2008年1月15日火曜日

27. 嗚呼青春、十八切符之旅


 台風一過、九月九日は、この上ない上天気となった。青春18きっぷというのは、二人以上で使う時は、同一行程で動くのがルールなので、出発駅が異なる場合は、どちらかの駅に合わせないといけないのがネックであり、メリットでもある。「これも千歳さんのトリックかしら」とか言いながらも、櫻は軽やかに自転車を飛ばしていた。待合せの駅へは徒歩で行けなくもないが、これまで数度、彼のマンションのゴミステーションに同行しているため、勝手知ったる何とやら、自転車を内緒で駐めさせてもらうつもりでこうして走っているのである。(弁当を用意するのに手こずって出発が遅れた、というのが元々の理由ではある。) 橋を渡っているとどうしても干潟に目が行ってしまう。「一昨日の台風、それに増水、どうだったんだろ?」 グランドに溜まった水がまだ退けてないこと、枝の束がグランド脇などに積まれていること、など大まかなところはわかるが、眼鏡の具合があまりよろしくないらしく、干潟が再水没して、ゴミがまた大量漂着(いや沈着か)したことまでは、どう凝視してもつかめないのであった。兎にも角にも、今日のところはクリーンアップの件は二の次。三十路であっても青春気分(?)に浸れる十八切符の旅、これが本題である。
 よくよく考えると、朝の待合せは早くても九時台というのがこれまでの二人。今日は新宿を九時六分に出る「ホリデー快速」に間に合うように動いているため、正しく「おはようございます!」の時間に顔を合わせている。六月君から仕入れた情報によると、「人気があるようなので、出発二十分前には着いてないと」となり、余計に早くなっている。
 かくして、その二階建て車両の二階席に無事落ち着き、出発を待つことになる。この列車、山梨方面に行くのがウリなので、小淵沢まで行って、小海線のハイブリッド車両「こうみ」に乗ってみる、という選択肢もあったのだが、「それだと、清里とか野辺山とかに行って戻ってくるだけですもんね」ということで、当初予定通り、荒川の上流とか中流とか、何でもいいからぐるっと廻って戻ってくるルート、で落着した。
 九時十九分に三鷹を出ると、下り列車は高架線を走る。東京西郊はふだんご縁がないので二人して、「ありゃ、いつの間に?」となる。新たに見渡せるようになった南側の風景は、二階席ということもあり、より広がりを感じさせる。この方角は山らしい山もない。「ビューやまなし号」とはよく言ったものである。
 higata@の方は、lefront@さんと、edy@さんが加わって、何となく賑やかになり、下見を兼ねた打合せの件も思いがけない提案から、より盛大なものになりそうだった。
 「私、荒川の船下り、初めてなの。千歳さんは?」
 「隅田川を走る水上バスには乗ったことあるけど、荒川はないねぇ」
 二人の眼下には、台風増水に見舞われた後の浅川が流れている。川を見ていると、どうしても地元の話題になってしまうのだが、降車駅が近づいてきた。
 「なぁーんだ、四十分弱で着いちゃうの。ホリデー快速だから、のんびり走るのかと思ってたのに」
 ツッコミどころではあったが、千歳は「なるほどねぇ」とか言っちゃってのんびりしている。
 「弥生ちゃんのツッコミ、見習ったら?」
 「ビューっていうくらいだから、速いんだよ」
 ワンテンポずれている千歳だったが、下車するのは早かった。これぞビュー状態(?)である。九時四十四分、八王子着。ここから荒川上流方面をめざす訳だが、ローカル線の旅はビューとはいかない。
 「はぁ、乗換、三十分。駅前、散歩しますか?」
 探訪が趣味の千歳、地域のネタ探しがお好きな櫻。趣向が共通していると、こういう時、バタバタしなくて済む。それにしてもよく晴れたものだ。
 「櫻さんて、やっぱりハレ女?」
 「そういう千歳さんは? ハレ男、いや、ハレ王子かな」
 確かにここは八王子だけど... いつもながら、舌好調の彼女である。

