2008年8月5日火曜日

59. 降りつもる、降りしきる


 集合時刻から一時間超が経っている。この天候からしてとっととお開きにしてもいいのだが、そうならないのが、この衆のいつものパターンである。
 「ところで櫻姉、今日はどうしちゃったのよ。いつから雪女になったん?」
 「てゆーか、ルフロンが来ちゃったからでしょ?」
 「舞恵は雨と嵐担当。雪とか霙(みぞれ)は連れてこないさ」
 「ま、これで櫻さんのクリーンアップ降水ゼロ記録もストップね」
 「来週は? リベンジ?」
 「今度の土曜の講座で希望を聞いてみてから、ってことにしてあるけど、間隔空けない方がいいでしょうね。三連休の中日だけど」
 「また雪だったら?」
 「そしたら干潟で雪玉転がしてゴミダルマでも作るワ。それを運び出せば片付く...んな訳ないか」
 マダラ干潟は、霙が降り注ぐうちに半透明ながらも白さを取り戻しつつあった。突起物が隠れるくらいになれば、玉転がしは可能。櫻の作戦、ひょっとするとうまく行くかも知れない。だが、何につけ、晴れてもらうに超したことはない。小春日和となればなおのこと佳い。
 暦の上では春を迎える。耐寒だろうが何だろうが、近づく次の季節の足音を聴きながらのクリーンアップは、きっと清々しいに違いない。凍てつく光景を前にしながらも、顔がほころぶリーダーである。

 こちらはさすがに顔が強張ってきている。カモンのおじさんは、呂律(ろれつ)が回らないながらも、千歳にブログの相談を持ちかける。
 「で、隅田君さ、おかげで、し、ひ、日々の由(よし)無し事を綴ってたら、それなりにたまってきた訳さ。ところが、こまっつぁんがおふみさん経由で言うには、コメントだか感想だかをそろそろ受け付けるようにした方がいいんじゃないか、とか、緑のおばさんもさ、カモンとか言ってる割には、見た目、読み手が入りにくい感じねぇ、とか...」
 「ははぁ、読者からいろいろとご要望が寄せられるようになったってことですね」
 「本と違って、中味どうこうよりも機能とかデザインとかの話なもんだからさ。面食らっちまって」
 「次の土曜日、いらっしゃいますよね? その時にでも」
 「よろひく頼んます」
 「よろひ?」
 「ハハ、寒い方がちゃんと発音できるってのはどういう塩梅だろな。えー、やしろ、しきふね...やっぱダメだぁな」

 掃部先生に言わせると、しさよ先生になってしまうんだろうか。その永代(ひさよ)さんは、元教え子と語らいの時を過ごしている。
 「石島さん、もうすっかりお姉さんていうか。色っぽくなった、って言った方がいいかな?」
 「ヘヘ、そりゃ、あのお姉様方と接してれば。実の姉以上に刺激受けますからネ」
 「なーんか全然、ハキハキしちゃってるし。ほんと、よくぞここまで成長したって感じ」
 「先生は? 最近はどうなんですか? 六月クンの話だと、喜怒哀楽がどうとかって。相変わらず、泣かされてるとか?」
 「アハ、今はね、すっかり健全になったのよ。荒れる子がいたら、まずはちゃんと話を聞くように、それを学校挙げて取り組んでみたの。そしたら、家庭とかその子の住む地域環境とかにも原因があることがわかって。で、ご近所の底力じゃないけど、とにかくお節介だろうが何だろうが、周りでその子に声かけしたり、家族みんなで参加しやすい行事をやってもらったり、あとは地域ぐるみで巡回したり地図作りしたりね。そしたらだんだん...」
 「へぇ、地図?」
 「環境版はグリーンマップって言うんでしょ? こっちは安全安心用。色で例えるならオレンジマップってとこかな。一人で歩くと危なそうなところをチェックしたり、逆に子どもたちがのびのび遊べる場所を強調したり、ってね」
 小梅が筆を振るってきたのは、この接点のためにあったようなものかも知れない。その観察眼、端的な描写力は素質のうちだが、蒼葉直伝の体感アプローチが加わったとなれば怖いものはない。堂々と地域デビューできる筈である。何色のマップでも構わない。彼女の目や表現力がかつての学区で求められようとしているのである。
 「そっかぁ、手伝ってもらえばいいンだ。なんか先生、うれし...」
 「なぁんだ、先生のって喜怒哀楽ってゆーか、泣くネタが変わったってことじゃん?」
 永代の目がうるうるしているのは、霙が目に入ったからとかの外的要因ではない。つまり、ちょっとしたお涙シーンな訳である。が、
 「オイラ、よく怒られるけど...」
 六月が割り込んでくるもんだから、穏やかではない。
 「ホレ、またそうやってぇ!」
 「おぉコワ。鬼の堀之内ナノだ」
 鬼だけどウチ? いや、今はすでに外に居るから... とにかく鬼の件はまた別途。

