカチやっていたが、「あれ? バッテリ切れ?」 振動着信とか間違い電話がいけなかったようで、中断せざるを得なくなってしまった。ガックリ。
 「ま、八クン、いつもあんな調子なので、ケータイで連絡とるの止めました。ついでにケータイそのものもいっか、て感じで」 ここにもケータイやめた?派がいた。意外な感じもするが、「メール打てば、すぐ返事くれるし、すぐ駆けつけてくれるし、フフ」 巷に聞くツンデレさんとはこういう人のことを言うのか、と千歳は妙なところに感心する。
 蒼葉はうっかり保留機能を使わず、主だった品目の数を入れたところで送信してしまった。
 「アハハ。じゃ続きは業平さん、お願い」
 「蒼葉さん、干潟二周」
 「ハーイ」
 本当に干潟を回り出したから、五人は唖然。少年はここぞとばかりに付いていく。
 生活雑貨の詳細をまだ打っていなかった。極太マジックペン、キーホルダー、舞恵が手にしていた傘の柄とその他のパーツ、そのあたりはまだわかる。だが、歯ブラシ、ワンパックの使い切り洗剤、電気シェーバー、さらには使い捨てコンタクトレンズの容器、なんてのまで出てきたもんだから、「こりゃ社会の縮図だわ。金融業としても何か考えないと」と企業人らしい一面を大いに触発することになる。業平は、その他品目の入力に移っている。この際だから、具体的な名前を打ち込もうということらしく、「ねりからし」とか「玉ネギ」とか親指で器用にやっているから可笑しい。「それにしても、そういう食べ物関係が見つかるってことは、やっぱり...」 橋よりも上流側にバーベキューができる公園があることを最近突き止めた千歳は、次の一手を画策し出した。ゴールをどう設定するかは模索中だが、プロセスマネジメントを応用しつつあるのは明らか。単なるゴミ拾いで終わらせないための何かが動き始めている。

 雑貨の数々からずっと撮影を続けていた千歳だったが、恒例のスクープ写真の段になると、目の色が変わった。鉄筋あり、砂利袋あり、工事でもする気か!とツッコミを入れたくなる品々が出てきたのである。気合十分のカメラマンに対し、肩の力を抜けとばかりに少年が近寄ってきた。「千さん、これも」 見れば美少女キャラのフィギュアである。この間のモビルスーツといい、どうしてこんな... 肩の力どころか腰砕けになってしまった千さんであった。
 「可燃じゃないし、不燃てのもね。どっちにしてもゴミにするにはしのびないねぇ」
 「へへ、これはね『萌えるゴミ』なのさ」 フィギュアを見ながら、一人で「萌えー」とか呟いている。これには一同大笑い。八広も大いに煥発されたらしく、コピーだか散文詩だか、ブツブツ唱え出した。「萌える春、燃える夏、季節もゴミも移り往く...」

 スクープ系の最たるものは「紙燈籠」だろう。だが、原形を保持するにはレジ袋ではちょっと心許(こころもと)ない。プラスチック製のカゴなどでも良さそうだが、網状なのでイマ一つ。そんな折り、ジェットスキーが通過し、その勢いで出来た断続的な中波がどこからか発泡スチロール製の箱状容器を運んで来た。偶然ではあるが、彼等にとってこれは必然。
 「上流の影に隠れてたのかな?」
 「要するにこれを使え、ってことだね」 傘の柄で手繰り寄せる。ちょうどいい大きさである。フタつき。中は空っぽ。これなら原状そのままに先生にお見せできそう。
 「前回は布団と枕がのさばってたんだけど、見なかった?」
 「誰かが再利用してるんじゃないスか?」
 それはさておき、七月の回で湾奥に追いやっていた木片が露わになっていて、無言の圧力をかけてくるのが気になる。業平と八広は、鉄筋を運んで来るや、先の防流堤を強化するように押し付け、さらに木片を杭状に打ち込み始めた。汗が光ってサマになっている。廃材を使った土木作業、こういう工法を環境配慮型と言いたい。