 次は十時十五分発、川越行きに乗る。
 「あら? ドア閉まってる」
 「どうぞ、櫻姫」
 千歳はドア横のボタンを押して、乗車を勧める。ドアの開閉はセルフ式。八高線ではこういうエスコートができるのがポイントである。
 箱根ヶ崎~金子~東飯能と北へ向かう車窓の眺めは、森や緑が目立つ。先刻までは雑談中だったが、今は黙々と景色を楽しむ二人。入間川に差し掛かった。悠長にも犬を水浴びさせている一行がいる。
 「ここも増水したんでしょうね。今また水が来たらどうするのかしら?」
 「漂流犬になっちゃうのがオチ...」
 「笑えないんですけどぉ」
 小宮~拝島間では多摩川を渡っていたのだが、うっかり見過ごしてしまった。その分、この入間川に注目が集まった訳だが、犬に話題をさらわれているようではまだまだである。
 さて、時刻表(ケータイではなく、あくまで冊子)で、ある程度の乗換なり接続なりを調べておいた千歳は、高麗川から先へ乗り継ぐまでの空き時間を見越して、
 「じゃ、このまま武蔵高萩へ」
 「あら、ここで乗り換えるんじゃ...」
 「次の高崎行きまで、四十分空くからね。一駅行ってまた戻って、てのはどうかなと」
 「高麗川で曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が見頃って聞いたけど、ここじゃないの?」
 「その巾着田(きんちゃくだ)までは、徒歩で片道四十分なんだって」
 「まぁ、よくお調べで」
 という訳で、列車主体の旅は続くのであった。千歳としては曼珠沙華も悪くはなかったが、「この天気、この気温じゃあね」というのもあった。帽子を被っていない櫻が、このカンカン照りの中、外を出歩くとどうなるか。まして、お顔が日焼けすることにでもなったら。
 「櫻さん、日焼けすると、眼鏡の跡とかってつきませんか?」
 「現場出るときは一応帽子被ってますからね。この間はルフロンのおかげで曇り気味だったから、被らなくて済んだけど」
 眼鏡が気になる千歳である。彼女は彼氏の前ではまだ、眼鏡を外していない。

 かつてはローカル色豊かな小駅だった武蔵高萩。今はちょっと立派な駅舎になっている。
 「北があさひ口、南は『さくら口』!」
 お誂(あつら)え向きの「さくら口」を出ると、小さな駅前通りが伸びていて、両脇には桜らしき並木が青々と葉を揺らしていた。
 「千歳さんたら、ここに連れて来たかった、てこと?」
 「いえいえ、偶然ですよ。むしろ櫻さんに招かれた感じ」
 「正直ねぇ。こういう時は多少見栄張ってもいいのに」
 そうは言っても嬉しそうな櫻は、「ブロマイド写真、お願いします!」と来た。題して「桜の木の下の櫻さん」。これはまた絵になる。
 「拡大プリントして貼ろっかな」
 「じゃ、出演料頂戴っ」
 並木道を往復すると、ちょうどいい時間。十一時三十八分発の川越線で再び高麗川へ。そしてここからが本日のメイン行程となる。ディーゼル列車に揺られての旅、時間にして百分である。
 ディーゼル列車は、対面式の二人席が設けてある。夏休みが終わり、行楽客も少なめのようで、難なくその一席を得た二人。「向きは交代交代で行きますか」 これまたカップル向きの設定である。八高線の評価は上々となる。
 十二時二分、明覚(みょうかく)で席を交代したら、お弁当の時間である。このクロスシートの欠点は、折り畳みテーブルとかがないこと。だが、櫻手製のデリランチにテーブルは要らない。数種類のパテネタをパンに乗っけて頬張るだけ。副菜の豆サラダは別の器に小分けしてある。
 「お昼、すっかりお任せしちゃって、すみません」
 「いやいや。18きっぷ代を考えれば安いものです」
 「じゃ遠慮なく、いただきまーす」
 車窓を流れるのは、より傾斜のある丘陵、より深い森林。時には竹林、あるいは、暑さにうだるヒマワリ畑。二人の会話もゆったりと流れていく。折原に着く頃にはお昼は食べ終え、再び座席交代。この後、通り過ぎる荒川を撮影するには、この進行方向席ならバッチリである。
 十二時二十五分。ここは荒川の中流か上流か。多少徐行しながら列車は橋を渡る。程よい蛇行、白々とした中州、濁りが残っている観はあるが、総じて清らかな流れである。サギがウロウロしているのは川魚が居る証しか。
 「台風の時ってどうだったんでしょ?」
 「九月七日の朝四時とか五時とか、四メートル近くあったんだそうで」
 「じゃ、あの河原とかも水没?」
 「蛇行してるどこじゃないでしょうから、川幅全部使って、ゴーッて、ね」
 話はそのまま地元の増水状況に。
 「河川事務所の情報だと、七日の夜から八日の早朝にかけて、五メートル前後にまで増水してたみたい」
 「エーッ、そんなぁ。じゃ、干潟は?」
 「八日の朝に一応見に行ったんだけど... モノログに載せるのはちょっとどうなかって」
 「皆、ガッカリするからってこと?」
 「干潟の方は水位が下がった後じゃないとわからないけど、とにかくグランドの脇とかにも漂着ゴミが散らばってて、その...」
 寄居を過ぎ、今はのどかな田園風景の中を走るディーゼル車。言葉少なの千歳に対し、櫻はエールを送ってみる。「現地情報は皆で共有しなきゃ、ね?」
 後日、視察しに行って、グランドと干潟と、とにかく増水後のあるがままをモノログに載せる、ということで話はまとまった。会話は通常モード(?)に戻る。
 「それにしても、『用土』って、どうよ?」
 ここは彼女に一本か。いやいや、彼も負けてはいられない。
 「土用が丑なら、用土はウマ?」
 「マイナス1,000点てとこスね。せっかく今日で20,000点だったのに、あーぁ」