 先刻から耳をそばだてていた冬木と蒼葉が近づいてくる。三人は幾分見上げるような感じになるが、永代は小梅の顔の上げ方が自分と同じくらいということにふと気付く。
 「ここなら平坦かしら。石島さん、ちょっとアタシと並んでみてくれる?」
 「あ、ハイ...」
 「まぁ、同じくらいじゃないでしょか」
 蒼葉の目測では、二人の背丈は一線。永代は小柄な方なので、中学二年の小梅に追いつかれてもおかしくはなかった。
 「ここ一年、特に夏頃からまた伸び出して... エヘヘ」
 快活さを取り戻したのに合わせるように、背も伸びたということになる。逆を言うと、それまでは伸長を妨げる事情があった、ということか。
 「てことは、小学校の頃の背の順は?」
 「小梅、小っちゃかったんです。前から二番とか三番とか。しかも弱虫だったから、今思うと、イジメに近いことされてたな。だから、高学年の頃は、あんましいい思い出ってないの」
 どの程度、荒(すさ)んでいたかは推測しかねるが、永代も一緒に泣いていた、というくらいだから、いわゆる学級崩壊のような現象に見舞われていた可能性は高い。
 「あん時はアタシも挫けちゃってね。力になれなくて、本当ゴメン...」
 「いえいえ、そんな。当時はそれでも先生が頼り。いろいろとありがとうございました」
 「え? 初姉さんとか、支えてくれなかったの?」
 蒼葉は専らインタビュアーである。
 「お姉ちゃんはただ怖い存在でした。ピリピリしてて近寄りがたくって。だから、あとは中学に入るまで我慢我慢、って感じ。でも、期待してた割にはそんなに変わらなかった、な...」
 こうなってくると相槌は無用。とにかく話したいように話してもらえば、それでいい。
 「塾は好きだったんです。で、そのおかげでここに来れて、皆さんと出会って...」
 いつしか、櫻、舞恵、千歳、清の四人も集まっていて、かつての弱虫さんを優しく囲んでいる。
 「今では学校でも怖いもんなし。クラスでも姉御って言われてます。ヘヘ」
 いつしか霙は弱まり、再び軽やかな粉雪に戻っている。そして音を立てずに積もっていく。それは彼女の痛々しい過去を癒すように、そっと、そっと...

 感極まった永代は、幾条(いくすじ)も涙を流しながら、ただただ頷く。千住姉妹はもらい泣き。ルフロンも目頭を押さえている。千歳はやはりこみ上げる何かを感じていたが、それは感情的なものよりも、観念的なものだった。「荒れるのは子どもたちだけじゃない。大人だって、社会だって。そんな心の荒れがゴミの投棄や散乱を招くんだとしたら...」
 その延長で思い出すは、五月に櫻と話したこと。「自分さえよければの成れの果て、って櫻さん言ってたっけ」 初心忘るべからず、と肝に銘じる発起人であった。
 学級が立ち直ったのは、地域の眼差しやつながりのおかげ。とすると、散乱・漂流・漂着ゴミについても、同じことが言えるのではなかろうか。センターでの月例講座、クリーンアップ&グリーンマップは、順序はさておき、やはり大いに連係されるべきテーマであることを千歳は確信する。地域の関わりが何よりの抑制策になるであろうこと、その関わりを取り持つのがマップなら、関わりを実感するのが現地行動、つまり調査型クリーンアップ、ということ。櫻はグリーンマップを思いついた時からこれと同じような着想を得ていたが、As-Isレベルで良しとしていたため、それ以上の策は練っていなかった。先月の協議でTo-Beの話が出て、ようやく積極策(または抑制策)につながる活用法を見出した段である。
 来る講座では、環境行動の一手法としてのクリーンアップを話すつもりでいた櫻だが、翌月のマップ講座と関連付けて、地域行動の側面も打ち出すことを思い至る。仮に探訪部会のテーマとして「地域再発見」を標榜するのであれば、地域の良さを見つけるということ以上に、地域と自身の関わりを発見してもらうことに重きを置くのもいいだろう。その関わりこそが何よりの予防につながり得る。法人名の略称「イイカンケイ」、そのものである。永代と小梅の語らいは、今後の取り組みの主題を導くこととなった。この貢献度は決して小さくない。
 まだ涙目ではあったが、千歳と熱い視線を交わし合っているのは、恋心というよりも、いつもの以心伝心が働いているため、である。声にはしなくとも、相通ずるものを感じる。これをいい関係と言わずして何と云おう。