 そんな作業員を横目に、ルフロンがポツリ。
 「隅田さん、ここで千住さんのカード拾ったんスか?」
 「そうなんスよ。信じてもらえましたか」
 「いやぁ、これなら有り得ますね。今日はカバンも落ちてたし」
 拾得物として届けるのは気が引けるので、とりあえずそのままにしておいた通勤用と思しきカバンが実は見つかっていたのである。何かのトラブルに巻き込まれた果てだとしたら... 漂着物ではなく、遺失物。モノログ対象外なのだが、放置しておいていいものか。ちょっとした葛藤が生じる。
 「ところで、落とし主さんはどんな感じでした?」
 千歳は櫻のことをまるで知らない人のように聞く。釈然としない舞恵だったが、
 「あぁ、何か気優しそうな、でもちょっとドジっぽい方でしたねぇ。あと『拾われた方ってどんな感じでした?』って熱心に聞いてました」
 「え? そうだったんだ」
 「三十くらいの好人物でしたよ、ってお伝えしておきました。その後、千住さんから連絡あったんですよね?」
 「そうなんだ」ではなく「そうだったんだ」という千歳の言い回しから、ピンと来ていた行員は、
 「隅田さんたらヤダなぁ。千住さんとはもうお知り合いなんじゃないですかぁ?」
 つい本心というのが出てしまうものである。自分でネタ明かししてしまった以上、隠し通せる筈はない。結局、話は進んで、
 「ちなみに、その櫻さんの妹さんが蒼葉さん」
 「そうか彼女も千住さんだった」
 となる。
 二周どころか、その後も六月と楽しそうに何周もしている蒼葉嬢。そんなもう一人の千住さんを見つめる舞恵の表情からはいつしかツンツンはとれていた。余計なものを取り除いた干潟は、水の浄化然り、人の心のトゲや粗目も除去してくれるようである。

 収集数が少なかった割には、総じてスローペースだったため、すでに正午近くになっている。冗長ながら集計と記録を終え、袋詰めも済んだ。スーパー行きの品々はペットボトルが少数程度の見込み。あとはそれを洗いながらフタの調査をするばかり。レジンペレットの類が悩ましいが、取り急ぎバケツごと運び出す。ワイワイやりながら一斉に上陸する六人であった。干潟のヨシは心地良さげに風にそよいでいる。だが、この清々しい感じがかえって気味悪い。太陽が時々隠れるくらいに入道雲が肥大化してきた。西の雲は灰色の濃度を強くしている。今度は空模様が心配だ。
 そんな雲のことなどそっちのけ。新たに取り外した分を含め、ひととおり洗い終わったフタを両手いっぱいに持って来て広げて見せる六月。三十有数はある。ペットボトル付属のプラスチックフタは、天然果汁たっぷりのオレンジジュース、コーヒー飲料、乳酸菌飲料、スポーツドリンク、緑茶系などに加え、特定不能な無印のものがチラホラ。一方、ボトル缶付属の金属フタは、そば茶にスポーツドリンクに何かのアルコール飲料といった程度。メーカー名のみのものが多く、残念ながら銘柄の特定には至らなかった。いつ、どんな状況でポイ捨てされたのかは兎も角、少なからず河川敷利用者によって、こうした飲料が嗜好されている、ということはわかった。とりあえずノートに付けていく。あとは現物をそのまま提出すれば済む話ではあるが、
 「あ、証拠写真、撮ったっけ?」
 「大丈夫、ホラ」
 「ダイジョブ、グッジョブ!」
 千歳はこの大事な記録写真を弥生宛に送る旨、約束し、少年の肩を叩く。いい光景である。蒼葉は鉛筆をとり、そんな人物を描写すべく試みたが、どうにも空模様が気になっていけない。そんな女性画家を見て、八広は記憶を辿る。六月のある日曜日、正にこの辺りで見かけた女性、そして、モノログに載っていたあの印象深い漂着静物画...