 あと二十分弱で終着。県境を流れる川を越える。
 「これって利根川?」
 「神流川(かんながわ)、だそうです」
 「川の神様に出会える場所、かな?」
 短冊に込めた願いを再び思い出す櫻。心の中で「ありがとうございます」と呟く。そんな彼女の想いも乗せて、列車は快走する。そして百分後きっかり、十三時五分、高崎に到着。ローカル線の旅は続いているのだが、急にあわただしくなる。
 「同じホームの四番線て何スか?」
 「とにかく急ぐべし。乗換時間二分です」
 「エッ! ホームの端から端? マジ?」
 何とか信越本線に乗り換える。めざすは横川である。
 「いっそのこと、高麗川から横川まで直通運転にすればいいのに」
 「いや、高崎までは非電化だから」
 「あれ? これって電車?」
 「せっかく電化されてるんだから、電車走らせないと、ね」
 停車本数は少なかったかも知れないが、かつては特急列車も停まった安中や磯部。何となく陰翳漂う佇まいながら、JRの本線駅としての威風のようなものが感じられる。特急が通らなくなって久しいが、駅も線路も健在。今日も堂々と電車は走る。普通列車ベースの路線はいい意味でスローに通ず。横川までは三十分余り。この程々な感じがまたいい。

 十三時四十分、横川に着く。降りる客はまばら。折り返しに乗り込む客もまたまばら。客が少なければ、なおのこと。ましてやここはローカル線。だが、しかし、である。釜めしを大事そうに抱えた見慣れた少年が近づいて来るではないか。
 「やぁ、六さんじゃございませんか!」
 「あれれ、千さんと櫻さんだぁ」
 「どったの、六月君。18きっぷツアーって夏休み中にしなかったの?」
 「へへ、江戸東京博物館の『大鉄道博覧会』を優先することにしたんで。あと、八月って皆考えること同じだから、結構混むんですよ。だからずらしたんだけど...」
 六月としてはお二人さんがここにいることの方がずっと不思議だった。
 「そっか、先週ホリデー快速がどうのって、千さんがおかしなこと聞くから何だろうって思ってたんだ。デートだったんだぁ」
 「千さんがね、どうしても私と八高線乗りたいって言うから」
 千歳も六月もこれにはお手上げ。
 「ハハ、ま、そういうことです。でも、この後はどこ行くの?」
 「特命ですよ、特命。両毛線乗って、さらに烏山線...」
 「じゃ、特命ついで。一枚撮ってくださいな」
 櫻は六月が提げていた釜めしを預かると、代わりに千歳のデジカメを手渡す。そして、
 「あ、千歳さん、こっちこっち」 横川の駅名標を見つけて並んでみる。ただの標示板ではない。峠越えの眼鏡橋を背景に「横川」と書かれた幻想的な一枚。さすが、目の付け所が違う。
 「じゃ撮りますよ」
 少年が構えた時、櫻は突如、眼鏡を外した。
 「え? あれが櫻さん?」
 手がブレそうになったが、何とか撮影(特命)成功。隣の彼氏が異変に気付いた時にはすでにいつもの櫻に戻っていた。鈍さ加減は相変わらずである。
 「六月君も証拠写真撮っておかないとね」 撮影係を申し出た櫻は、峠の釜めし屋の前に少年を立たせる。文花はまた別かも知れないが、蒼葉と舞恵には確実に憧憬感情を持っているこの少年。ここに来てまた新たな対象が現われたことで、どうもぎこちなくなっている。
 「ホラ、肩の力抜いて、そうそう」 釜めしの重量に任せて、手をダラリ。ちょっと冴えないが、自然な感じで撮れたようだ。
 発車時刻が近づいてきた。「じゃ今度は十七日、ね?」
 「は、はい」 硬さがとれていない。いつもの六月と様子が違うので、千歳が正気付けてみる。
 「そうそう、六月先生。高崎線でオススメの駅ってどっかあります?」
 「神保原(じんぼはら)のホームに面白いものありますよ」
 そう告げたところで、ドアが閉まった。「神保原、てか?」
 普通電車は少年を乗せて高崎へ。車内で釜めしを食べる予定だったんだろうけど、青空に映える妙義山なんかを眺めながらボーッとしている。お熱いうちにどうぞ、と言いたいところだが、外も暑いから仕方ないか。この日この時、実に三十度超である。