 清、冬木、舞恵は何やら立ち話をしている。かつての喫煙者、現役喫煙者、年改まってから禁煙を始めた女性という組合せなので、タバコ談議をしていてもおかしくはない。目に見える煙は立っていないが、その是非を巡って結構な口論が展開されていて、今にも煙が立ちそうなほど。一方、他の六人は一斉に息を吐くと、そこに煙霧が立ち込めるが如く白々とした中にいるが、煙たい話は一切なし。話題は春の房総の旅について、である。
さ「卒業式後、春休みの平日ってなると、二十四日ってことになりますか」
む「オイラ、イベント列車に乗りたかったけど、工場が休みじゃ意味ないんだよね」
あ「なら、六月君は泊りがけにしたら? 土曜日曜だったら乗れるんでしょ?」
む「二十二日に快速列車が。でも、全車指定だし、朝早いし... だいたい、一人で土日泊まり?」
ひ「お兄さんがいるじゃない?」
あ「っても、千兄さんは櫻姉さんと一緒だから」
 千歳、櫻ともに、「ハハ...」 って泊まりで出かけるつもりだったのか?

(参考情報→春の行楽列車~内房線の場合

さ「せっかくだから、東京湾の外側の海辺を見に行けたらなぁってのはある。どう?」
ち「外湾ってこと?」
さ「確か富津岬を越えた辺りの最初の... 六月君、知ってる?」
む「東京近郊はだいたい頭に入ってるけど、近郊の先はちと怪しかったりする」
こ「上総湊とか浜金谷とかは家族で何年か前に行ったけど... そっち方面?」
 上総湊とはまた渋いところに出かけたものである。湊のトーチャンが名前つながりで寄り道した、とも考えられるが、外湾に出やすい駅の一つであることも事実。
む「オイラ、調べてみる。その岬から南で、海の近くの駅だよね」
さ「よろしくネ。じゃあ二十四日を第一候補にして、メーリスでまた呼びかけるとしますか。小松さんにも来てほしいし」
 春の内房、花と海... 想像するだけで暖かくなってくる。束の間ながら、寒さ和らぐひとときを得る六人。ただ、千歳にとっては花粉症に悩まされる時節というのがお気の毒様である。
 「マスク着用で、春の海辺か。冴えないなぁ...」
 漂着ゴミの調査ということであれば、その方が調査員ぽくていいとは思うが、どうなんだろう。