 「蒼葉さんて、あの絵を描いた人スか? 隅田さんのモノログに出てた、その...」
 「あぁ、あの時は私、衝動に駆られてて。今見ると自分でもおどろおどろしくて」
 こんなにこやかな人があんな素描を、というのが俄かには信じ難い八広だった。内に秘める何か強烈なものがあるに相違ない、と察してみる。そして、今日受けた数々の刺戟を何らかの形で書き表したい、とやはり衝動を覚えるのであった。
 「あれは傑作ですよ。自分も何か載せてもらおっかな」
 八広はすっかりその気である。だが、千歳が彼にモノログや干潟のことを知らせなかったのは他でもない。筆の立つ八広のこと、きっといろいろ書いてよこすに違いない、それがわかっていたから、だったのである。漂着モノログのモノはあくまで「物」のつもりだが、千歳的には独りを意味する「mono」も兼ねていた。だが、こうなってくると、マルチログとかにした方がいいかも知れない。
 さて、フタの品評会の最中、業平は毎度の如く唸っていた。六月とちょっとした談議になったバーコードの一件が頭の中を駆け巡る。今日もこの後おじゃまする予定なので、再度チェックしようと思い立つ。そう、スーパー新鋭のバーコード一括読み取りレジのことである。問題は読み取った結果をどこに飛ばすか。「まずはPCにバーコードスキャナをくっつけるとこからやってみっか」 何ともマニアックな話ではあるが、銘柄調査がそれで叶うなら御の字か。
 ペットボトルも乾いたし、そろそろお腹も空いて来たし、「では皆さん、今日はこれにて解散します。ありがとうございました!」 終わりよければ何とやら。千歳にしては上出来だろう。業平は袋を担いでそそくさとRSB(リバーサイドバイク)に跨って走り去る。空が暗くなってきたので、急いだに越したことはない。アラウンド25のカップルは少年を連れて、干潟の方に戻って行く。舞恵のケータイ(今は撮影専用)で記念写真を撮ったりして、楽しそうにしている。が、しかし、
 「私ね、雨女なんだワ。早く帰らないとズブ濡れになっちゃうよ」
 「あ、本当だ。雨?」
 あわてて引き揚げる三人。方向は違えども、バスの停留所までは一緒である。自転車にゴミ袋を積む二人に軽く手を振りつつ走って行った。

 「六月君て、実のお姉さんより年上の人が好きみたいね。確かに変わり者だわ」
 解放されてホッとしていると見受けるも、淋しそうでもある。業平もとっとと帰っちゃうし...
 「今日は結局、櫻リーダー来ませんでしたね」
 「千さん、しっかり代役果たしてましたよ。姉さんがいなくても大丈夫でしょ?」
 「いや、櫻さんがいないと...」
 「フーン」
 徐行気味に走っていたが、徐々に雨脚が強くなってきたのでペダルを急ぐ。十二時半なのに早くも夕立とは! ゴミステーション行きは諦め、橋の下で雨宿りすることにした。
 「濡れちゃいましたね」
 「画用紙とか大丈夫ですか」
 白のTシャツがところどころ水気を含み、何とも艶(なまめ)かしい状態になっている。空が暗い上、場所が場所だけに暗め。ハッキリ見えない分、余計にドギマギする。一方の蒼葉は平然としたもので、せいぜい濡れた髪に手を当てる程度。やはり小悪魔である。
 「ねぇ千さん、櫻姉のこと、どう思います?」
 「どう、ってそりゃあ。クリーンアップ中は相棒だと思ってますけど」
 「相棒? それだけ?」
 「そうだ、蒼葉さんに言っておこうと思ってたんだ。桑川さんに二人はカップルだとか、言ったでしょ」
 「え、違うんですか? 当たらずも遠からず、でしょ」
 千歳にしてはハキハキやっている方だが、雨脚に呼応するように、さらに調子が強くなってきた。
 「そういう話は二人でゆっくり、と思ってたんだよ。周りがワイワイやり出すと櫻さんも迷惑だろうし」
 「そっか。千さんの前だと張り切っちゃうから知らないんだ。四月以降、何かボーっとしてること多いんですよ。見ていてわかるんです。ありゃ一目惚れに近いな、って」
 蒼葉も負けじと強めに応じる。姉のこととなると”C`est la vie”では済まないようだ。そのままピッチは上がり、姉君の近況などが次々と語られる。
 「以前の櫻姉なら、もっと熱を上げてると思います。失恋事件があって男性不信になっちゃって、億劫ていうか臆病になってるだけ」 とか、
 「でもね。千さんと会ってから、少しずつだけど元に戻って来たみたいなの。事件以降、パッタリ弾かなくなったピアノも弾き出したし... でも、もどかしくて」 だそうな。
 固唾を呑んでいた千歳だったが、水があるのを思い出し、発泡水をゴクリ。気が張っている彼だったが、水の方は気が抜けてる感じ。先のアタフタの一件はすっかり忘れている。
 「私、行けなかったからわからないけど、自由研究の日、何かあったんでしょ? 気疲れどうこうとか言ってたし。最初は夏風邪かと思ったけど、違った意味で熱中症とか。いや、恋わずらいかもね」
 「梅雨が明けてから、暑い日が続いたから、そのせいじゃ?」
 「千さん、鈍いのよ。姉さんの想い、少しは届いてるでしょ?」
 七夕のお誘いと当日の出来事、これまでの櫻の言動の数々...「咲く・ラヴ」の意味も何となくわかってきたような。だが、彼にも相応の事情がある。自分で背中は押せないのである。
 「このゴミを片付けたらお見舞いに伺う、ってんじゃダメでしょか?」
 彼としてはこれが精一杯。だが、その想いは妹には十分伝わった。
 「いや、そんな。泣き出しちゃうかも知れないから。アハハ」
 雨は小康状態になってきた。怨めしい雨ではあったが、おかげで思いがけない展開になってきた。クリーンアップに関しては課題解決型アプローチでプロセスが見えてきたところだが、それとはまた別のプロセスがここにあることに今更ながら気付く。よりデリケートで、機微・機転が求められる、そんなプロセス。
 「あ、そうそう、これまで眼鏡を外して見せたことあります?」
 「いえ、でもそれが何か?」
 「眼鏡っ娘、キライじゃないですよね... ふつつか者ですが、姉をよろしくお願いします」
 意味深ではあるが、事件とピアノと眼鏡といろいろリンクしているらしいことはわかった。それにしても、気疲れってのはいったい?