 横川に来たからには、碓氷峠鉄道文化むらに行かない手はない。展示館、資料館と気の向くままに見ていたら、二時間近く経っていた。十五時五十四分、横川を発つ。嗚呼青春の鉄道旅行は、ここから帰路となる。
 十六時半。千歳と櫻は高崎を出発。六月は同時刻、小山を出たところである。高崎から宇都宮まで直通する列車を選ぶあたりはさすがだが、鉄道文化むらに少々ハマってしまったのが誤算だったようで、もう一つの特命の方がギリギリになってしまっていた。
 「この大金駅での三分間が勝負!」 はてさて小梅嬢は彼に何を頼んだのだろう?

 朝方のビューのようにはいかないが、今二人が乗っているのも一応快速列車。ただ、熊谷までは各駅停車なので、スローな感じである。このまま乗って上京してもいいのだが、六月からまた耳寄りな情報を得たからには、そうはいかない。
 十六時四十五分、目的駅に到着。早速、ホームの物色を始める。
 「あっ!」 程なく二人が見つけたもの、それは七福神だった。大黒天様から毘沙門天様まできれいに並んでいる。神保原の神は、この福の神に通じるということか。
 「それじゃ私は、ご縁がありますよーに、で五円玉。千さんは当然、千円札ね」
 「またぁ。七福神さんだから、七円かな」
 額面とかその根拠はさておき、何事もご縁は大事にしたい。ここで遇(あ)ったが何とやら、である。「いい旅でした。感謝感謝...」 櫻がお辞儀をしている後方で、千歳はある赤い花とにらめっこしていた。「上里(かみさと)町の花『サルビア』!?」 夏は過ぎしも、誰かさんの燃える思いはまだ続いているのだろうか。今日の暑さもあってか、さすがに瑞々しさはないものの、その赤はやはり強烈。南実のことが頭をよぎる千歳である。これもご縁のうち、と心したい。
 「そうだ、千歳さん、写真撮らせて」
 「どしたの急に」
 「七福神の皆様と一緒よ。いいでしょ?」
 「はいはい。八番目ね」

 十分後、普通列車が入線してきた。四人掛けのクロスシートに横並びで座る二人。ちょっとした打合せにはもってこいである。デートと言えども、この話題がないとやはりしっくり来ないようだ。櫻は、先週のうちにまとめておいたという実施手順と注意書きのラフ案を取り出す。「千歳さん、赤入れお得意でしょ。よろしく」
 公務員というだけのことはあって、なかなか高度な文書に仕上がっている。「とすると、あとはフローチャートか」 より視覚的に手順がわかるようになっていれば、さらに完成度が上がると踏むマネージャーであった。傍らで櫻は、安心したような穏やかな表情でスヤスヤと眠っている。カーブが少ない高崎線、その適度な揺れ心地が良かったようである。
 熊谷から先もひたひたと各駅に停まって行く。荒川の流速は電車には及ばないだろうけど、各駅くらいのスピードの方が荒川と並行して走っている実感も得られるというものだろう。熊谷辺りから荒川との並走が始まる。川と線路は近接している訳ではないが、感覚的にはそう言い得る。熊谷近辺でも七日の早朝は五メートル超の水位を記録したと言う。平静を取り戻した荒川は今、西日を集めながら、ゆっくりと流れていく。櫻の夢の中でも、同じように川の流れが映っていた。列車は大宮の手前辺り。そろそろ夢から覚める頃合い。