 マスクが呼び水になったか、調査員モードの千歳はいつものようにガサゴソやり出すと、マイカップならぬ「マイ枡」を取り出した。
 「拾い物じゃございませんよ。ちょっとした縁起物です」
 「て、隅田さん、雪見酒でもやるつもり?」 永代先生が軽くツッコミを入れると、
 「そっかぁ、こういう時は熱燗(アツカン)って手があったなぁ」 もう一人の先生がトボけたことを云う。
 「いえいえ、櫻さんがね、いいものを持って来てるはずなんで」
 「あ、そうだ。忘れてた」
 文花から頂戴した福豆を、そのやや大きめの枡に注ぐ。
 「ま、これで鬼ごっこすればあったまるでしょ? ネ、千歳さん?」
 「?」
 用具を提供したのに、再び追われる立場になってしまう千歳である。
 「櫻姉、ズルイ! 私も」
 枡は一つしかないが、入れ物ならいくらでもある。蒼葉は雪を盛っていたトレイに今度は豆を載せ、参戦。小梅も撒く側に加わる。舞恵は半ば呆れつつも、
 「ホラ、エド氏もよ。煙を出す人は撒かれてらっしゃい」
 いつの間にやら、六月も豆を分けてもらっていて、すかさず担任にぶつける。
 「鬼は外! 堀之内!」
 「やったなぁ!」
 「うへぇ、これじゃいつもとおんなじだ」
 何故か退治される方が退治する方を追っかける展開になる。だが、これは学級で繰り広げられているのと同じ光景のようである。
 おじさん先生の方は、そんな鬼ごっこを悠然と見物していたが、舞恵と一言二言話していたら、不覚にも流れ豆の洗礼を受けてしまった。
 「ハハ、カモンのおじさん、大丈夫?」
 「ま、鬼みたいなところはあっかも知んねぇけどよ、年寄りはいたわってもらわねぇとな」
 とか言いながら、雪球を一つ二つ作って早くも応戦。気が付けば、豆だ雪だで大騒ぎ。何となく紅白戦のような陣形になっているからまた可笑しい。こう見えても平和主義者のルフロンは、雪ダルマの陰に隠れて、愛想が良いようなそうでないような顔をしながら観戦している。
 「たく、滑って転んでも知らんぞい。ねぇダルマさん? っとと」
 豆が転がってた訳ではなさそうだが、思わず足を取られるルフロン嬢。ダルマさんが転んだら、それこそシャレにならない。

 ゴミを散らかしてしまうのは、悪い鬼に憑かれているからだと考えると、この豆まきで少しはお祓い、つまり予防になるやも知れぬ。
 「いい運動になったし、スッキリしたワ。これでゴミも減ってくれれば言うことなし!」
 「櫻さんにはかないません」
 「ホホホ。では皆さん、またセンターでお会いしましょう!」
 十一時半を回り、本日の下見、いや節分会、いやいや合戦? 何はともあれ、干潟での行事はこれにて終了。

 永代先生は教え子達を連れ、駅方面に向かった。掃部先生は、再び雪面ライダーに変身して、颯爽と、いや怱々(そうそう)と、ま、とにかく走り去って行った。
 冬木は雪景色を記録するんだとかで何となく残っている。今日はここまで珍しく口数が少なかったが、ようやくいつもの調子で話しかけてきた。
 「ところで今日、彼、宝木さんは?」
 「あれでも夏男なんで、寒いのが苦手なんスよ。雪が降ったらパス、って予告してましたし」
 「そっかぁ、彼にちょっと話したいことがあったんだけど...」
 「ま、この舞恵さんでよければ、承りますことよ。八クンのマネージャー、いや、世話人て自認してますから」
 来場時もご一緒だったが、ここへ来てまた二人して... 千歳と千住姉妹は、ヤレヤレといった面持ちながら、気を遣って距離を置いてみる。
 「はぁ、八クンを。それって、ハンティングみたいなもんスかね」
 「えぇ、彼にその気があれば、ですが」
 春に向け、ちょっとした動きがまた一つ。チームを率いるだけのことあって、実は面倒見のいい人物だったりするのである。そんな冬木はさらなる申し入れを試みるべく歩み寄る。
 「で、これは櫻さんにお尋ねなんですが、今度の土曜日、取材を兼ねて講座に出させてもらえたら、と。構いませんか?」
 「来月の情報誌ネタってことですね。載る前にチェックさせていただけるなら」
 面倒見がいいのは、勿論自分自身も含めて、である。そうした抜け目なさは、櫻も重々承知しているので、断るには及ばない。だが、昨年来、ゴミにまつわる記事の比重が高くなっているような気がするが、それでいいのだろうか。
 「春先からは、エンタメ系とかファッションとかも採り入れる予定なんで。ま、引き続き皆さんにはお世話になると思いますが」
 少々含みのあるご発言だが、期待しないで(?)待つとしよう。ソーシャル某とどう結びつけるのか、その辺も見所である。