 「とにかくメールします。櫻さんによろしく!」
 「ハーイ」
 雨上がりの橋をスイスイと走っていく蒼葉。千歳も某少年同様、萌えー状態になりかけている。しばらく見送っていたが、手渡された燃える系のゴミ袋がやおらズシリと来て、目が覚める。「濡れた新聞紙、か」 これでも一応可燃である。全体量は少なかったので、四十五リットル袋二つに収まったが、ぎっしりと詰め込んである不燃ゴミに対し、可燃ゴミはその半分程と差がついた。プラスチックの容器類を不燃でなく再資源化扱いにして、隣市で処理してもらうことを思いついたのはこの時である。あとは燈籠を入れたスチロール箱、プラスチック粒を入れたレジ袋。一人で何とか持って行けそうだ。猛暑日一歩手前まで気温は上昇。雨で少し冷めたとは言え、なお三十度は超えている。荒川は雨で増水したせいもあるが、相変わらず勢いがいい。だが、温水(ぬるみず)と漂流ゴミを押し流すのは大仕事である。
 そんな流れを見ながら、一人黙考する千歳。気疲れで思い当たるのは、過剰適応と眩暈(めまい)の話...「櫻さん、まさかクリーンアップも気付かないうちに頑張り過ぎて、それで?」
 コーディネートというかリーダー役を今回やってみて、その大変さを実感した千歳は、恋わずらいというのは割り引くとして、彼女に何らかの負荷がかかっていたことを認識するに至った。こうなると居ても立ってもいられない。善は、いや「千は急げ!」である。

 今日は初音が不在ということもあるが、カフェめしはもとより、とにかく昼食そっちのけでPCに向かう。モノログにレポートを載せてからメールしてもいいのだが、お見舞いの一筆を送らないことにはどうにも落ち着かない。奥宮さんとのやりとりについては伏せておこう。出だしは、暑中お見舞いの一節、そして蒼葉から話は聞いたこと、今日は僭越ながらリーダー役を務めたが、その大変さがわかったこと、「これまで櫻さんに甘えてしまっていたようで」斯々(かくかく)、「もしかして、ご無理がたたっておつかれに」然々(しかじか)、ここまで一気にしたためて、ふと思いつく。参加or不参加とか、段取りとか、皆で連絡をとりやすくすればあれこれ気を回さなくても済むようになるんじゃ... 本文の結びは、「メーリングリストを作ろうと思うんですけど、どうでしょう?」 いよいよ末尾に来た。ひと想いに綴る。「p.s. 八月十九日は、旧七夕だそうです。櫻さん、当日のご予定は? 織姫様にお目にかかりたい彦星より」 なかなか小洒落た想いの託し方である。手書きじゃないのが惜しいが、「届けたい・・・」その一心が大事。彼女にきっと届くだろう。

 「櫻姉、ただいまぁ」
 まだ髪が潤っている妹を見て「どしたの、川にでも落ちた?」と寝ぼけたようなことを姉は云う。
 「短時間大雨に遭っちゃって。こっちも降ったんでしょう? そうそう、千さんにはちゃんと申し伝えましたから、ご安心を」
 「あぁ、ありがと」
 一人分の即席カフェめしをつつきながら、気のないお返事。ふと思い出したように、
 「今日の面々は?」
 「はい、この通り」
 蒼葉は画用紙を差し出す。
 「この奥宮さんて?」
 「宝木さんの彼女ですって。馴れ初めとかは聞かなかったけど」
 講座の受付で記名した時のことをハッキリ覚えていたので、宝木の方はすぐに思い出した。「奥宮」というのも思い当たるフシがあるようで、
 「気難しそうだけど、テキパキした感じ、とか?」
 「さぁ。千さんとはいろいろ話してたみたい」
 手強いあの人が今日は来なかったことがわかり、「なぁんだ」と気抜けしていた櫻だったが、今度はその一節が引っかかって憂い顔。
 「ま、早くメールチェックした方がいいと思うよ」
 「え、メール?」
 箸を置くや否や、自室に駆け込む姉君。十四時前、ちょうど千歳が送信を終えたところ。以心伝心、グッドタイミングである。
 「千歳、さん... うぅ」