 同じ頃、六月君は烏山線の大金(おおがね)駅で特命を遂行中だった。十七時五十五分、無事同駅に着くも、その三分後には、烏山から来た上り列車に乗り換えなければならない。制限時間は三分、その間に、大金宝積寺(ほうしゃくじ)の硬券切符をゲットしようという離れ業である。「ハハハ、間に合ったぁ」 縁起モノを入手するのは大変ではあるが、労苦を伴うからこそありがたみも増し、然るべき報いも出て来るのである。特命を完遂し、こちらもスヤスヤ。だが、この上り列車は残念ながら宇都宮止まり。六月の乗換はまだまだ続くのであった。

 十八時過ぎ、高崎線組は大宮に到着。新宿を出てから、十時間近くが経過。日は落ちて、秋の空気がホームを満たす。
 「私、四十分も寝てたんだ。デート中だってのに、ねぇ...」
 「僕が連れ回して、おつかれモードにしちゃったから、かな?」
 「今ね、おぼろげだけど川の夢、見てたの。何か癒される感じだったなぁ。なんで、別におつかれじゃないですよ」
 二人が出逢って、五ヶ月余り。お昼を一緒に、というのは何度かあっても、夕飯については何と今回が初。記念すべき一大事だと思うのだが、両者ともに素っ気ない。エキナカというのは、その駅の地域性とは無関係かつ無個性だったりするものだが、今日のところはその利便性を享受すべく、カレーで済ますことと相成った。
 彼女曰く、「彼氏とカレー、なのだ」 ツッコミどころをまたしても逸してしまうところだったが、「櫻さんはサフランライスがお好き?」 何とか応酬する彼氏。これじゃ二人ともボケ役である。
 「例の曲、その後どうですか?」
 「えぇ、ボチボチ。明るめの方は、マスターしました。もう一つのダンサブルな方は、つい聴き入っちゃって、まだ途中です。へへ」
 「まず一曲、どこかで鍵盤叩いてもらって、PCに取り込むのやってみたいですね。メロディラインをデータ化するとどうなるのか、楽しみです」
 「タイトルは付けました。サビの歌詞も少々」
 と言っておきながら、それはまたのお楽しみ、とはぐらかす。
 「千歳さん、来月お誕生日でしょ。その時にお披露目ってことでいかが?」
 七夕の時もそうだったが、これが櫻ならではの発想&演出なのである。決して甘口なカレーを食べている訳ではないのだが、気分的にはすっかりマイルドになっている千歳なのであった。

 さて、お二人の利用駅が異なる場合、18きっぷというのは使い勝手が悪くなる。千歳は櫻サイドに従うつもりでいたが、「いえ、私が...」と来られては、返す言葉がない。
 ドキリとするも、あえて理由は聞かなかった。櫻は自転車に乗って帰らないといけない。だが、それは彼の知るところに非ず。
 「櫻さん、夜道を歩いて帰るのって、ちょっと...」
 「え? 送ってくださるの?」
 「いやその...」
 拙宅にお招きする、というのはまだどうもなぁ、と彼氏は大いに躊躇(ためら)う。櫻もその辺は十分察知していたが、自分からは言い出せない。ここは一つ正直に、
 「実は自転車で来てまして。ドキドキさせちゃって、スミマセン。でも...」 ここからがまた実直な気持ち。「いつかご招待くださいネ」
 彼氏はいろんな意味でへなへなになっている。彼女はさらに仕掛けてみる。
 「千歳さん、今日は楽しかったです! また何処か...」
 仕掛けたものの思わず言葉に詰まる。こうなるとあとは勢い。櫻は両手で彼の手を握る。
 「櫻さん...」
 七月七日、九月九日、数字並びの日にドラマが深まる感じである。となると、次は十一月十一日。何かが起こりそう? いや、それがわからないからドラマは成り立つのである。

 十九時四十六分。快速に乗ってきたとは言え、この時間である。少年はやっとの思いで大宮に着く。18きっぷは明日まで。この日、きっぷを無事消化できてホッとした旅行者は他にも大勢いる筈だが、六月君の思いはまた格別だろう。「高崎・信越・両毛・烏山・宇都宮...」 ぐるっと廻って、ミッションをこなし、証拠写真まで撮ってもらった。彼のリュックには、空っぽの釜めし容器が入っている。空でもズシっとしたその感覚は更なる充実感を掻き立てて、止まない。