 合戦場(かっせんば)に散りばめられた足跡を埋めるように、強めの雪が降りてくる。干潟も銀世界と化した時には、もう誰も居ない。
 そして路線バスの車内には、車線を挟んだ先、干潟を見つけようと目を凝らす四人が居る。漂着物も何もあったものではない。ただ、雪に霞む真っ白な川景色が広がるばかり。さっきまでその白の中にいたことがどうにも信じ難い。急に肌寒くなってきた。
 「この雪じゃ豆まき行事もお預けかしらん?」
 「何よ、ルフロン、豆まきしたかったの? 言ってくれれば...」
 「ウンニャ、撒く方じゃなくて、キャッチする方をネ。ま、そうは言っても行員となると、協賛品を撒く側だから、まずありつけないんだけどぉ」
 「ま、いいじゃない、今日はおとなしく、音楽会♪」
 「おとなし? それじゃ音楽会にならんさ」
 いったいどんな会になるのやら?

 かくして千住宅に新たなゲストが招かれ、昼食もそこそこに、午後は別棟(はなれ)でセッションが繰り広げられる。舞恵のハミングを櫻がピアノで拾う。千歳はそれを聴きながら、ドラム、ベース、ギターと頭の中で重ねてみる。音世界が拡がり、やがて波や潮の動きが感じられるようになってきた。SE(sound effect)で実際の音を入れるのも悪くなさそうだ。だが、何よりもピッタリ来るのはパーカッション。舞恵の意図は正にそこにある。
 「どう? ボサノヴァ調にできればなおいいなって」
 「へ? ボサボサ調?」
 「櫻姉ったらぁ。舞恵の自信作なんよ」
 「ゴメンゴメン。で、タイトルは?」
 「そうねぇ、新作だからヌーヴォーってのを入れたいとこだけど、ボサノヴァでフランス語って変よね?」
 外は雪だが、中では温暖な水辺が再現されている。水辺、川辺、いやその心は、
 「八クンとも相談するけど、やっぱ何とかビーチかな?」
 「干潟もビーチのうち、だもんね。つまりhigata@のテーマ曲? じゃ、歌も皆で?」
 「それもアリだけど、メインはお二人さん。デュエットなさいな」
 「ルフロン...」
 舞恵はアーティストではあるが、なかなかの役者でもある。縁結び役という意味では、二人の方が謝意を示さなければならないところだが、彼女に言わせると、
 「舞恵からの気持ち。二人のおかげでいいこといろいろあったんでネ」
 そういうことなら、余計にしっかり歌のレッスンに励まねば。だが、詞がないことには仕方がない。とりあえずハミングしながらの音合わせとなる。
 受け持つパートについて二人がどうこうやり出したので、自称アーティストさんは、アトリエをブラブラ。暗がりで立てかけたままになっている油絵が何枚もあることにふと気付く。
 「ひょえー、これって...」
 蒼葉画伯の作品に目をパチクリ。その一枚は、かつての漂着静物画をモチーフに、油彩で描き起こしたものだった。そのインディゴのようなラピスラズリのような深い青に深く溜息。アーティストならではの感性が働いたか、画からはメッセージめいたものが聴こえてきて、止まない。同じ水辺でも、視点が違うと訴えるものも変わってくる。それにしても...。
 舞恵はこの日、この一品を拝借し、静々と帰って行った。受けたメッセージに対する答えは、いずれ何らかの形で披露されることになる。

 アトリエでは、引き続きピアノが清らかに流れていた。およそ半年前、櫻が八月病を患っていた頃から暖めてきた「新曲」である。
 「何だか泣けてくるねぇ」
 「千さんだけに、センチになっちゃった?」
 だからと云って、曲名がセンチな某になることはない。作曲者は当時を想って「晩夏」の二字を入れる一存だそうな。詞の方もその線で練っている最中だと言う。冬から春にかけた時節に、夏から秋に得た情感を歌にするというのは難しそうではあるが、逆に想像力をかき立てられるので好都合。そして晩夏に深めたその想いを分かち合いたい人が今、傍にいる。これ以上ないシチュエーションで、櫻は新曲の完成度を高めていくこととなる。 雪は止んだが、二人の心にはどこか雪のような、純粋で軽やかな何かが舞い、降り頻(しき)っていた。