 夏真っ盛りなのだが、暦の上ではあと三日で立秋。櫻の心には早くも感傷的な風が吹いていた。メーリングリスト、旧七夕... どう返事をしたものか。物思う夏、心昂(たか)ぶる夏、蝉が囃し立てるように鳴いている。

 八月の定期モノログはまだ着手できていない。次は弥生宛に自由研究ネタの画像を送りつつ一筆打つ。勿論メーリングリストの提案も添える。例のカウント画面からのデータ送信先はその後テストを繰り返し、今は千歳、櫻、弥生、業平の四人にしてあるが、メーリングリストを設定した暁には、データ送信先をメーリングリスト宛にしようという一計が浮かんでいた千歳は、その辺について開発者にお伺いを立てることを忘れなかった。
 さて、今日のデータは二回に分けてではあったが、蒼葉のケータイから確かに届いていた。いつもなら、このデータを確認した上でモノログの更新作業に入るところだが、今日は先送り。今度はメーリングリスト参加可否のメールの準備に勤しんでいる。お互いの連絡を円滑に、そして何より、自由研究の日のように不意の参加者の登場で櫻を困惑させないためにも、メーリングリストの開設が急がれる。こういうことに関しては器用な彼は、テンプレートで共通の文面をさっさと作ると、そこに個別に表示したい項目(本文冒頭の宛名表示、メーリングリスト登録予定アドレス、通信欄の三箇所)が自動挿入される機能を使って、BCCで同報メール(ちなみに標題は暑中見舞い)を送るのであった。受取人は恰も自分宛に届いたような形になるのがポイント。DMと同じである。送り先は、女性三人に男性二人。少人数なので、別にこんな凝った送り方をしなくても良さそうではあったが、発信時刻に時間差が生じると、特に先輩後輩のお二人さんが「私の方が先だった」とか思わぬ情報交換をする気がしたので、安全策を取ったという訳である。気を遣うのはマネージャーも同じ。気疲れしなければいいのだが。
 もう一人の女性のもとにはケータイメールが入る。「わぁ、千さんからだ」 今日は言い過ぎちゃったかな、と些か恐縮しつつ、メッセージを読む。文末には「メーリングリストの件は、まずはお姉さんに確認中です」とある。「そっか、ちゃんとメールしてくれたんだ。それにしても櫻姉、部屋にこもったきり出て来ないけど、大丈夫かな?」
 蝉は少々トーンを落とし、短くなってきた日脚を惜しむような鳴き方をしている。その声に応じるように溜息をつきながら、櫻はご自分のブログとにらめっこしていた。複合商業施設のレポートを皮切りに、自由研究デーの出来事、地域事情マッピングの可能性など、編集すれば情報誌になりそうなネタの他に、最近は日記風によしなし事を綴ることが増えていた。ブログとしては真っ当な話なのだが、書き綴ることで余計に想念が深まる、ということもあるようで、「橋から干潟を眺めていると、最初に訪れた日のことが鮮やかによみがえってきます」とか「クリーンアップの発起人さんには何かとお世話になってます」とか、誰かさんが見たら心動かされそうなことがすでに書いてあったりして、日に日にブログのサブタイトル通りの展開になっている。メールはもらったものの、お目にかからなかった分、想いは募る。この心理状態で返信すると、突拍子もないことになりそうなので、グッとブレーキをかけて、後日お返事することに決めた。まずはブログで心を鎮めよう、ということらしい。

 かくして「八月病」と題した短文が「咲くラヴ~」に掲載されるに至った。千歳はまだここ最近の櫻ブログは目にしていない。八広からの話を聞いて、見ずにはいられないというのが正直なところなのだが、怖いという気持ちも半分あった。「届けたい」櫻の想いとは裏腹に、まだ届いていない想いがブログには散らばっている。せっかく咲いても、それが人目に入らないうちに散ってしまっては儚いというもの... モノログからもリンクを張れば、古い言い方だが「相互リンク」になる。大して手間がかかる作業ではないのだが、どうやら先になりそうである。